6-2
「これから行くのはグライナー家だ。家長はフェルディナント・ノイヘン・グライナー子爵。ノイヘン村を治める貴族で、時の竜騎兵に娘のアラベラが天使として在籍している……って、聞いてんのかテメェ」
「んー」
揺れる馬車の中、ツバキは足元に転がったまま返事をする。
「今回、時の竜騎兵に子爵から依頼があった。何でも先週からグライナー家の使用人が毎日のように変死しているのが屋敷で見つかっているそうだ」
「ん……」
変死、この言葉にツバキはむくりと身体を起こした。
ジオンは会議室でシズマからツバキの学園での戦闘報告を受けた時のことをふと思い出す。次いで思い出すのは白い狐面をつけた青年の姿。
「テメェなぁ……」
なんだかんだ言っていても彼女は事件が起きた時だけはすぐに動くのだ。
ローザ至上主義を貫徹しているが、彼女は他人に対する優しさを棄てきれないのだろう。
かつてはそれを暴走させてしまったがために惨事を引き起こした。だが、その心根にあるものは昔も今も変わらない、不器用な優しさだ。
「どうせ街の見廻りとか壁の点検とかだろうと思っていたのだけれど、そういうことなら早く言って」
椅子に座り直したツバキは足を組むと、続きを促す。
「悪いが、これだけしか情報がねえんだ。後は現地で聞くしかねえな……」
「そう。……ところで、私今回初任務なんだけど、普通はそれこそ街の巡回とか、簡単なものじゃないの?」
彼女は少しでも雑用へと回れるように一般兵士を選んだのだ。
「何か話が違う気がするのだけど?」
ジオンもそれについては思うところがあるのだろうが、彼は「あー、まーなぁ」と何やらお茶を濁すばかりで、彼女に明確な答えを返すことはなく。
「一回ならさておき、まさかとは思うけど、毎回こんな任務ばっかりで、街の巡回と同じ賃金だった日には、私、本当に時の竜騎兵壊滅させてやるから!」
「どうどう、落ち着け。……現場がもう見え始めているんだ」
ジオンの声に車窓を見やると、前方に豪奢な鉄柵で囲まれた屋敷がツバキの目に映った。
「どいて」
ツバキは先ほどまで盛大に不平不満をぶちまけていたのもどこへやら。ジオンを押しのけるようにして車窓にかじりつく。
「オイ、もう少しで着くだろ……大人しく待って──」
「黙って。煩いわ」
「んだと──」
咄嗟に犬歯を剥くジオンだが、ツバキの真剣に車窓を見つめる姿に、怒気を引っ込めた。
「離れは……なさそうね。壁に不自然に塗り替えたような痕もなし。庭の手入れはあまり行き届いていないのかしら。落ち葉と雑草だらけだし。……鉄柵も隅には蜘蛛の巣を張っちゃってるし。ああでもこの鉄柵なら門番に気づかれずに人が越えられるとは思えないから、人為的だとしたら門番が一枚噛んでいそうなものだけれど……いえ、変死ということはそもそも……」
ジオンはなんとはなしに、ヴァイスから任務を受けた時のことを思い出す。
『ああ、そうだジオン。あのじゃじゃ馬娘を連れて行くといい。あれでいて、頭が回るのは確かだ。奴の言葉ではないが、特にお前の隊は向こう見ずなところがあるからな──』
その時は彼女など不要だと突っ撥ねたジオンだったが、車窓を真剣に睨む彼女に、何故ヴァイスが彼女を寄越してきたのか理解できた気がした。
「そういや白服だったなテメェ」
それもただの白服ではない。まだ学園の一年でありながらの首席なのだ。
ジオンの言葉など聞こえていないのだろうツバキは、ぶつぶつと一人で何やら呟いている。
二人を乗せた馬車が門扉の前に着く。──と、そこには時の竜騎兵に所属しているという子爵の娘だろう、紺の隊服姿の女性が立っていた。
ブラウンの瞳に、同じくブラウンの髪を後頭部でお団子にした、その妙齢の女性は馬車から降りてきたジオンへと素早く敬礼をする。
「お疲れ様でございます! ジオン様!」
「おう、ごくろーさん」
女性──アラベラは次いで降りてきたツバキの姿に目を丸くした。
「えっと……こちらの方は? というか、それはレムベルグ第一学園の首席の制服では……?」
コソコソとアラベラから問われたジオンは親指で後方のツバキを指しながら、
「ああ、そういやお前は事件が起きてからはずっとこっちにいたんだもんな、知るはずもねえか。こいつは一応時の竜騎兵に入団した奴だ。よろしく頼むわ」
──と、適当な紹介をする。
たったそれだけの簡易な紹介だったのだが、アラベラは「まあ」と、にこやかに微笑むとツバキへと手を差し出した。
「そうだったのですね。ご無礼をお許しくださいな。わたくし、アラベラ・ノイヘン・グライナーと申しますの」
ツバキは差し出された手を軽く握り返し、簡単に自己紹介を済ませる。
「では早速ですが、こちらへお願い致しますわ」
アラベラに導かれ、ツバキとジオン、そして兵士達が訪れたのは荘厳な客間だった。
赤い絨毯と白いクロスの掛かった長机、そしていくつものシャンデリアの煌めきが彩る客間の奥には、豊かな髭を蓄えた初老の男が立派な椅子にどっしりと座っている。
「お父様、ジオン様をお連れ致しました」
アラベラの声に、初老の男こと、フェルディナント・ノイヘン・グライナーは慇懃に頷くと、一同に椅子を勧めた。
「この度は、時の竜騎兵よりの派遣、誠に感謝しますぞ」
「いえ。時の竜騎兵としてこれは当然の義務でございます。……して、フェルディナント様、この度の事件は一体どのような……?」
珍しく丁寧なジオンの言葉に、ツバキは一人腹を抱えて抱腹絶倒し──、そんな彼女を額に青筋を浮かべながら丸無視したジオンはフェルディナントへと現状を問う。
フェルディナントは彼の問いに、「むう」と、困ったように眉根を寄せた。
「お恥ずかしながら、誠に奇っ怪な事件でしてな。ここ一週間ほど、使用人の娘が一人ずつ毎日立て続けに何者かに殺されており、逃げ出す使用人も多く、頭を抱えておるのです」
疲労困憊といった体のフェルディナントの言葉をアラベラが引き継ぐ。
「最初に犠牲者が出たのはこの屋敷の貯蔵庫です。調理に使う芋を取りに行った調理人が、犠牲者を発見しまして。……それからというもの、毎日必ず同じ貯蔵庫で遺体が見つかるのです。でもおかしなことに、貯蔵庫の入り口は毎回違う兵に見張らせているのですが、誰一人として夜間貯蔵庫に人を通した者はいないとのことで──」
「つまり、誰も通っていないのに、朝死体が見つかると?」
「ええ、そうなのです。貯蔵庫に入る扉は正面しかないので、どうやってそこを通っているのか、そしてどうして悲鳴すらなく使用人が命を落とすのか、わたくし達、ほとほと困り果てておりますの」
頬に手を当てて眉を寄せるアラベラ。
──と、ツバキが「はい」と学生よろしく手を挙げた。
「気になるのですが、なぜ扉の外で見張るのでしょう? 火を焚いて、貯蔵庫の中で見張ればよいのでは?」
ツバキは学徒という身分を存分に生かし、質問をぶつける。
「そうしたいのは山々であるが、なんせうちの貯蔵庫は食料だけでなく、村の特産品である商用の油を大量に置いておるのでな。油を小分けする際に床にも撒かれてしまうで、暗いからといって迂闊に兵に火を焚かせるわけにはいかんのだ」
「油、ですか。なるほど……」
確かに犯人を炙り出すために、屋敷そのものが火炙りになったのでは元も子もないだろう。
「犠牲になった者達は全て、住み込みで働いている使用人で……、この屋敷の三階で寝泊まりしている者達なのです。わたくしの部屋も三階ですので、犯人がすぐそばにいるのでは、と毎晩恐ろしい思いをしておりまして──」
アラベラは屋敷の三階に犯人が潜んでいるのでは、と踏んでいるようだった。
「わたくしはまだ、護衛もおりますし、それに天使の端くれでもありますので、恐ろしいといっても、他の使用人達よりはマシな立場でしょう。……それでもこれほどまでに恐ろしいのです。皆の心労たるや如何ほどのものかと思うと身を切られる思いで──」
辛そうに目を伏せるアラベラは「それに」と続ける。
「わたくし、犯人がこの屋敷を去る前に、何としてでもその者を捕らえたいのです。──何故なら、その者はわたくし付きの、一番大切なメイドを真っ先に手にかけたのですから……」
絶対に犯人を許すことなどできません。と顔を上げ、唇を引き結ぶアラベラ。
そんな彼女を視界の端に納めながら、ジオンはフェルディナントへと屋敷調査の許可を求める。
「ではとりあえず、我が隊の者に屋敷の関係者に聞き込みをさせます。後、屋敷の構造など、あちこちを調べて回りたいのですが、構いませんでしょうか?」
「ああ、もちろんだ。よろしく頼むぞ」
「調査へのご協力、感謝致します──」
ジオンは本部を出る前に、部下達と簡単な打ち合わせをしていたのだろう。手サインですぐに部下を散開させると、屋敷の調査を快諾した家長への挨拶もそこそこに、己も客間を後にした。
「よし、じゃあ俺達はまずは事件現場、貯蔵庫へ行くぞ」
「えぇーっ!? 私は私で気になる場所から見て回るから、貯蔵庫へは一人で行ってくれるかしら?」
ツバキは作り笑顔で、行ってらっしゃい、と言わんばかりに淑やかに手を振る。そして、そんな彼女の隣では──、
「あ、あの、わたくしもご一緒しても良いでしょうか?」
少しでもジオンの力になりたいらしいアラベラが貯蔵庫への同行を自ら申し出た。
ものの見事に正反対の反応を見せる女性二人に、ジオンは早速前途多難そうだ、と内心で肩を落とす。
案内人として屋敷の者がいるというのは何かと便利なため、アラベラの同行を承諾したジオンは問題の一般兵士を睨み付け──、
「どのみち最後は貯蔵庫見に行くんだろうが! 犯人が貯蔵庫に潜んでいないとも限……ってオイ、待てコラ!」
彼の怒声もどこ吹く風。問題児改め、問題兵ツバキはスタスタと廊下の角へと消えて行く。
問題兵を見失わないよう、急いでその後を追いながら、ジオンは吠えた。
「テメェ、さっきまでのやる気はどこ行った!」
真っ先に貯蔵庫へ行くものだと思っていたジオンは己の右横でてくてくと足を進める少女と並走しながら、その濡れ鴉の頭を見下ろす。
アラベラはというと、オドオドとした様子で、そんなジオンの後に付いて来ていた。
「聞いてんのかテメ──」
ジオンがツバキの耳許で声を張り上げた刹那──、ツバキはおもむろに、すぐ傍のジオンへと身体を寄せた。
「はぁ!?」
二人ぴったりと寄り添って歩く姿は、端から見れば仲睦まじい恋人か、友人とくっついて歩きたい幼子のようだろう。
ツバキはジオンの左腕に両の指を絡めるようにして持ち上げると、その掌を垂直に掲げ『合わせて』と素早く文字を書く。
「……?」
彼女の行動の真意が掴めないのだろう。首を傾げるジオンにだけ伝わるように、ツバキは視線だけをチラチラと後ろへと送る仕草を何度か繰り返した。
彼女がジオンへと身体を寄せたのは、背後から掌に書いた文字を読まれる可能性を少しでも減らすためだろう。
「え、えっとぉ……も、もしかしてわたくし、オジャマです?」
何か、斜め上の勘違いをしたのだろう。寄り添う二人に頬を染めるアラベラ。
「いえ、ごめんなさい。ちょっと貧血気味でふらついただけ……。でももう大丈夫ですから。ごめんなさいね猪男さんも、急にもたれ掛かって……」
「テメ……どうせなら猪男ってところも丁寧な言葉に直したらどうだ?」
なぜそこだけ猪男のままなのか、と、いまいち釈然としない、といった体のジオン。
だがアラベラはツバキの『貧血』という単語しか聞いていなかったのだろう。
「まあ……貧血! ……あ、でしたら、そんな状態で本部へ一々お戻りになられるのも大変でしょうし、今晩はこのまま泊まって行かれては如何でしょうか。そうすればわたくし達も今宵は安心して眠れますし! ちょっとお父様にお願いして参りますわね!」
同行を申し出ていたはずのアラベラは名案を思い付いた、といわんばかりの表情で、二人を置き去りにして走り去って行った。
「へ? あ、オイ、アラベラ──?」
止める間もなく去っていった彼女を唖然と見送りながら、ジオンは深いため息を吐く。
「テメェなあ……」
どうすんだよ、と言わんばかりのジオンの抗議を丸無視し、ツバキは再び歩き出した。
「助かるわね、猪男さん。今晩は泊めてもらえるんですって」
「なーにが助かる、だ! そもそもテメェは……」
なに食わぬ顔で先を歩くツバキは、廊下に飾ってあった一枚の絵画の前でピタリと立ち止まる。
「あ、猪男さん、猪男さんの大好物じゃないですかこれ?」
ツバキが指差す先の絵画はミートパイを切り分ける女性の、ごくありふれた光景を描いたものだった。
「くぉら! 話を逸らすんじゃねえ!」
「えー……だってぇ……」
私お説教嫌いだし、とツバキは少しだけむくれた。
二人は応接間や食堂がある一階、使用人を含む男性が主に寝泊まりしているという二階、女性に割り当てられた三階、そして草が延び放題の庭園と順に見て回り、最後に立ち寄った貯蔵庫の前でツバキはジオンを振り返る。
「ねえ、結局何人の使用人が犠牲になっているの?」
「あ? 報告に上がっている限りでは、確か七人だったはずだ」
「ふぅん……まあ七人もいなくなれば、そりゃあ気味悪がって他の使用人達が逃げるのも無理ないわね……。手入れが滞っているからなのでしょうけど、あちこちが埃っぽくてかなわないわ……」
二人が見て回った場所はいずれも、主要な通路こそ埃を被ってはいないものの、そんな通路でもすぐ脇に飾られている像は埃まみれだったり、天井の隅にはクモの巣が張られていたりと、お世辞にも手入れが行き届いているとは言い難い有り様だ。
「こんな状況である以上、いくら賃金を釣り上げたって、誰も来ない、か──」
相棒の黒猫を肩に乗せたツバキはそう独りごちながら、貯蔵庫の扉の前に立つ。
「お……お気を付け下さい……!」
貯蔵庫の見張り番なのだろう、二人の男は扉に手を掛けたツバキへと注意を促した。
呑気な学生が社会見学に来たようにしか見えないのだろう、その男達は「本当に危険な場所なんです」と貼り付けたような顔で、ジオンへと視線を送っている。
「あー、まあ、警戒はしてる。テメェらは気にすんな」
「い、いやでも、あの方、どう見ても──」
「──煩いわよ、そこ。今まで日中被害が出たことはないのでしょう? まあそれは、これからもないとは言い切れないけれど、あんまりピヨピヨ言っていても始まらないでしょうに」
──と、ツバキは呆れ顔である。
若さ故の怖いもの知らず。彼女の言動がそうとしか取れないのだろう見張りの男は互いに顔を見合せ、肩を竦め合った。次の瞬間──。
ギィ、と重い音を立てながら扉が開く。
見張り番の男達は全身に緊張と恐怖を走らせ──、ジオンは平常心を装ってはいるが、その神経を全て扉の向こうへと向けた──。
「うん、油臭い……」
ツバキが小さくボヤいた。
観音開きの扉の奥──事件の現場である貯蔵庫は、間昼間だというのに暗く、ひんやりとしている。
廊下から射し込む光のみが唯一の光源となるその貯蔵庫は、他に外へと通じる扉もなければ、窓もなく。
「昼間でもこんな暗い場所ですので、廊下の灯りに頼るしかない夜間はそもそも誰も立ち入らないのです」
見張り番の男は気味が悪そうに派遣されてきた二人へと説明を始める。
「私達は商品である油が盗まれないよう見張るだけの仕事だったのですが、最近は恐ろしくて恐ろしくて……」
二人いる男の内の一人はかなり精神を磨り減らしているのだろう。その目の下には隈ができていた。
「昼間ですら、こうして貯蔵庫の半ばまでしか光が射し込まないんです……。この先の闇に殺人鬼が潜んでいるかもと思うと、昼夜関係なく気が狂いそうになりますよ……」
隈の男の言葉に、その相方が同意する。
「私もです。それを思うと毎日胃が痛くて胃が痛くて……。ジオン様、どうか、どうかこの事件の解決をお願い致します……!」
縋るような目で頼まれるジオンを尻目に、ツバキは貯蔵庫の奥へと足を進め──、
「「だ、ダメです! お戻り下さい!」」
「バカ野郎! 戻りやがれ!」
一寸先も見えぬ闇へと歩む、その蛮勇を通り越した奇行に、見張り番からは制止の叫びが上がり──、尚も足を止めることのないツバキの襟首を、咄嗟に追ったジオンが引き戻す。
「なにやってんだテメェ!」
有無を言わさず出入口の扉まで引き戻されたツバキは「何はこっちの台詞よ!」と吠える。
「あのねぇ、夜間活動の多い影法師の夜目が利かないワケがないでしょう。あれくらいの闇なら、日中と同じくらい見通せるわ」
天使とは違うのよ、とジト目で見つめてくるツバキに、ジオンは少しでも慌てたことが馬鹿らしくなったのだろう。「へーへー、そりゃすげーな」と棒読みでボヤいた。──その時だった。
「……ねえねえ、だぁれもいなかったよ? いなかったよ?」
──と、タタタッと黒猫姿のカゲロウが闇の奥から現れた。
どうやらツバキが襟首を引かれた瞬間に、乗っていた肩から飛び降りたらしい。
「猫が……喋った……」
ポカン、としている見張り番の男へと、ジオンは「あの女の能力で喋れるようになってるんだ」と適当な嘘をつく。
「在庫の木箱とかも見てみたけど、アヤシイものなんて、なーんもなかったよ。なかったよ?」
「……ということだけど、まだ入っちゃダメなのかしら?」
カゲロウの言葉に、ツバキは引率者の立ち位置となっているジオンへと嫌味っぽく問う。
「あー、ハイハイ。好きにしやがれ」
アホらしい、と言わんばかりに返ってきたその声に、ツバキは再び貯蔵庫の奥へと、今度こそ消えていった。
「……本当にただの埃被った木箱しかないわね。しかも、中途半端な位置に三つだけ」
ツバキは貯蔵庫の中央より少しだけ奥に置いていた木箱の中身を確認し、唸る。
「木箱は空っぽだし……奥には本当に何もないし……」
──と、そんな彼女の足元で、埃に極力触れないように床に座った黒猫が、甲高い子供のような声を上げた。
「多分さ、ココに売り物とか置いても暗くて誰も取れないし……そもそも置く人も真っ暗で置けなかったんじゃないかな? この三つの木箱はほら、手前から押し込まれたんじゃない?」
黒猫の声にツバキは「まあ私もそれしかないと思うわ」と賛同を返す。
結局、出入口付近を見張り番が、中央付近をジオンが、そして最奥をツバキとカゲロウが隈無く調査するも、そこではこれといった物証は見つからず──、ついには夕方となり、二人はその場での調査を一旦打ち切ると、足取り重くその場を後にした。
夕陽に朱く染まる廊下の絨毯を踏みしめながら無言で二人が歩いていると、ふいに遠くから響いてくるのは、ジオンを呼ぶアラベラの声。
「ジオン様ー! どちらにおられるのですかー!」
ジオンの返答に、アラベラは「ああ、こちらにおられたのですね!」と決して狭くはない屋敷の通路を走ってやってきた。
「ジオン様、ツバキさんもお疲れ様でございます! 夕食をご用意致しておりますので、どうぞこちらへ」
アラベラは調査の成果を問うことはせず、ただただ艶やかに微笑み、食堂へと二人を誘う。
彼女に案内され、辿り着いた食堂では、先に集まっていたジオン隊の兵士達が食事を摂っているところだった。
「あ、お疲れ様です、ジオン様!」
「お先に食事を頂いております!」
有事の際には食事の順など呑気なことを言ってはいられない。
故に、ジオン隊は出先では隊長よりも先に兵士が食事を摂ることは至って普通のことであった。
「……明日も調査だ。テメェもしっかりメシ食っとけよ」
調査の成果があまり上がらなかったことを気にしているのだろう。ジオンはいつになく物静かな声でツバキへと告げる。
そんな彼の言葉には、流石にツバキも調子が狂うのだろう。
皮肉や追い討ちを避けるように、ただ「そうするわ」と頷くと、ツバキは自分の食事を取りに向かったのだった。
「ツバキさん、ツバキさん、ほら見てくださいよアレ」
水の入ったグラスと料理を載せた皿を手に、ジオン隊の兵士がツバキへと近寄ってくる。
「ん? あなたは確か……」
「ええ、そうです。あなたのチェス大会の賭けで儲けさせてもらったクラウスですよ! まあ儲けたはいいのですが、あの後、同僚から思いっきり殴られましたけどね」
はは、と少しだけ遠い目で笑うクラウス。
「ま、そんなことよりも、ほら見てくださいよ、ジオン様とお話されているあのアラベラ様のお顔! いやぁ、素敵ですねえ」
「……何が?」
ニマニマとしたクラウスの視線の先を追い──、ツバキには何の話かが理解できず、サラダにフォークを突き立てながら首を傾げる。
「あ、ツバキさんはアラベラ様のご年齢をご存じではないのでしたね。アラベラ様はああ見えてなんと今年四十になるのですよ!」
クラウスの言葉にツバキはさすがに目を丸くした。
「へぇ、どう見ても三十は行ってないと思っていたのだけれど」
「でしょ? やっぱりいくつになっても恋する乙女は美しいものなんですねー」
「へぇ、そんなもんなの?」
ツバキはアラベラをニマニマと眺め続けるクラウスがテーブルの上に置いた、彼の皿を物色し、──骨付き肉を強奪した。
そして骨付き肉を奪った彼女は少し嬉しそうに肉を振ると、思いっきり強奪肉に齧りつく。
「へも、こひひてふとは、はからはいんひゃはい?」
「いやいや、あの幸せそうな顔は絶対恋──ってツバキさん、それ俺の肉!」
ツバキは「そうなの?」と非常にどうでもよさそうに、肉を新たに一口がじがじと齧り、口一杯の肉を一気に飲み込む。
「私の目には普通に……あなた達が猪男を見ている、気持ち悪い目と同じに映るけど……」
どうやら彼女の目には、アラベラの態度が敬愛から来るものだとしか映らないらしく。
「はぁ、ツバキさんにはまだ早かったですかねー」
クラウスはため息を吐きながらフォークを自分の皿に載せたミートパイに突き立てる。
「ローザもだけど、あなた達って本当にその手の話、好きよね……」
理解に苦しむわ、とツバキはボヤいた。
「いや、むしろ私達からすればあなたの感性の方を疑いますけどね……」
ぽつりと言い返すクラウスに、
「ま、真っ当な感性を持つ乙女なら、誘われてもあんなむさ苦しい場所には嬉々として行かないよね」
カゲロウは皿に注がれたミルクを舐めながら、主の感性のズレを遠い目で肯定した。




