5-1
五 束の間の平穏
「解せないわ……」
窓辺から聞こえる声に、ヴァイスは知らんぷりを決め込む。が──。
「解ーせーなーいーわー!」
声の主は、更に大声で、かつ手足をばたつかせながら喚いた。
ため息ひとつ。ヴァイスは羽ペンを執務机に置くと、机上で肘杖を突きながら両の指を組み、騒音の元を白い目で見やる。
「煩い。仕事をさせろ。ただでさえ、昨日の分の書類が山積み状態なんだ」
──と、ヴァイスは地面から生えるタケノコのように、あちこちに積み上げられ、あたかも床から生えているかのような書類の山を、組んだ指で指す。
「そっちのことなんて知らないわよ! なんでローザは学園に行けて、私はあなたの執務室で居残りなわけ!?」
騒音被害の主──ツバキはヴァイスの執務室の窓辺で盛大に吠えていた。
彼女がごにゃごにゃと騒いでいるところによると、どうやらローザは瓦解した学園の青空教室に行ってしまったらしい。
ヴァイセンベルガー家の私兵とともに、時の竜騎兵からも護衛をつけさせているため、彼女の身の心配はそこまでしてはいない、が、ツバキにとっての問題はそこではなかった。
「なんで、なんで私だって入団したとはいえ学徒なのに、なんで私は学園に行っちゃダメなのよ!?」
──と、それはもう窓辺で盛大に喚きながら、ツバキは背中を打ち付けるように何度も背にした窓を叩く。
そう、悲しいかな彼女はヴァイスの執務室で只今絶賛謹慎中だった。
謹慎の理由は至って簡単。昨日夜間に起こした騒動における反省のためである。──のだが、勿論彼女の顔には反省の色など微塵もなく。
「私も行く! 学園行く!」
決して薄くはない窓が割れるのでは、というほどに窓に背を打ち付けながら暴れるツバキ。窓枠の軋む音が部屋中に響き渡り、うるさいことこの上ない状況である。
「馬鹿かお前は。昨日あれほど化け物じみた能力を使い倒しておいて、今更どの面を下げて学生などと宣う気だ。それにお前はどうやら授業にもロクに出ていなかったと聞くが?」
どうせ授業に出ないのであれば、サボる場所が変わっただけと思えば良いではないか。と続けるヴァイスの声に、ツバキはむすっと膨れた。
「どの面もこの面もないわよ。しれっと戻ればいいじゃない。しれっと。それに、授業に出る権利があってのサボりと、権利剥奪の上の軟禁は別物ですぅー」
無表情なようでいて、よくよく観察すると、彼女はそれなりに喜怒哀楽が見られる。
恐らくこうして、同じ部屋に半日ほど共に居なければ、気が付くこともなかったろう、とヴァイスは僅かに目を細めた。
「分かった。そんなに学校に行きたいのなら手配してやる」
「本当!?」
「ああ。ただ、お前に必要なのは能力を開花、育成させるあの壊れた学園ではなく、人としての基礎を学ぶ幼稚園あたりになるが……行くか?」
農作業やら店番やらで忙しい母親達を補佐する目的と、子供達に社会の基礎を学ばせる目的でドレストボルンには幾つもの幼稚園が存在するのだ。
「冗談でしょう!? 幼稚園なんて絶対にお断り!」
学園ー、学園ー、と連呼するツバキを無視し、ヴァイスは机の上に積み上がった羊皮紙に順に判を捺していく。
「明日からは好きに通えばいいだろう。止めはせん」
「明日からなんかどうでもいいの! 今日行きたいの!」
「……なんだ、今日学園で何かあるのか?」
ヴァイスは判を捺す手を一旦止めると、机の脇に置いてあった己の手帳を捲り、日付と街の施設行事を確認する。
「そんなの決まってるじゃない、今日は本来ならパレードから参考猶予の一週間過ぎ。つまり、進路希望を提出する日だったのよ!」
「……お前、記憶は確かか? 昨日ここの入団が決まったばかりだろう」
割と本気で目の前の少女の頭を疑いながら、ヴァイスは手帳を元の位置に戻した。
「私のことじゃないわ! 私が気にしているのはローザよ。ローザの進路希望!」
「……あの娘ならお前よりよっぽどしっかりしているだろう。何を気にすることがある」
ヴァイスはヴァイセンベルガー家の令嬢をそれなりに高く評価していた。
親の七光りに甘んじることなく、学業にはたゆまぬ努力を積み、その素行も品行方正である。
他人との関わり合いを避けているとのことだが、傍目に見れば、どう見てもただの自堕落かつ無気力。なんとなくお昼寝していたら主席になれちゃった系なツバキとは正反対と言ってもいいだろう。
「気にすることしかないわ! あの子、昔から乳牛の隊に憧れていたのよ! 本当なら今日、なんとしてでも票を改竄、もしくは票の提出妨害をする予定だったのに!」
──今日、このタイミングで謹慎にしていて良かった。
口にこそ出さないものの、ヴァイスは心底よりそう思った。
「あぁぁ……どうしたら……。ローザが入団志願なんて絶対にダメなんだから……!」
既に周知の事実であるが、ツバキはローザに対して時に度が過ぎた過保護ぶりを見せる。
彼女の中では、少しでも命に関わる危険性がある以上、時の竜騎兵にローザが入団するというのは、何としてでも阻止せねばならないことのようだった。
「志願が出るかはともかくとして、アマラの隊は確かに女人に人気が高い。一般兵ほどではないにせよ、他の七天使の隊に比べると危険な任務は格段に少なく、ほぼ無いと言っても良いくらいの割合だ。更にその上、女人好みの福利厚生も整っている。私が言うのも何だが、非常に良い職場環境だと思うが?」
「福利厚生ぃ~?」
胡乱気なツバキに「ああ」とヴァイスは頷く。
「例えば、女人専用のトレーニングルームや──」「何で部屋でトレーニングするのよ? 野山で魔物の一体でも仕留めた方が良いじゃない」
お前と世の女性を一緒にするな、とローザがいたら言うだろう。だが生憎と彼女は学園なわけで。ヴァイスはトレーニングルームを推すのを止めると、他の利点を口にした。
「スパも併設して──」「川で行水すれば?」
「マッサージも──」「肉体を甘やかしてどうするのよ」
「……半年に一度は慰安旅行に──」「ふーん、山狩り?」
ツバキの間髪入れぬその返答に軽い頭痛を覚え、ヴァイスは己のこめかみを押さえる。
流石の彼も、ここまで彼女の感覚が世間とかけ離れているとは思っていなかったようで。
「ちょっと、さっきから聞いていて籾殻よりも役に立たないような福利厚生しかないのだけれど? 他には? 流石にまだ何かあるんでしょう?」
「あるか! 充分すぎるほどの福利だろう。……いや待て、確かにまだありはするが、どうせお前には不必要だろう、スイーツ食べ放題など」
「スイーツ!? しかも食べ放……あ。な、なんでもないわ。別に興味ないし……」
一瞬、ものすごい速度でその言葉に食い付いたツバキ。すぐにハッと我に返り、何事も無かった風を取り繕うも、明らかにその目は泳いでいた。
分かりやすいくらいにそわそわするツバキにヴァイスは一枚のチラシを放り投げる。
「アマラ隊の入隊志願届けだが、書くか?」
彼なりの冗談だったのだが、ツバキは真剣にチラシを睨み付け──、
「い……致し方……」
「いや、致し方あるだろう」
ヴァイスは拇印を捺そうとする彼女の手からすぐさま志願届を奪い取った。
アマラ隊に所属などしようものなら結局振り回されて苦労するのがアマラだと分かりきっているから故の行動だったのだが、ツバキは「横暴だー」と口を尖らせる。
「ローザ……そういうことね。あの子もきっとスイーツに釣られて入隊を決めたに違いないわ……!」
「安心しろ。そんな理由で動くのはどこかの誰かくらいだ」
「……? 耄碌したのかしら。名前が思い出せなくなるのは痴呆の第一歩よ」
「……」
まさか我がことであるなどと思いもしないツバキは、あーあ、スイーツいいなぁ、と両手を後頭部で組みながら窓の外を眺める。
本部五階にある執務室の窓から見える訓練場ではペガサスに騎乗した兵士達が、ジオンを教官に、騎乗戦の模擬試合を行っているようだ。
「時間的にも、きっともう進路希望を出した頃よね……あー、なんでこの一番大切な日に、軟禁される上に監視までつくのよぅ……」
ぶちぶちと文句を垂れるツバキ。
学園には通えなくても、軟禁される覚えはない。とはあくまでも彼女の言い分だ。
「軟禁などと物騒な言い方をするな。あくまでこれは夜中に騒ぎを起こしたことに対する謹慎だ。一時になれば、解放してやるから大人しくしていろ」
「うぇぇ一時……」
長いわ、と腰を下ろしている窓辺で足を組み、解いた腕をじたばたさせる。
暴れる彼女の隣では、日光に黒い毛並みを光らせながら、すやすやとカゲロウが昼寝をしていた。
「それよりも、だ。早くそれを書け、馬鹿者」
ヴァイスの声に、ツバキは窓辺近くの小さな机に置いてあった数枚の羊皮紙を見やる。
その羊皮紙こそ、各隊の入隊志願書なのだが──。
「ねえ、なんでスイーツ部隊の志願書がないのよ!」
何故かそこにはアマラ隊の入隊志願書がなかった。
「アマラから直訴があったからだ。内容としては『あんな跳ねっ返りの面倒なんて見切れません。どうか他の隊でお願いします』とのことだ」
「なんですってぇ!? 覚えてなさいよあの乳牛!」
むくれながら羊皮紙をパラパラと捲っていたツバキは、ふと何かに気付いたように手を止め──ジロリと三白眼でヴァイスを睨む。
「ふぅーん?」
「今度は何だ。暇ではないと言っているだろうが」
ヴァイスは再開した、判を捺す手を止めることなく、ツバキの方にちらりと視線だけをやる。
「そっかー、ふーん」
不貞腐れたようなその声に、ヴァイスは大きくため息を吐きながら、漸く再開したはずの捺印の手を止めた。
「何だ、何故私がそのような含みのある目で見られねばならんのだ」
「そりゃあ含みだってありますよーだ。自分だって逃げてるじゃない。どーせ私はどこまで行っても爪弾きですよーだ」
ツバキのボヤきに一瞬目を瞬かせたヴァイスは、すぐに彼女の言わんとするところが分かったのだろう。ああ、そのことか、と書類に目を走らせながら小さく呟く。
「別に入隊させたくないという理由で志願書がないわけではない。……そもそも私の隊は女人禁制なのだ」
「まあー、こんなトコで男女差別が」
「……人聞きの悪いことを言うな」
だってねえ奥さん、と芝居じみた口調で、窓辺でうたた寝をしているカゲロウの背を一撫でするツバキ。
「私の隊が動かねばならんというのは大抵、早急かつ迅速に動かねばならんという緊急時が多いのだ。それともお前はこう言うのか? 緊急時だから女性だろうが幕営面の考慮は一切しない。衣食外の荷物があるなら各自で持て、と」
至って正論なのだが、如何せん相手が悪かったようだ。
「え……私なら言うわよ、普通に。火急時に私事権なんて認めないし、生命活動に必要な物以外は各自で持て以前に、まず持って行かせないわ」
彼女からは人権という概念がおおよそ抜け落ちていた。
「お前だけは決して人の上に立つな……」
羽根ペンの先をインクに浸しながら、ヴァイスは内心で深く溜息を吐く。
「残った選択肢はシグレ隊と猪男隊と間延び男の隊、後はチビすけ隊か」
あまりな言い草であるが、ツバキは至って真剣である。
「ん? そう言えば一人足りなくない? 七天使のくせになんで六人しかいないのよ?」
羊皮紙の枚数を数え、一枚足りないことに気づくツバキ。
「……ああ、この前ちらりと言ったかもしれんが、先の団長が老衰で引退していてな。彼がかつては七天使の一角を担ってくれていたのだ」
「ふーん、そういうこと」
「じき、天使号を持つ者の中から、その座に就く者が選ばれることになろう」
ツバキは既にその話題に興味がないのだろう。四枚の羊皮紙を何度も見返している。
しばらく羊皮紙を捲り続け、ツバキが出した結論は、
「決めたわ。そもそも、七天使の直属になる必要性がなかったわ、私」
と、羊皮紙を肩の後ろへバサリと投げ捨てた。
「確かに普通は入団した時はまず無所属からだが……お前の実力ならば一般兵達もお前が七天使直属になることに異存はないはずだが?」
「でしょうね」
そこだけはあっさりと認めるツバキ。自信家なのは持って生まれた性格なのだろう。
「……それに、無所属となると危険な任務はあまり無い分、給料も随分と減るが、いいのか?」
「んー、まあ無所属でいる分、細々とした自由が利くならそれに越したことはないわね」
彼女にとって、有事でないのなら、どこまでもローザの傍にいたいという考えは大きいらしい。
「ふむ、すぐに後悔すると思うが、まあ良い」
ヴァイスは一般兵としての、入隊志願書をツバキに手渡し、目の前で書かれたその名の横に受領印を捺す。
「誰が後悔なんてするものですか。……あーあ、でもこれで晴れて時の竜騎兵の犬っころね」
そうツバキがボヤいていると、執務室の扉が控え目にノックされた。
ツバキは勿論出る気はないらしく、視線でヴァイスに「出て」と促す。
「お前は一般兵士という自分の立場が分かっているのか……」
目の前の不遜な一般兵へと聞こえよがしに大きくため息を吐きながら、ヴァイスは扉に「入れ」と短く声をかけた。
そっと開いた扉からおずおずと入室してきたのはアマラだった。
「なーんだ、人を爪弾きした乳牛かー」
「失礼致します……って、乳牛ってどういうことよ! アタシはアマラよ! そのとんでもないな呼び方はやめなさい!」
ヴァイスの前でそう呼ばれたことが恥ずかしいのか、顔を赤らめながら、アマラはつかつかとツバキに歩み寄り、
「どうせゴミとか言うんでしょうけど、はいこれ」
バサリ、と手に持っていた衣をツバキの頭上に落とした。
「ええその通りよ。なんか知らないけど人を爪弾きするような奴から受け取るものなんて──」
刹那、ツバキの目が丸くなる。
落とされたその服は、ツバキのよく知るものだった。
「アナタも入団したとはいえ、まだ一応学生なわけだし、こっちに運ばれてきた時にボロボロになっていた制服は繕っておきましたわ。それと、爪弾きなんてしていないわ。うちの隊は色々と出費が多いから、見るからに毎日調度品を破損させそうな爆弾娘を抱え込む余裕はないのよ」
疲れた、と言わんばかりに肩をコキコキと鳴らすアマラ。
ツバキは普段であれば「誰が爆弾娘だ」と憤慨するところなのだが、手元の制服に意識の大半を割いていたため、アマラの暴言をいともあっさり聞き流した。
あまつさえ、制服を握りしめ、オドオドと口を開き──、
「あ……あの、制服……ありがとう……」
──瞬間、紅茶を啜っていたヴァイスが噎せた。
アマラの口も、顎が外れるのではないかというくらいに開かれている。
それほどまでに、ツバキと感謝の言葉は遠い所にあった。
「ヴァイス様! アタシちょっと、いや、かなり耳が悪くなったみたいです! 診てもらいたいんですが、レーベンは今日非番でしたっけ!?」
挙げ句、己が耳を疑いだすアマラ。
普段ならぶちギレているであろう周囲の反応をまるっと無視し、ツバキは幼い子供のような笑みを浮かべながら、制服を陽に翳す。
「カゲロウ! 見て見て!」
足でつつかれたカゲロウは首を起こすと、衣を一瞥し、
「んー? あれぇ、どしたのそれ? ビリビリになってた白服じゃん」
と、さして興味もないのか、大欠伸をする。
「そうよ、白服なんて特注になるし、買い直すのやだなぁって思ってた制服よ! しかも新品みたいじゃない?」
まさかそこまで喜んでもらえるとは思ってもいなかったアマラは、疲れの吹き飛んだような表情で、一人と一匹を眺めていたのだが、
「ちょっと!? 着替えるなら自分の部屋で着替えなさい!」
おもむろに借り物であった隊服のボタンを外しはじめたツバキに目を剥く。
ツバキは少し手を止め、ヴァイスを振り返り、
「ねえ、さっさとこんな隊服脱ぎたいんだけど、謹慎はまだなの!?」
と、もう待ちきれないとでもいうように真顔で詰め寄った。
噎せた喉を落ち着けていたヴァイスはちらりと壁に掛かっている時計を見やり、
「アマラ、今は一時三分で問題ないな?」
と、机の前に立ち尽くす同胞の天使を見やる。
「へ? え? あ、あの、今は十二時五十七分かと──」
「問題ないな?」
再度の問い掛けに、アマラはヴァイスの言わんとしているところ──その心境を察した。
彼の視線の先では、制服を両手に持ち、無邪気にくるくると回る──。
「そうでしたわね。わたくし、時計が狂っておりましたわ。今は一時三分で間違いないかと」
「というわけだ。もう行っていいぞ」
ヴァイスの声に、跳ね回っていたツバキは時計など全く見ることもなく「やった!」とカゲロウを置いて大砲の弾のように部屋から飛び出していった。
「……団長、あの子のこと……アタシ、少し勘違いしていたかもしれませんわ」
──なんて傲岸不遜で礼儀知らずな娘だろうとずっと思っていた。
けれど、なんとなくだが、今はローザが彼女を気にかける理由が分かるような気がした。
そんなアマラを尻目にヴァイスはというと──、
「アマラ、実際、幼稚園は手配すべきだと思うか?」
──割りと本気で悩んでいた。