4-7
それからたっぷり一刻程。
影の中で出逢った樹と違い、記憶を見せる術などないジオンは、自身に起きた影での出来事を仲間と、そしてローザへとつぶさに話した。
彼女に影の世界へと沈められかけたこと。
そこで出逢った青年──樹に、彼女の過去を見せられたこと。
そして──最後は彼女が故郷を滅ぼしてしまったことも──。
「──というワケで、俺は無事影から抜け出しましたとさ。めでた……くねえけどな」
全てを話終えたジオンは、案の定カラカラに渇いた喉を潤すべく、紅茶を啜る。
「そっか、ツバキも元は貴族の出だったのね」
話を聞き終えたローザは、昏々と眠るツバキの細い鼻を指でつまんだ。
「ちょっと前。こんなことになるとは思ってもいなかった頃、学校でパレードについて語っていたことがあったんです。その時は、貴族の令嬢の気持ちをツバキが理解できる、なんて言うもんだから、冗談でしょって言ってたんです。この奔放自堕落、万年無気力、感情逆撫で娘が何を言うか、って」
でも不思議、とローザは続ける。
「アタシ、ツバキのことをこうして知ることができて、今とっても嬉しいはずなのに。……なんでだろ、嬉しいと同時に、知らなかったその頃の自分は幸せだったな、って思っちゃうのだわ」
おかしいわよね、とローザは寂しげに笑みながら目を伏せた。
「カゲロウ。ひとつだけ隠さずに答えてほしいの。……ツバキは、もしアタシに会わなければ、もしかしたらシズマ様達と闘わない道もあったのかしら?」
ローザの問いに、カゲロウは言葉を探しているのだろう、しばらく「んー」と唸るも、結局気の利いた言葉が見つからなかったのだろう。諦めたように、渋々とローザを見上げる。
「んー、関係ないって言ってあげたかったけど、そんな真っ正直に見られちゃうとね……。そうだよ、としか言いようがないかなぁ」
カゲロウは遠い目でポツリポツリと語りはじめる。
「天使は崖の民の仇だけど……でも、魔王の強さをボクは知ってるから、ボクがツバキにお願いしたんだ。もう、戦うのはやめようって。『人間』によってツバキが壊されるか、魔王によってツバキが殺される、その時までボクと一緒にいてってお願いしたの」
最初は聞いてくれたんだけどなぁ、とカゲロウは尻尾を回す。
「でもね、ローザと出会ってから、しばらく経った頃、ツバキがボクに言ったんだ。『どうせ死ぬなら、ローザが安心して暮らせる世界だけは約束してあげたい』って。……ボクも同じ気持ちだった。だからボクらはもう一度魔王に挑む道を探し始めたんだ──」
ローザは「なによそれ……」と、声を震わせながら、その黒い毛並みに手を乗せる。
「ローザ。ボクらにとって、キミはそれくらい大切な人ってこと。──ボクらはキミと過ごした日々が大好きなの」
カゲロウは毎日願わずにはいられなかった。
後一日、後一日でいいから、このまやかしの暮らしが続いてほしい、と。
「朝、カーテン越しに朝日が射し込んで。ツバキが寝癖だらけの頭で布団に篭って、しばらくしたら、コーヒーの香りが漂ってくるの。コーヒーの匂いに、パンの焼ける匂いが混じり始めたら、ローザがツバキを叩き起こしに来る時間になって……」
そんなありふれた日常の繰り返しが好きだった。
毎日同じ一日の始まりで、だけれど全く同じではなくて。
パンの焦げ目や、食卓に飾られた花。小さな変化が嬉しくて。
「全部、全部仮初めで。だけど、ずっとかじりついていたくて……」
昨日のことだというのに、とても遠くの思い出のように感じ、カゲロウは髭を震わせる。
「ローザ。ボクは大切なツバキに、魔王から取り返してあげたいの。アイツに盗られた、ツバキの大切なもの。──そして、同じくらい大切なキミには限りなく平凡で凡庸で、欠伸が出るくらいに平穏な、そんな世界をあげたいの」
カゲロウはふいに魔王のことを思い出したのだろう、怒りに尻尾がぶわりと膨らむ。
「あの日、ボクは魔王に敗けて……。アイツはツバキと、弱体化したボクをさんざん痛めつけておきながら、敢えて殺さず、生殺しの状態で放置したの」
──懇願した。自分を殺してくれ、と。
それは苦痛ゆえの願いでもあったが、何よりも己を救ってくれた彼女に合わせる顔がなかったというのが要因としては大きかった。
けれど、そんな己の願いを聞くこともなく、魔王は鼻で嗤うと去って行ってしまったのだ。
「まあ、解ってたことだけどさ……」
──己を半殺しにして放置した理由は至って単純で、魔王は自身に逆らった己が憎いから。ただそれだけ。
だから敢えて楽になどせず、自分が今一番苦しむであろう選択をした。
「ねえ、カゲロウ……さっきジオン様も言っていたけれど、その、ツバキの盗られたものって……」
「それは……ボクからは──」「──心臓よ」
カゲロウの声を遮るかのように、抑揚のない、氷のような声音が響く。
それは、いつの間にか目を覚ましていたツバキの声だった。
「どうせ間延び男に暴露されるなら自分から言っておくわ。……私が私である証左。生命が生命たり得る証である心臓。それを私は魔王に奪われた。……ここにいる私は、アンデット、もしくは死体、ゾンビ、幽霊……は何か違うか。まあその類いのものよ」
自嘲気味に呟きながら、部屋の明かりが眩しいのか、ツバキは腕で庇を作る。
「もう私は、私であるかすら怪しいわ。例えば今の私の言動が、魔王の術によって固定されたものだったとしても、私の核、即ち心臓を握られている以上、私はこの意志を自分のものと認識してしまう」
それだけじゃない、と続けるツバキ。
「言ってしまえば、この躯も常に爆弾を抱えているわ。もし今、魔王がその気になれば、私の心臓を握り潰すことだってできるもの」
生かすも殺すも、魔王次第なのだ。
「ああ、別に私が心臓を潰されて死ぬのはどうでも良いのだけれど……それこそ『迷惑放題しておいて、結局何一つなし得なかった、蛆虫以下の真性のゴミがかつて存在しました』で済む話なのだけど。……問題は、このバカが私の死んだ後、どうなるかよね」
横目で睨まれたカゲロウは、ツンとそっぽを向く。
「ツバキが死ぬなら、絶対ボクも付いてくからね!」
「……カゲロウ、それが魔王を喜ばせると何度言えば分かるの?」
魔王は知っているのだろう。ツバキが死ねば、彼女に半ば依存のようにへばり付いているカゲロウも後を追うことを。
「べっつにぃー? 魔王の策に乗っちゃいけない理由もないしー? ただムカつくけどー」
不機嫌な猫特有の、尻尾を左右に振る動作を繰り返すカゲロウ。
心なしか、尾の往復した床が拭かれてキレイになっている。
「とりあえずは私があなた達を殺す理由、解ってもらえたかしら。──崖の民の仇討ち、そして博打のようだけど、もう一度魔王に挑むため。そのために私はあなた達を殺すの」
「あと、心臓もね!」
カゲロウが間髪入れずに、彼女の心臓を話に捩じ込む。
「……なるほど。よく解った」
──と、ずっと傾聴姿勢を貫いていたヴァイスがおもむろに口を開いた。
「つまり、お前は我らを殺め、影蟲とやらで、我々の力を乗っ取り、魔王にぶつけようとしていた、ということだな?」
「流石は時の竜騎兵の団長さん。……ご名答よ。魔王とて悪魔の一環であるとするならば、神の使いたる天使を天敵としているのはまず間違いないでしょうし。あなた達の力には、大いに利用価値があるのよ」
ツバキはそう紡ぎながら、ローザの膝からゆっくりと身を起こす。
「待つのじゃ! ワシらとて、魔王を生かしておく気はないのじゃぞ? 何故利害が一致しておるというのに、ワシらをわざわざ操らねばならんのじゃ!」
共に戦えばよいじゃろう、とファイティングポーズをとるイェンロン。
ツェンリンがすかさず「キュキュッ」と鳴いて、賛同する。
「言ったでしょう。私は崖の民の仇敵であるあなた達、天使を信用しない。それに──よしんば信用したとしても、影蟲で操った方が利点が多いという事実は変わらないわ。……解るかしら? 蟲さえ捩じ込めば、首が飛ぼうが胴体が飛ぼうが、操り続けられる以上、消耗戦になること必至な戦いにおいては、あなた達の命は邪魔なのよ」
歯に衣着せぬ物言いに、ジオンの眉間に皺が寄る。
今にも突っ掛からんばかりのジオンを宥めながら、シズマは「そうでもないですよ?」と確証を得たような顔で笑んだ。
「確かに影蟲とやらが我々を操る利点はあるのかもしれません。ですが、もし、ツバキの言った通り、これが魔王の意志だとしたら?」
その利点は、誰にとっての利点となるのでしょうね、と続けるシズマ。
「それ……は……!」
ツバキは咄嗟の返答に窮した。
もしツバキの行動が魔王の意志によるものであったとするならば、彼女が天使を操った日には、天使はまるごと魔王の手先となるに違いないのだ。
そんなことになった日には、彼女は用済みと、魔王の元にたどり着く前に殺されるだろうし、天使の消えた国もまた、滅びるに違いなかった。
「そう……結局私は──」
また間違えたのか、と言葉を無くしたツバキだったが──。
「間違いかどうかを決めるには早計すぎますよ」
ふいに己の目に映る、差し伸ばされた手にツバキは目を瞠った。
「シグレ……?」
「シズマです。覚えたのなら、早く立ち上がって下さい。──まだ、間違いだったと決まったわけではないのですから」
シズマの柔和な笑みに、ツバキは首を傾げる。
「なんであなたにそんなことが判るのよ」
「だって、今までのツバキの行動も、ローザの行動も、もちろんカゲロウも。……どれ一つとして違っていたら、今僕達がこうしていられることもなかった。……良くも悪くも、全ての行動の末に、『今』の僕達がいるんです。だから──」
共に戦いましょう、とシズマは栗色の瞳を細めながらツバキへと告げた。
「……悔しいけど、確かに、そうね。里を滅ぼしたことも、魔王に敗北したことも」
──どれ一つとして、欠けていたら『今』はきっと違う景色なのだろう。
「そうです。貴女がローザに出会っていたとしても、彼女を護ろうとしていなければ、学園での惨事は防げませんでしたし、貴女がジオンと戦わなければ、それこそ『今』はなかった──」
ツバキは彼の言葉に、唇を噛んで俯く。
言葉に詰まる彼女に、ヴァイスは取引きを持ち掛けた。
「お前はお前の思うままにその力を我々の元で振るえ。何、魔王の討伐は我々もせねばならんことだ。色々と支援もできよう。その代わりに、お前が入団を決めるなら、お前が取り返しのつかぬ道に進もうとするならば、その身を殺してでも止めると約束しよう。勿論、その場合も、ヴァイセンベルガー家の令嬢は我々が責任をもって護る。……爆弾を抱えたお前には格好の条件だと思うが、どうする?」
ヴァイスの言葉に、ツバキは顔を上げると、不安そうに瞳を揺らしている友に視線を向けた。
賽は既に投げられているのだ。
アスタロトが現れ、ツバキとカゲロウが停滞を願っていた歯車は回り始めてしまった。
昨日までのように、自分一人で友を護り続けるのが至難の業だということが理解できていないツバキでもない。
「業腹だけど、知っているわ」
──この国で一番安全な場所を。
それは他でもない、七天使の集うこの場所をおいて他にあるまい。
──答えは悔しいかな、一つしかなかった。
「いいわ。その取引きに乗りましょう」
ローザの安堵した表情を視界に収め、ツバキはシズマの手を引くようにして立ち上がる。──今度こそは、と自身の心に何度も言い聞かせながら。
「よし、取引成立だ。晴れて入団おめでとう、ツバキ・ミツルギ。兵士達への正式な告知は明日するとして、今日のところはとりあえず、皆解散だ。……もう夜も遅いからな」
ヴァイスの声に、集っていた皆が席を立ち、それぞれが己に宛がわれた自室へと戻るべく、一人、また一人と会議室を後にしていく。
そんな天使達に紛れて会議室を出たツバキは道中でローザと別れ、客人として宛がわれていた部屋へと戻るが早いか、なんだかんだで疲労が溜まっていたのであろう彼女は寝台へとつっ伏した。
部屋に掛けられた時計の秒針が時間を刻む音をしばらくの間、ぼんやりと聞きながら──、
「カゲロウ……これで良かったのよね」
──と、枕に顔を押し付けたツバキはくぐもった声で相棒へと問う。
だが、既に真ん丸に躰を丸め寝息を立て始めている黒猫からの返事はなく。
少しだけ頭を持ち上げ、ツバキは寝息を立てる黒猫を見つめ──、
「私が道を間違えたら、あの天使達が止めてくれるのなら……、私はもう一度自分の心のままに生きてもいいのかな……。お父様の『常に絶対の存在であれ』という呪縛は今尚、私を逃そうとはしてくれないけれど。……それでも私、できるのであれば、皆と──」
途中で途切れたそれは、彼が眠っているからこそ零せる、彼女の本音。
独り独白している内に、徐々に彼女の意識は薄れ──そうして夜は更けていった。