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「ホントに悪かったとは思っているのだわ」
そう反省の言葉を述べながら、ローザは一般生徒の制服である、紺色のブレザーのポケットから取り出したハンカチで、ソースの滴るツバキの髪を丁寧に拭く。
ベタつきは取れないが、何もしないよりはマシだろうというローザなりの判断だ。
「ま、まあ水も滴るなんとやらって言うし──ね?」
水はともかく、ソースに滴られてもなぁ、とボヤくカゲロウに「しっ!」と黙るよう、人差し指を唇に当ててみせたローザはハンカチを裏表全て使い、出来るだけ綺麗にソースを拭き取る。そして──。
「よし! これでまあ、問題……ない、わ、うん……」
乾拭きが終了したその友の頭から心做しかスパイシーな香りが漂って来ているのを──ローザは嗅がなかったことにした。
「でもなんで逃げないのよ。アンタなら飛んできたパンを避けるくらい、造作もないコトでしょうに……」
「ん? 別に当たって死ぬワケでないのなら、避ける労力の無駄だから」
友の問いにツバキはそう答えながら──石畳に飛び散ったパンの残骸を粗方食べ終えたらしい彼女は、指に付いたソースを行儀悪く舐め取っている。
そんな主の隣ではカゲロウが、貰ったパテの分け前を食べつくし、喉を鳴らしながら毛繕いをしていた。
「ホント、ぐうたらねぇ。……だけれどツバキ、あなたもちょっとは悪いのだわ。こんな所で能力を使うなんて、先生にバレでもしたら反省文ものよ」
お父様にも叱られちゃうし、と続けるローザはスパイシーな色と匂いのハンカチをポケットに仕舞い込み、なだらかな青い空を見上げる。
「……相変わらず、ヴァイセンベルガー家のお嬢様は大変ね」
お嬢様云々以前に、砂利や小石にまみれた刻みキャベツを指で拾って食すという、人間としてどうなのかという暴挙をやってのけたツバキの言葉に、ローザは空を見上げたまま「ホントにね」と、ポツリと呟く。
ローザは第一都市レムベルグの中でも有数の、名だたる貴族の出だった。
故に、常に貴族らしくあらねばと振る舞うその姿は、自由奔放なツバキの目には息が詰まるほど、重苦しいものに映るようで──。
「……全部放り出して逃げちゃえば?」
「ツバキ、貴族の責任っていうのはね、そんな簡単なものじゃないの」
自由への逃避行をさらりと唆してくるツバキの髪を一房、窘めるようにローザ引っ張り──、
「あなたには永遠に分からないほどには大切で、そして重責なのよ」
と言っても分からないのでしょうけどね、と呟く彼女は少しだけ半眼になり、二、三度、くいくいとツバキの髪を連続で引っ張った。
まるで呼び鈴かのように髪を引かれるツバキは──、
「あー大丈夫、分かる分かる。大変よねー」
──と、しきりに頷きながら、棒読みかつ適当すぎる同意の言葉を述べる。
そんな彼女の姿に、絶対に分かっていないだろう、とローザは内心ツッコミを入れながら、濡れ鴉の黒髪にへばり付いていたみじん切りの玉葱をつまみ取った。
「えーと、確かゴミ箱は………あ、あったわ」
ローザは屋上の隅に申し訳程度に置かれている小さなゴミ箱へと駆け寄ると、ツバキが拾い食う前にみじん切りの玉葱を捨てようとし、ふいに目に映る校庭の、豆粒ほどの生徒達の姿に、ふいにツバキを振り返る。
「ツバキ、アンタ明日の”パレード”は何を披露するの?」
ローザの声音が少しだけ固くなったことに気付いたツバキは、ちらりと一瞬だけそちらに視線を向け──、
「別に。披露とかなんとか以前に、あんな催しに、さらさら興味はないわ」
──と、友の問いを、その根本から挫いた。
まさかの、考えもしなかった友の回答に、ローザは玉葱を勢いよく放り捨てると、早足にツバキの元へと戻り──、
「絶対にダメ!」
──と、ローザは眉を吊り上げながら友へと詰め寄る。
「絶対にパレードには出ないとダメなのだわ! だって、アンタなら間違いなく”時の竜騎兵”への入団内定を貰えると思うのだもの!」
パレードに出ないなんて勿体ない、と言わんばかりのローザは、ツバキの前に膝をつき、足元の石畳をバシバシと両手で叩きながら友へと改心を促す。
「知っているでしょ!? アンタはまだ一学年でありながらにして学園の白服──つまりは首席なのよ? 先生達も絶対アンタが時の竜騎兵に入るって思ってるのだわ。そりゃあ先輩達とは違って卒業はまだ先だけど、それでもパレードは時の竜騎兵に入るための内定を貰える、またとないチャンスなのよ!?」
時の竜騎兵に入りなさい、そのための内定を貰いなさい、を目の前で連呼されたツバキは、さも煩わしそうに眉を顰めた。
時の竜騎兵とは、城塞都市ドレストボルンを魔物の脅威から護るべく作られた、高い戦闘能力、もしくは高度な異能を持つ能力者のみが入ることを許された組織である。のだが──、
「どうでもいい。とてつもなく、この上なくどうでもいい。私は別段、学園首席でありたくてこの座にいるワケではないもの。私より好成績を修める先輩方がいないから仕方なく校則でこんな白服を着ているだけ。なんで自主参加のパレードに、それも就職のためにわざわざ参加しなくちゃいけないのよ。やだやだ、絶対やだ。お断りよ」
取りつく島どころか、見渡す限り、潜る限り果ての見えない大深海を体現したかのような友のその言葉に、ローザは「むむむ」と口をへの字に曲げる。
ローザはツバキの数少ない、というよりは、たった一人しかいない、人間の友達だった。
根っからのお人好しであるローザはそんな、己しか友のいないツバキの世話を焼くのが半ば日課と化しており──。
今回もまた、ローザはその面倒見のよさ故に、目の前の駄々っ子の如き分からず屋をどうパレードに参加させるか、頭をフル回転させながら考え始めたのである──。
時の竜騎兵に入れる実力がありながら、入らないなんてとんでもない。
ドレストボルンに住まう者に聞けば、皆が口を揃えてそう言うだろう。
異能の力を持つ者自体が稀である中、時の竜騎兵はその中から更に選りすぐりの能力者を抜擢して集めているだけあり、時の竜騎兵に所属できるということは、この世界では大変名誉なこととされていた。
そしてその中でも、時の竜騎兵には幹部として“天使”と呼ばれる他とは卓越した能力を持つ者達が存在し、更にそんな天使達の中でも突出した能力を保持する七人の能力者”七天使”なる者達が組織の最高位に存在する。
七天使は能力者の頂点ともいえる存在であり、多くの者達がそんな七天使直属の部下となることを志望した。
能力者として時の竜騎兵を目指す者達は齢十七になると、能力者のみが入学できる五年制の学校で己の能力を鍛えに鍛え、時の竜騎兵に抜擢してもらうべく選定のその時を待つ。
そしてその選定の儀式こそが、年に一回開催される、学生達が”パレード”と呼ぶ催しであった。
生徒達はパレードで自らの力を様々な形で披露し、時の竜騎兵より能力者を引き抜きに来ている幹部の目に少しでも止まるべく、時に級友と結託し、時に級友を出し抜き、己の力を誇示するのである。
ツバキ達の通う学園──レムベルグ第一都市学園もまた能力者の集う学校であり、パレードの日を前日に迎えていた。
「んー、アイツは能力だけなら間違いなく時の竜騎兵入団に必要な分はクリアしてると思うから、と」
ローザは「よいせっ」とかけ声とともに、重ねて抱えていた分厚い本を図書館の長机の上にいくつも落とした。
放課後の図書館は非常に閑散としているため、ローザは心置きなく長机を独り占めしながら、調べ物を開始する。
持ってきた本の気になるページを机のあちこちに開けて置いていると──、
「あれぇ、ローザじゃん?」
やほ、と軽いノリで挨拶をしながら、金髪をポニーテールにした一人の少女がローザの机へと近づいてきた。
無愛想なツバキとは違い、ローザには友人が多いのだ。
「こんなトコでなーにやって……ん? ……人の気の引き方ぁ!? ぶくくっ、ローザ、どうしたのその本!」
ローザの手元を覗き込んだ友人は、本の内容と読み手の組み合わせがツボに入ったらしく、腹を抱えて大爆笑する。
「ア、アタシのことじゃないのだわ! その、ツバキがこのままじゃ明日のチャンスを逃しちゃうから……!」
あわあわと弁明するローザに何かを察したのか、友人は目の端に浮かべた笑い涙を指で拭き取りながら笑いを引っ込め、ふぅと鼻から息を吐いた。
「アンタ、ほんと世話好きよね。あんな可愛さの欠片もない首席サマ、放っておけばいいのに……」
そうボヤきながら目の前の椅子を勝手に引き、深く腰掛けた友人は本の積み重なる机に頬杖を突く。
「か、可愛くなくなんてないのだわ! ツバキは学園内でも、いえ、ドレストボルン内でも右に出る者なんていないほどの美人だもの!」
まるで己のことかのようにムキなって力説するローザの額に、友人は半眼になりながらピシリと指弾を当てた。
「誰が見た目の話をしてるのよ。性格の話だから、今してるのは」
「性格も……千倍希釈くらいにすれば可愛さの鱗片が……いや、万倍希釈は最低でも必要かしら……ううん、もしや億……?」
可愛くない性格、とやらに色々と心当たりしかないローザは、中々に酷い台詞を吐きながらも尚、その言葉は段々と歯切れが悪くなる一方で。
そんな絶賛考え込み中のローザへと、友人は「ねぇねぇ」と声をかける。
「まさかとは思うけどさ、あの女、明日も本当にあれで来るつもり?」
友人から話を振られたローザは、質問の意図が分からないのか、首をかしげた。
「あの女? ツバキのこと……よね?」
話の流れからして、恐らくあの女とはツバキのことだろうと見当は付けたローザだが、質問の意味が分からないようで。
「ソイツ以外に誰がいるってのよ。……私が言いたいのはほら、あの首席サマ、髪を馬鹿みたいな色に染めてるし、目の色だってアレ、何か染めたりいじったりしてるんでしょ。よりによってあんな色にするなんて、目立ちたがりかっつーの」
ポニーテールの少女はツバキにあまり良い印象がないらしく、ツバキの友人でもあるローザの前で盛大に、ぶちぶちと文句を連ねる。
己の友を目の前で悪く言われることに耐えられないのだろうローザは「待ってよ!」と、少しだけ大きな声を張り上げる。
「ツバキを悪く言わないでほしいのだわ! あの髪は自毛なのだし、目の色だって自前のものなのだから、そんな言い方しないでよ!」
──と、ここにはいないツバキを懸命に擁護するローザに、友人は少々面食らったような顔をしていたが、すぐに気を取り直したようで。
「いやいや自前って、いいローザ? この世界には黒い自毛も目玉もないから! アンタ、騙されてるだけだからね!?」
お人好し極まりないローザが、ツバキに遊びで嘘を教えられているのだろうと踏んだ友人は、やれやれとため息を吐いた。
事実、ツバキの黒髪と黒瞳は確かに自前のものであるのだが、如何せん、此処ドレストボルンの人間には黒色の頭髪、瞳色という概念がそもそもなく、また都市に存在した前例もないため、その友人が、ローザが騙されていると取ったのも無理からぬことではある。
恐ろしいほどに整った容貌を持つツバキではあるが、異端である黒髪黒瞳のせいで、その容貌は彼女にとっては災厄でしかなかった。厄介事に巻き込まれたくない一般人からは遠巻きにされる、かと思えば容貌に惹かれた、火遊びがしたい年頃である学園の男子達は砂糖菓子にたかる蟻のようにチョロチョロと近寄ってくる。──結果、それが面白いはずもない学園の女子達からは総すかんを食らう。というものの見事な負の連鎖である。
「ホントに……ローザみたいな子を玩ばないでくれないかなあ……」
ポニーテール少女は文句を垂れ、少しスッキリしたのだろう。タケノコのように積み上がった本の中から、ふいに目に止まったのだろう『魔物百科』と書かれた本を乱雑に引っ張り出した。
「ねえローザ。ローザは信じてる? 壁の外に魔物がわんさかいるのは知ってるけどさ、魔物は魔物で『悪魔』を中心に王国を作ってるって話。この百科もご他聞に漏れずきっちり書いてるけどさぁ」
嘘くさー、と右手でページをめくる友人に、ローザは机に持たせかけておいた鞄からクッキーを取り出すと、机の脇に置いてあったポットの紅茶を備品の使い捨てカップに注いで、クッキーと一緒に友人の前にコトリと置く。
「ああ、子供の時から幾度となく授業習うアレね。魔物にも王国があって、伯爵とか侯爵とかがちゃんといるっていうやつでしょ。アタシも信じているわけじゃないけれど、でも、やっぱり悪魔の封印されていると言われている場所には近付きたくはないのだわ」
ローザの言葉に「ま、それもそうね」と呟く友人は左手で頬杖をついたまま、くぁ、と欠伸をし、ページを更にめくる。
「本当に魔物を統べる、所謂『悪魔』ってやつが存在するなら、私達なんて壁の中でも生きてられないでしょ。見てよこの悪魔の説明。一匹で都市を壊滅させるとか書いてるし。こんなスケールのデカイ話されると、余計に胡散臭すぎてね」
案外まともな友の所見に、確かにそうかも、と笑うローザ。
「もし本当に悪魔が大昔にいたとしても、きっと今は皆封印されているのだわ。だから統括されなくなった魔物が自由に壁外を闊歩するのだと思うし、それに、悪魔を見たって人も誰もいないのだわ」
神様と昔の人に感謝しなきゃね、とローザは胸の前で祈るように指を組んだ。
「ま、壁内にいる分には魔物の脅威なんて皆無だし、資源も豊富だし……壁外がどんなトコかは知らないけどさ、ココにいれば、壁外なんて魔物にくれてやってもいーや、って思うよねー」
友人はケラケラと笑うと、紅茶を一気に飲み干し「ごちそうさま」と立ち上がる。
「ローザ、アンタだって学園十八位の実力はあるんだし、あんな白服サマ、放っておいて明日のパレードに備えた方がいいわよー」
紅茶で喉が潤った友人はすっかり機嫌を直したのだろう、そう言うが早いか、ローザへ手を振りながら去っていった。
後に残されたローザは友人の去り際の言葉を思い出し、小さく唇を噛む。
「そりゃあアタシだって本当はパレードでアピールして、時の竜騎兵にスカウトされて……そうしたいのは山々なのだわ」
誰にともなく、そう呟くローザ。
ローザとて一学年でありながらも、学園十八位という破格の成績がある。お嬢様で、財力もあり、人望もある。
だけど、だけれど──。
「アイツには、敵わないのだわ。アタシの能力も財力も、人望も。全部を賭けてもアイツの持つ能力一つに、遠く、遠く……及ばないんだもの……」
ローザは本に目を落とし、少しだけ昔のことを思い出した。
「忘れもしないわ……あれは七年前……」
──七年前、たまたま侍従と馬車で遠出していた時に、馬車の通り道となっていた雨上がりのぬかるんだ道へと茂みから飛び出してきた黒猫。退けても退けても必死の剣幕でニャーニャーと鳴きながら戻ってくるその黒猫の姿に、何かあるのかも、と付いていった先の路傍で、力なく転がっていたのは、己と同じくらいの年頃の少女。
それが己とツバキとの出逢いだった。
「あれ? 思えばアイツ……アタシの前で起きてるより、寝転がってる方が多くない……?」
──何とか馬車には乗せたものの、一文無しの上に栄養失調で衰弱しているわ、自暴自棄になっているのか何を聞いても無視されるわ、かと思えば急に目を見開き馬車から飛び降りようとするわで、さんざんな目に合いながらも、四苦八苦しながらなんとか連れ帰り、父親に頼み込んで家に居候させて。
「まあ、まさかその拾った無愛想極まりない痩せっぽっちが能力者だとは、拾った時は夢にも思わなかったのだけど……」
──ツバキを拾ってからしばらく経ったある日のこと。家に異能の暗殺者集団が押し入り、多くの大切な人たちが命を落とした。
目の前で自分付きの大人の護衛兵達が殺され、自分の遊び相手を務めてくれていたその護衛兵の子供達と、同じく子供だった非力な自分を助けてくれたのは、他でもない──。
「束になってかかってきた暗殺者を全員返り討ちにして尚、アンタは余裕そのもので──」
──刹那、図書館の時計が十六時を告げる鐘の音を鳴らした。
苦い回想を振り切るように、何度か首を横に振るローザ。
「アタシは家が家だけに、お父様のお務めの関係で、それこそたくさんの天使達をこの目で見てきたわ……」
だからこそ、なればこそ、ローザは確信していた。
「ツバキ、アンタの能力は並み居る天使を凌ぐモノ。もしかしたら”七天使”にだって遅れを取らないものなのかもしれないのだわ。まあさすがにお父様と違って、七天使は直で見たことはないから何ともだけど……」
雲の上の存在である七天使と学生であるツバキを、こともあろうか比較していたことにふと気がついたローザは己の両頬をペシペシと挟むように叩き、弱気になっちゃダメ、と自身へと向けて呟く。
「ともかく、よ。明日、天使の目にツバキが止まりさえすれば良いんだから……ファイト、アタシっ!」
両の拳をぐっと握りしめるローザ。
そんな彼女の金髪を、窓から吹き込んだ春風が強く揺らしていった。