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影法師 時の竜と黒き巫女リメイク中  作者: 壱戸 利希
神具女の里と籠目の少女
18/42

4-5

「──ッ!」

この時になってようやく宗達は雷が落ちたような衝撃とともに気が付いた。

 息子達を──家の存続を気にかけるあまり、娘を人間の姿をした、とんでもない化け物に育ててしまったのだ、と。

 影法師になれぬ娘が生まれたその時から、せめて巫女として里に尽くせるよう、俗世に染まることを善しとせず、同年代の子供との交流を持たせなかった。勿論、母親が教えるようなことは何一つ教えなかった。

 巫女となった彼女へと教えたのは、常に里の民の為にあれ。それだけで。

それだけで止めていれば、この帰結は避けられたのかもしれなかった。だが──。

影法師ともなった──いや、なってしまった巫女へと叩き込んだのは、御鶴木の跡取りとしての在り方。それは舘亀家の跡取りに上手く言いくるめられ、家を潰すこととならないよう叩き込んだ、孤高なる絶対強者としての当主の在り方。

「そうだ……やはりこの帰結は……」

──己に言われるがまま素直に巫女(むすめ)が孤高を志した結果。

──その志したもの故、誰にも告げることなく、狂った影法師(むすめ)が里のためにと粛々と実行した『救済』の結果。

 悔いてももう遅い、が、宗達は悔いるより他に為す術がなかった。

「苦界に生きるからこそ苦しむのです、お父様。壁の民(てき)に怯え、病に怯え。……私は皆を『救済』するだけ。影の世界(あちら)へ行けば、二度と住み家を追われることはありません。それに、この仔達によって、永遠に苦しみも取り払われるでしょう」

 キチキチ、と蟲が顎を鳴らす音が聞こえ、そちらを見上げる宗達の目に、白いぼてっとした蟲を掌に乗せた娘が映る。

「この仔はこれから『お父様』になる仔です。──これからはお父様も、里の心配をすることなく、毎日祭りを楽しんでくださいね」

 蟲が、一際大きく蟇が潰れるような鳴き声をあげた。

「あ、そうだ。お父様……一兄様だけはあちらにおられません。何故なら、一兄様だけは舞を見に来られなかったから。だから、祭りが始まる少し前に、お眠り頂きました。永遠に──」

「……!」

 蟲を地に降ろし、椿は言葉をなくす父の頬を、左手で腹に押し付けるように挟むと、右手で無理矢理口を開けさせる。

 彼の身体を這い上がった蟲は、ギチギチと自らの進路を無理矢理抉じ開けながら、彼の口腔の奥へと消え去り、そして蟲に体の所有権を握られた──宗達だったモノはびくびくと痙攣しながら、影の世界へと沈んでいった。

「大好きですよ、お父様──」

 椿は懐から、父より唯一与えられた宝物の毬を取り出すと、手向けの花のように、ぽしゃり、と泥に落とした。

 ──たった一つだけでも、嬉しかった。大事に、大事にしてきた毬。

 彼は、自分が与えたことすら覚えていないかもしれないけれど。

 椿の想い出を乗せた毬は、金糸を闇に煌めかせながら、ゆっくりと影の底へと沈んでいった──。



 宗達の最期に居合わせた者全員が、櫓の上でただ呆然と、色を無くしていた。

 己に集まる視線の中、人の形をした化け物は、ゆっくり立ち上がると、

「さ、早くあなた達もあちらに行きなさいな。皆も待っているわ」

 ──と、その爪先を櫓の床で打ち鳴らす。

 足元の溶解を読み、回避しようとした彼らは、その目に飛び込んできた光景に、動くことも忘れ、硬直した。

 椿は己の影から幾人もの”民だったモノ”を喚び出したのだ。

 そして、それらは皆、

「あ! 父ちゃん!」

「何してるんだよ! 早くこっちに来てよおとう!」

「帰ったら美鈴と遊んでくれるって約束したじゃない!」

 今まさに、彼女と対峙している男達の子供で──。

「さ、みんな、こちらにおいで」

「なぁに? 椿さまー?」

 椿は、子供達をちょいちょいと手招きしながら呼び寄せると、集まった子供たちに何かをこそこそと耳打ちする。

 子供達は耳元に掛かる吐息に(くすぐ)ったそうな顔をしていたが、最後まで聞いた椿の言葉に「うん、わかった!」と元気に頷くと、ててて、とそれぞれの父親の元へと駆け寄っていく。途中──、

「あ、樹さま、こんにちはー!」

 己の隣をすり抜けがてら、行儀良く挨拶をしながら、父親の許へと駆けて行く子供達の姿に、樹はただ歯噛みした。

 ──殺すことなどできない。何故ならあれは里の子供達なのだから。

 そんな奧歯を噛み締める樹を尻目に、子供達は父親へ嬉しそうに飛び付いた。

「父ちゃん!」

「おとう!」

「おっとう!」

 嬉しそうに笑うその顔は、影に飲まれる前と寸分違わぬもので。

 父親達もそう感じたのだろう。もう子供を手放すまいと、それぞれが我が子を背後に庇いながら椿と距離を取る。──がそれが仇となった。

「幹太!?」

「豊!」

「美鈴、離せ! 離すのだ!」

 子供達は背後から父親に組み付くと、漆黒の影に変貌し、どろりと溶けていく。

溶ける影は、その実体がなくなりながらも子供たちの声で笑い続け──。

 我が子だった影に飲まれた父親達は、椿へと怨嗟の言葉を吐きながら、あえなく影の世界へと沈んで行った。

 あっという間に誰もいなくなった境内で、樹と椿は相対する。

 いつの間にか月は通りすぎ、二人を端から照らすように、正午の日差しが戻り始めていた。

「あとはあなただけよ。樹」

 椿は誘うように樹へと手を伸ばす。

「ねえ、あなたも解ってくれないの……? 良い処だったでしょう? 彼処(あちら)にはもう、怖いものなんて、なにもないのよ──?」

 樹はゆっくりと、だがきっぱりと首を横に振った。

「怖いものは確かにないかもしれない。けれど、あそこには今君が言ったように『何もない』んだ──。みんなで迎える新年も、みんなで祝うはずだった──子供たちの成長も──!」

当然のように訪れるはずだったそれらは全て、無限回廊となった『今日』という一日に、残酷にも奪われた──。

「椿……今回君がしたことは、巫女や影法師云々以前の問題で、まず人として絶対にしてはならないことだったんだ」

 言葉にして、はっきりと言い切った樹の姿に、──椿の瞳に浮かんでいた、理解者を求める、縋るような色が、すっと消える。

「そう……、あなたもやっぱり、解ってくれないのね……」

 一度だけ、渇いた瞳で、泣き笑いのように微笑むと、椿は地を蹴り、樹へと肉薄し、──彼がそこから逃げることはなかった。

「え……?」

 ふわり、と慣れ親しんだ香が香る。

 樹は親が小さな子供にするように、飛び込んできた椿を抱きしめた。

 椿の顔に困惑が浮かぶ。

「誰も……気付いてあげられなかったんだね」

 樹はぽつりと呟いた。

 誰もが、狂うまで悲鳴を上げ続けていたはずの彼女の声をついぞ聴くことはなかった。

 それでももし、彼女が産まれた時に、普通の赤子として育てられていたなら。

 育つ過程で、一度でも父親が彼女の親として彼女を振り返っていたなら。

 もし一度でも、弱き子供としての彼女自身を見てくれる者がいたなら。

 そして何より、誰よりも彼女の近くにいたはずの己が、彼女の逸脱にもっと早く気付いてあげていれば……。

「ごめんね椿……。本当は知ってたのに……。君が本当は寂しがり屋で──」

──視線は違えど、立ち位置も違えど、例え伸ばした手が届かなくても。それでも良いから、と人の温もりを求めて、常に誰かの近くに彼女はいた。

それが、疎まれている父だとしても、兄弟であることを棄てた兄だとしても。

けれど、彼女が縋っていたその僅かばかりの温もりすらも、孤高な当主(みつるぎそうたつ)はその手から奪い去った。──己と同じ当主(たちば)へと導くため。

「ごめんね……ごめんね──!」

 謝る樹の腕に震えるように力が籠った。

「どうして……? どうして、どうして、みんな、解って、くれないの?」

 椿は壊れた人形のようにそう繰り返す。

「私は、私は──!」

 ──強き者としていついかなる時も民を護り救う『夜明けの番人』。ただただ、その模範で在ろうとしただけだ。

 いつも嘆き、悲嘆に暮れる彼らを、如何に救済するか。そのことだけを物心ついた(みこになった)時からずっと、ずっと考えていた。毎日毎日、社に──御影様に問うていた。

影法師となれた時、ようやく『(こたえ)』が見つかった気がした。これは御影様のお導きなのだと信じて疑うこともなく。

 ──そう、彼らは救われたはずなのだ。

 この世の時間軸から遠く切り離された、夜明けの晩の世界。永遠に常闇に閉ざされた、影の世界で、老いることなく、害する者なく、飢え凍えることすらもなく『動き』続けるのだ。

「間違ってなんかない! 間違いなんかじゃない……! だって、これでみんなはもう泣かない! 後はあなたと、私が影に沈めば──それで終わり。(わたし)は唄うわ。(みんな)が望む唄を。(わたし)が舞って、(みんな)が拍手する。『明日』にならないから屋台から明かりは消えないわ。ずっと楽しいお祭りの『今日』。みんな、みんな(えがお)になる──」



 自分の選択は間違いなどではなかったはずだ。と椿は己に言い聞かせる。

 だけれど、本当は気付いていた/目を逸らし続けた。

 人を救えるのは人でしかなかった/人の心が理解できなかった。

 救いたかった/ころしてしまった──。

「そうよ、私……は……」

 どうすれば良かったのだろう。

 自身の眦から流れ、頬を伝うものが何であるか、椿は知らなかった。

 心臓を引き裂くような、この痛みが何なのか、知らなかった。

 だけれど心のどこかで椿は思っていた。樹だけは解ってくれるだろう、と。

 裏切られたような苦しみと、否定され、これで良かったんだと思う安堵が入り交じる。

 音もなく、ただただ静かに樹の足元が溶けていく。

「もう──引き返せない──」

 椿は虚ろな目を樹へと向けた。

 もう賽は投げられたのだ。

「鶴も、亀も消えてしまえ──」

 今更、引き返すことなどできないのだ。

 例え、それが間違った道だと『もしも』ではあるが、理解できたとしても。

「君は気付いていないのだろうけど……木蓮だけは最初に、影に沈めずに“殺した”。それがきっと、君に残された“人”の最後の欠片──」

樹は妹に殺された親友を思い浮かべ、やるせなさに目頭が熱くなるのを感じながらも懸命に続ける。

「本当は嫌、だったんだろう? 木蓮が──蟲に乗っ取られた操り人形になるのが……それを見るのが──」

抱きしめた腕の中で、椿が小さく震えた。

「ちがう……ちがう……。一兄様は、舞を見に来られなかったから……あの場所で影に沈められないと分かっていたから……」

「じゃあ、全てが終わった後にそれを決行したのでも良かったはずだよ。でも君は、敢えて“祭りの前に”かつ“影に沈めず”殺した。それは他でもない。みんなを失ったことに勘付いて木蓮が傷付くのを君は避けたかった。そして、君はアイツを蟲の傀儡(くぐつ)にもしたくなかった──」

それは、こんなことさえ起こらなければ、樹ですら全く気付かず見落としていた、本当に細微な、椿から兄への情の片鱗。

だがその片鱗──“人”としての欠片はあまりにも脆く、後一押し何かがあれば、簡単に潰れ、消え去ってしまうだろう。

「椿……君は今、僕まで殺めてしまったら、木蓮の残したその一欠片の意味もなく、本当に怪物に成り果ててしまうだろう」

 樹はゆっくりと体を離し、怪しく光る椿の目を正面から見据えた。

「椿。里を出て世界を見て回るんだ。──そしていつか君が、本当に在るべき人の姿を見つけたなら……」

 樹の背後で、彼の影が大きく膨れ──、

「その時は、迎えに来てくれるかい? 僕はそれまでずっと待っているから」

 ──極限まで膨れ上がったその影が弾けた。

「絶対だよ──」

 弾けたそれは、樹の意思のまま、瞬く間に彼の全身を包んでいく。

 御鶴木──即ち、(つるぎ)

 舘亀──即ち、(たて)

 鬼より与えられた、その守護の力により、繭のように彼を包んだ影は、やがて黒曜石の結晶のように凝固すると、ゆっくりと影の世界へと沈んでいった。

──最後まで、目の前の少女を案じながら。

「──うあああああッッ!」

 独り残された少女の慟哭が、誰もいなくなった山野に轟く。

 地面に膝と手を突き、血が滲むほどに唇を噛み締める椿。

 激しく身を苛むそれは、彼女にはまず理解できない痛みだった。

 怪我もしていないのに、その凄まじい痛みは今まで感じた苦痛の比ではなく。

 一枚の漆黒の羽根がひらり、と巫衣に落ち──次いで、静かに肩へと舞い降りた羽根の持ち主である鴉が、心配そうに椿の顔を覗き込んだ。

「椿……大丈夫か?」

「なんで、なんで痛いの? なんで、苦しいの?」

 おかしいよと嗚咽を溢す椿に「きっとそれが、離別の苦しみなのでは」と嘴を鳴らす鴉。

「そっか……これが……」

 手に付いた砂埃を払うことすらせず、椿はゆっくりと立ち上がる。

 ──そうか、これが里の民がよく嘆いていた、

「離別の苦痛なんだ……」

それはまるで、胸を刺すような、手から大切な何かを奪われるような。そんな、恐れにも近い感情で。

「私には間違いが判らないよ……カゲロウ。みんなはもうこんな苦しみを感じなくても良い……それで、何がいけないのか。判らないよ──」

でも、と椿は伏し目がちに呟く。

「みんな、怒ってた。私、みんなを救いたかっただけなのに」

やるせなさと倦怠感と、そして『何』に向けてかは自身でも分からないような失望が彼女を襲った。

「ねえカゲロウ……。私は──なんで──」

「ッ──! 椿、後ろだ!」

 刹那、鼓膜が破れるのではと思うほどの鴉の(しわが)れた大音声(だいおんじょう)が耳に突き刺さる。

 何事かと訝しげに振り返った椿は──、

「誰、あなた?」

 誰もいないはずの──否、誰もいなくなったはずの、境内にポツンと佇む、漆黒の隠蓑を纏った男を見上げた。

「バアル、無様なものだな?」

 くつくつと、地の底から響くように嗤う男に、椿は奇妙な感覚を覚える。

 例えるならば、高い木から飛び降りた時の浮遊感のような。

 ふいに氷塊を腹に押し付けられたような。

 無意識のうちに、肩から鴉を下ろし、童が人形をそうするように、抱きしめる椿。

「だが見物だったぞ? 六十六の軍団を棄てた貴様が、よもや蛭などという下等極まりない生物に化けて国を去るとはな」

「カゲロウ……あれは……?」

 鴉は椿自身が気付いていないだろう彼女の震えを羽越しに感じ取りながら、内心で舌打ちした。

「よりによって今現れるか──! いいか、椿、絶対アレには逆らうな。アレは魔物の世界を統べる我ら王すらを配下に置く、頂点たる存在、魔王ルシファーだ」

「魔……王……?」

──警鐘を鳴らす脳を落ち着かせながら、椿はカゲロウと魔王を交互に見返す。

 魔王ルシファーは及び腰なカゲロウの発言に、一度小馬鹿にしたように鼻を鳴らすと、隠蓑から長い爪の生えた人の手を椿へと向け──。

「ぅぅ──……」

手を向けられる。ただそれだけの動作だというのに、周囲の空気が全身に重くのしかかり、椿は締め付けられるような頭痛に小さく唸る。

「小娘、中々の道化ぶりだったぞ。実に久方ぶりに楽しませてもらった。……褒美に、その鴉を差し出せば命だけは見逃してやろう」

 ルシファーの言葉に、椿は頭痛から来る吐き気に耐えながら、腕の中のカゲロウを見下ろした。

「カゲロウを……どうする気?」

「質問を許可した覚えはないぞ、小娘。……だがまあ我は今気分が良い。故に、特別に答えてやるとしよう。──何、難しい話ではない。ただ国に連れ帰り、褒美を遣わせてやる。それだけだ」

淡々と紡がれるルシファーの言葉に、椿は後退りしようと試み──、片足を後方へと引く寸前、直感がその動作に対する危険を告げた──。

「ッ……! そんなの嘘よ……。だって、今、あなたは隠せない殺気を放っていたもの」

 ──と、咄嗟に後退しかけた足を止めながら、椿は手に嫌な汗をかく。

 もし直感を(ないがし)ろにし、一歩でも下がっていたら、今頃己の四肢は一つ二つ落ちていたかもしれない。──そんな、猫の気まぐれで食べられていない鼠のような気分で椿はルシファーの出方を伺うように、彼に鋭い視線を向ける。

「はっ、これでも隠していたつもりだったのだが。まあいい、ならば率直に言おう。ソレは我に刃向かった愚か者だ。故に、我自ら手打ちに出向いてやったのだ」

 ルシファーの伸ばしていた掌に、凶悪とすら取れるほどに膨大な、彼の力が込められた黒い(ほのお)が浮かび上がる。

魔王と己との距離は五歩と言わず、もう少し多めに空いているにも関わらず、僅かでも気を抜けば魂まで灰燼に返されそうなその焱を前に、椿はカゲロウを腕に庇いつつ、必死に己の唇を噛み締めながら、何とかその痛みで意識を保ち続けようと試みた。──が。

「っぅ──ぅぁぁ……っ──!」

一際大きく燃え上がる焱から伝わる熱に、噛み殺したはずの苦痛が椿の口端から漏れる。

──痛い。

──痛い痛い痛い。

己の脳裡が『苦痛』以外を訴えなくなる。

火傷なら、何度も経験したことのある椿だが、魔王の力を纏う黒い焱に曝されている痛みはその比ではなく。

「っあぁぁあぁッッ──!」

──鴉を抱えた腕が、焼ける。

──爪が途方も無い痛みを訴えてくる。

──もう、噛んだ唇に、痛みを感じられない。

ぽたり、と鴉の艶やかな羽に朱が滴り落ち──、それは羽を伝って羽先からほたりと地に落ちる。

「……ッ! 椿、もういい、俺を下ろせ!」

 見上げた少女の顔に、彼女の生命の危険を察知し、羽を膨らませる鴉。

焱に炙られ充血した眼と、乾燥と熱に切れた唇──。呼気は既に笛の音のようにひゅうひゅうと高い音を立てるばかりで。

だが、椿は己を慮るが故にカゲロウが出した指示にも、頑なに首を横に振って返した。

「や……ぜったいに、いや……!」

 ──自分で招いたこととはいえ、別離の苦しみはもう充分だった。

 最後に自分に残ったこの温もりを差し出したら、またあの痛みに襲われるのではないか、と、ただただ椿はそれが恐ろしくて。



「──ッ!」

 ──椿は覚悟を決めた。

 一瞬にしてその表情が、玩具を奪われる子供のものから、四面楚歌に陥った武人のそれへと変わる。

 椿は鴉を抱きかかえたまま、魔王へと近付き──、

「ふん、ようやく──」

 そのまま手渡すかに見えた鴉を次の瞬間、後方に後ろ手で思い切り放り投げた。

「椿──!?」

 鴉の驚愕した声を遥か後方に聞きながら、椿は法力を込めた、常人離れした脚力で地を蹴ると、魔王へと頭上から蹴り叩き込む。──が、常人離れしているとはいえ、それは到底魔王に通じるものではなく。いとも簡単に彼女の脚は、隠蓑を纏う腕で防がれてしまう。

 だが椿とてそう簡単に行かないことくらいは分かっていたようで。

「悪いけれど、本命は──」

 ──魔王の背後、彼の背から伸びる影。

「もらった!」

 回転するように着地し、椿は影に手を当てる。

 その瞬間、影から幾本もの影の刃が音の速さで魔王の背へと伸び──、

「ふむ、これが影法師、か。実に面白い能力だな」

 ──突き刺さったはずの影が、崩れた。

 はらはらと彼岸花の花弁を落とすように散りゆく刃。嘘だと言わんばかりに目を見開く椿の視界一杯に、魔王の手が迫り──。

 彼女が頭を鷲掴みにされる──その刹那、ルシファーの纏う簑の裾から、細い鎖に繋がれた(さかさま)の星──即ち、逆五芒星を模した金色のシンボルが、しゃらりと落ちた。



 ──メキリ、と己の頭から音がした。

 椿は自分の頭が魔王に握り潰されたのだろうと真剣に考え──、己の眼前で止まった隠蓑の腕に、そうではなかったのだと気付く。

「でも、なんで……」

──己は死んでいないのだろう。

確かにあの音は骨が潰れる音だったのに、と椿は内心首を傾げ──。

「椿、早く逃げろ!」

 次の瞬間、彼女の視界いっぱいに、黄緑掛かった黄金の毛と羽が映り込んだ。

「カゲロウ!?」

 その黄緑色の正体は、獅子の躰に大鷲の翼と頭を持つ魔物、グリフォンへと変化したカゲロウだった。

 音速で椿と魔王の間へと滑り込んだカゲロウは、その獅子の爪と大鷲の嘴を、魔王の腕にがっちりと食い込ませ、少しでも魔王を彼女から引き離そうとしたのだろう。魔王を拘束したまま空へと飛び上がらんと羽を大きく羽ばたかせ──。

「ちっ!」

 魔王が忌々しげに舌打ちし、己の腕を齧り続けるグリフォンを椿目掛けて蹴り飛ばすのと、その袖から零れた逆五芒星のシンボルが輝くのは同時だった。

「カゲロ──」

 椿がその名を呼ぶより早く、彼女へと蹴り飛ばされたグリフォンが着弾した。

 獅子の巨体の下敷きになりながら吹き飛んだ椿は、境内の石畳で後頭部を強打する。

「うっ……!」

 後頭部を強く打撲したためか、起き上がろうとすると強い眩暈に襲われる椿は、一旦退き、態勢を立て直すべく、影へ潜ろうと地面に手を這わせるが、大きな足がその手を強く踏みつけた。

「ッ──!」

 椿は、自らの手を踏みにじる足の主を、歯を食いしばりながら見上げ──そこにいた、淡い水色の髪を持つ、人型を取ったカゲロウと目が合った。

 いつの間にか、椿の上からグリフォン姿のカゲロウは消えており、彼女の手を踏みつけた人型のカゲロウは歪んだ笑みを浮かべながら、その踏みつけた手をぐりぐりと地面で削らせる。

「あなた……魔王……ね」

 気を抜けば即座に暗転しかかる意識をなんとか保ちながら、椿は己の手を踏みつけるカゲロウを睨むように見上げた。

「何をバカなことを。どこからどう見ても、俺じゃないか」

 その声は紛れもない彼女のよく知るカゲロウのもの。──だが。

「違うわ……カゲロウは……ここにいるもの」

 椿は自由の利く手で、自分からほんの少しだけ離れた場所に転がる漆黒の猫の毛並みに触れていた。

「カゲロウは魔力が尽きてくると人か、猫か、蛙にしかなれないの」

 その猫がここにいるわ、と続けながら己を射殺さんばかりに睨む少女の姿に、人型のカゲロウはニマリと嗤った。

「なかなかどうしてやるではないか、小娘」

 ぐにゃり、とカゲロウの姿から隠蓑姿へと戻った魔王は、逆五芒星のシンボルを椿の前にしゃらりと掲げる。

「この魔道具は、我が部下、カラビアを改造したものでな。改造が中々上手くいかず、カラビアは死んだが、それでも一度だけ相手の能力を奪取するという新たな能力を付けることに成功した。……本当はその影を扱う能力を奪ってくれようと思っていたのだが……」

 魔王は頭巾に隠れて見えない顔を、黒猫がいるであろう方向へと向けた。

「貴様が飛び出してきたせいで、貴様の『魔物』への変化能力を奪ってしまったではないか!」

 ぺたりと転がるカゲロウを怒気も露に見下ろす魔王は、ふいに、何かを考えついたようにその口を笑みのかたちに歪める。

「いや待てよ。貴様の一番厄介な能力……。その気になれば、我にとて変化できる能力が失われたのだとしたら、これはこれで良かったのかもしれん」

 魔王は再び人型のカゲロウへと変化した。どうやら人型のカゲロウの定義は『人』であり『魔物』でもあるようだ。

──と、ふいに椿の手から踏みつけていた足を離した魔王は、そのまま離した足でうずくまる黒猫を蹴り飛ばし──宙を舞ったのは黒猫ではなく椿だった。

 咄嗟に黒猫に覆い被さった椿は魔王の蹴りを腹に受け、毬のように跳ね──、地面に成す術なく叩き付けられたその肉体からは、ぐしゃり、とまず人体からは聞こえてはならないような湿った音が響く。

 魔王はそんな瀕死の椿を蹴り転がし、仰向けにさせると、その喉につま先をめり込ませた。

「命が惜しいか?」

 面白そうに問う魔王に、椿は緩慢に首を横に振る。

「私……には、もう……何も、ない……もの」

 息も絶え絶えに呻く椿に、魔王は面白そうに嗤う。

「何もない、か。ならばバアルとて必要ないではないか」

 椿は最期の力で、大きく首を横に振った。

 何故まだ、カゲロウにしがみつくのか、自分でも理由が分からなくなり、椿は震えるように息を吐き出し──思い出した。

 自分は悪魔なのだ、と、たまたま池のほとりで保護した蛭が、震える声で告げた出会いの時、椿は嬉しかったのだ。

 里人どころか人ですらない彼は、里を護るという椿の責の中には含まれない存在で。

 生まれて初めて得た友だった。だからただ生きていてほしかった。

 生きていてさえくれれば、それでよかった。はずなのに。

 失いたくなくなった。もう離別の苦しみなどに苛まれるのは懲り懲りだった。

「カゲロウを……殺さないで……。わたし、わたしは……ころして、いいから……」

 魔王は椿の喉に爪先を食い込ませたまま、椿を──正確にはその目を見下ろした。

 だが既に生を放棄しているその瞳は、澱み濁り、漆黒の闇を映している。

「つまらんな。生きることを放棄した屑を(ほふ)るほど、馬鹿らしいこともそうそうあるまい」

 人形の手足をもぎ、何が楽しいというのか。

 椿の視界に大きな手が被さり、

「人形よ。貴様に機会をくれてやろう。──『これ』を返して欲しければ、そしてバアルを見逃して欲しければ、壁の中にいる天使共の首を全て我に献上しろ。良いな? 期限は、そうだな。貴様の『後ろの正面』に追い付かれるまでだな──」

その言葉を最後に、彼女の意識は途絶えたのだった。

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