4-3
──絵本にポタリ、と透明な雫が滴った。
もしも、もしも自分達が影法師を輩出する家などでなく、普通の家の者として、守られる立場にあったのならば、兄弟達は誰一人死ぬことなく普通の兄弟としてやってこれたのだろうか、と木蓮は叶わぬ夢を想う。
刹那、急に胸が苦しくなり、彼は体を折るようにして何度も咳き込んだ。
「木蓮!」
誰もいないと思っていた部屋に響く、自分を呼ぶ木漏れ日のような、温かで、それでいてさらりとした心地のよい声に木蓮は目を見開く。
「……樹、か?」
いつの間にか襖を開けて部屋に入ってきていた己の親友のその声に、肩で息をしながら、木蓮は立ち上がろうとするが──。
「馬鹿! 起きるんじゃない」
樹と呼ばれた青年は早足で布団の脇へと歩み寄ると、木蓮を気遣うように、その背に掌を添えながら、膝を折る。
木蓮はそんな樹と視線を合わせるように、少しだけ顔を上げた。
「あー……うん」
視界に映る友の、心底己を心配しているのであろうその表情に、木蓮の口許が小さく緩む。
「ん? 何で笑ってるのさ、木蓮?」
木蓮が小さく笑っているのを目敏く見つけたらしい樹は、癖のないさらりとした黒髪を揺らしながら首を傾げた。
その気取らない姿と柔和な面差しに木蓮は自然と肩の力を抜き──、
「いや別に。敵襲にも気付かないとは御鶴木家も末だな……と、ね」
──彼はそう冗談混じりに小さく笑う。
「もう。殺す前に勝手に死んでそうなくせに、よく言うよ」
木蓮の冗談に、樹も冗談で返し「違いない」と、二人で声を潜めて笑った。
樹は里を支配する、二大名家の一つ、舘亀家の長子で、木蓮にとっては無二の友である。
二人が仲良く笑い合っていたその時、ふいに襖の外で家人の歩く気配がし──、
「……用が無ければ立ち去ってもらおうか、舘亀の」
「ふん、貴様に言われる筋合いはない御鶴木の」
二人は笑みを引っ込め、敢えて互いに牽制し合うように芝居を打つ。
御鶴木、舘亀両家は相手が自分の家を潰しにくるのではないか、と二人が幼い時から敵対関係にあった。気の合う二人は幼い頃より、そんな両家の家人の目を盗んでよく遊んだ仲で、少なくとも、互いが互いを心配こそすれ、命を狙い合うことなど一度もなかった。
足音が遠ざかっていくのを聞き届け、木蓮は友に先程まで読んでいた絵本を手渡す。
「父上達も、よくこんな本を子供達に与えたものだよ。心優しい崖の民が聞いて呆れる。御影様から力をもらった崖の民の、本家の末裔同士がこうして睨み合っているんだから」
木蓮の言葉に、樹は手にした絵本をパラパラと数ページめくり「言えてるね」と、肩を竦めて賛同した。
「僕が思うに、里の子供達に配る絵本にはそろそろ追加のくだりも描いた方がいいんじゃないかと思うんだけど、どうだろ木蓮?」
「ははは、御影様の意志を継ぐ二人の青年の末裔同士はとっても仲が悪いです、ってか?」
「そそ。大事なことでしょ? ま、仲が悪いのは御家同士だけではあるけどね」
僕らには関係ないね、と顔を見合せ、カラカラと笑う二人。
ひとしきり笑った後、ふいに木蓮は親友へ「ところで」と首を傾げてみせる。
「そういやお前、何しに来たんだ? 影法師としての依頼が舞い込んでいないなら、屋敷に戻って寝てろ。俺ほどじゃないが、お前も馬鹿みたいに体弱いだろ」
木蓮の言葉に樹は「あー、それはねー」と何やらゴニャゴニャ一人呟いている。
樹と木蓮。いや、彼らだけでなく、両家の血縁者達に病弱な者が多いのは仕方のない話ではあった。
彼らの家は、卓越した影法師としての能力を僅かでも薄めないよう、何代にも渡り、極力近縁者同士で婚姻していたため、どうしても病弱な者が生まれやすくなってしまっているのだ。
「なんだよ、樹、お前さっきからゴニョゴニョと──」
「いやー、だからその、うーん、僕も喀血する前に寝ようとは思ってたんだけどねー」
言葉を曖昧に濁し、明後日の方向をチラチラと見やる樹の姿に、木蓮は何かに鋭く気付く。
「ははーん、ナルホドな。ふーん、そういうことかー」
樹にしか見せることのない、木蓮の下衆顔に、樹は「あ、バレた?」と悪戯っぽく笑う。
「そ、僕は椿に会いに来たんだけど、彼女が此処にいるって聞いて来たのに、居たのは痩せた優男一人だったんだよねー」
どうやら樹は椿に会いに来ていたらしく。
勿論ながら、彼の訪問の半分の目的は己への見舞いであるとは気付いている木蓮だが、彼は敢えて気付かないフリをして布団の上に頬杖を突いた。
「そりゃあ失礼しました、と。……椿なら今頃、庭で池の鯉でも眺めてるんじゃないか?」
とっとと会いに行け、と言葉で樹を部屋から蹴り出し、一人木蓮は久方ぶりに心の底から笑う。
何がそんなに愉快なのか木蓮本人にも分かっていないようだが、彼の気持ちは晴れやかなようで。
「椿のこと──頼んだぞ、樹」
木蓮は小さくそう呟く。
樹の、椿に向ける想いが友情なのか、はたまた淡い恋心なのか、それは竹馬の友である木蓮にも判らない。でも一つだけ、彼に間違いなく判ることは、自分は兄として彼女に何もしてあげられなかったけれど、もう、兄弟であることを棄ててすらいるけれど。でも、きっと樹ならどのような形であれ、自分の分まで妹を可愛がってくれるだろう、ということだ。
「そうしたら……いつかはお前と話せるかなぁ。一個人ではなく、普通の兄弟として」
木蓮は未練がましいその思考を断ち切るように首を横に大きく振ると「もう一眠りするか」と布団に再び身を横たえた。
「おーい、椿ー?」
御鶴木家の庭園の片隅、大きな鯉が悠々と泳ぐ池の畔。
樹は尋ね人の姿が見当たらず、声を発しながら、庭園のあちこちを練り歩いていた。
屋敷の家人に尋ねても椿の有力な目撃情報は得られず、椿を探し疲れた樹は池の畔で立ち止まると、困ったように、懐から小さな赤い小袋を取り出す。
「うーん、せっかくお土産も持って来たのになぁ……」
小袋を振ると、ちゃりちゃりと鈴の高い音が鳴る。どうやらその小袋の中身は鈴飾りの付いた髪紐のようだ。
樹は視線をあちこちに巡らせながら、ちゃりちゃりと小袋を振り続けている──と、ぷちり、とその手元で妙な音がした。
「ん……?」
その音に樹は、ついと視線をそちらに落とす。──と、彼の手の内で小袋の縛り紐が何故か真っ二つに切れていた。
「あれ? 一昨日、買ったばかりなんだけどな……」
樹はそう独りごちながら眉をひそめ、赤い小袋をひっくり返す。
その時、ぽつん、と小袋に水滴が落ちた。
「雨……?」
昊から落ちてくる水滴は徐々に数を増やし、ぽつりぽつりと彼の掌や頭にも落ちてくる。
いつの間にか灰色に垂れ込めていた分厚い雨雲は、大粒の雨を降らせ始めていた。
落ちる雫が、赤い布でできた小袋に染みをつくり──それはまるで、どす黒い血の色のようで。
赤い布が濡れれば、その色になるのは至って普通のことなのだが、何故かこの時、その小袋の黒ずんだ赤に──、
「何だろう……何か、取り返しのつかないことが起こってるような……」
そんな、言い知れぬ胸騒ぎを覚えたらしい樹は、その後、ずぶ濡れになることも厭わず、より真剣に椿を探したが、結局その日、彼が椿に会うことは叶わなかった──。
次に樹が御鶴木家を訪れたのは、以前の訪問から二十日も経った後のことだった。
最後に御鶴木家を訪った日、どしゃ降りの雨の中、椿を探し回った無理が祟ったのだろう、身体の弱い彼はその後、ずっと床に臥していたのだ。
その日、ようやく動けるようになるまで回復した樹は、とるものもとりあえず、すぐさま御鶴木家へと駆け付け──、
「……まずは落ち着かないと」
──と、御鶴木家の重厚な門扉の前で、彼は自身の気持ちを落ち着けるように、一度大きく深呼吸をする。
そうして、しばらくして彼自身の感覚で、ではあるが、少しだけ落ち着いたらしい、改めてその門扉を叩く彼は、舘亀の屋敷の者ですら見たことがないような、非常に険しい表情をしていた──。
「どうぞ、こちらでございます」
──と、御鶴木家の使用人に案内され、広い客間に通された樹は、そこで座布団に行儀良く正座している少女の姿に、大きな安堵の吐息を漏らす。
彼女の姿を直に確認するまで、生きた心地のしなかった彼ではあるが、その無事を確認した瞬間に彼の裡に湧き上がるのは、温和な彼にしては珍しい、安堵と同じほどの大きさの怒り──。
彼はそれを椿に気取られぬよう、用意された座布団に座ると同時に、口を開いた。
「椿……、僕が寝込んでたのは知ってるよね? 里の影法師や、影法師になるべく励んでいる修行僧達が見舞いに、と、入れ代わり立ち代わり来ていたんだけれど──彼らから聞いたよ」
感情を隠しきれない、僅かに責めるような樹の口調に、いつにも増して感情の籠らない様子の椿は、よく分からないとでもいうように首を傾げる。
「別に、聞いて困るようなことは何もないと思うけれど」
変な樹、と無表情のままクスクスと声だけで笑う椿。
そんな彼女からはまず、話題に上ることはないと踏んだのだろう、樹はほんの少しばかり語気を荒げ、此度の来訪の目的を口にした。
「じゃあ僕から単刀直入に言わせてもらう。……うちに来た者が皆、口を揃えて言っていたよ。君が一人で、魔物の領域である山野を歩いていた、と。しかも護衛に付こうとした彼らを撒いて逃げたそうだね?」
敏い椿が言い逃れしないように、樹は事実のみを突き付ける。
「えっと……?」
──と、椿は初めて、表情らしいものを顔に出すが、それは罪悪感でも反感でもなく、ただただ疑問、といったような表情だった。
椿は浮かべたその疑問を再び飲み込み、何度も己の中で反芻し、樹が言いたいのであろうことを見つけようと努力し、やがて一つの解に辿り着く。
「ああ、なるほどね。でも問題ないわよ?」
「問題しかないだろう! 影法師の一人も付けずに里の外に出るなん──」「──全く問題ないわ」
樹の言葉を遮り、だって、と椿は続ける。
「──じき、舘亀家にも通達が行くはずよ。──御鶴木椿は影法師として認められる為の儀式を通過したって、ね」
まるで呼吸をするように、いとも簡単に告げられたその言葉に、言葉の主である彼女とは反対に、樹は呼吸を暫し忘れるほどに驚愕していた。
そうして、しばらく愕然としていた彼だったが、優に五秒は経った頃、掠れた声で一言「嘘、だよね?」となんとかそれだけを口にする。
「嘘なんかじゃないわ。その証拠に影法師としての戒名も付いた。──樹が”五鬼”の字を賜ったように、私は”鍔鬼”の字を賜ったわ」
どうか、冗談であってくれ──。そんな、彼の一縷の希望を容赦なく粉微塵に砕くように、椿は淡々と、彼の望みとは真逆の結末を語った。
「そんなの嘘だ! 嘘……嘘──」
樹は信じられないと言わんばかりに困惑した表情で何度も首を横に振る。
「樹──」
頑なに己の言葉を信じようとしない樹に、椿はため息を吐くとともに、呆れたような視線を向けた。
彼女の呆れの原因はまず間違いなく、樹が現実から目を逸らしていることにあるのだろう。それに気付かない彼ではないが、気付いているからといって現実を受け入れられるかどうかはまた別の話で。
「何で……影法師になんて……!」
「そんなの、父様が仰ったからに決まっているじゃない。そんなことも言われないと分からないような、あなたでもないでしょうに──」
帰ってまだ寝ていた方が良いんじゃないの、と続ける椿。
どうやら彼女は、樹の物分りの悪さが、体調不良から来るものだと思っているようである。
──一方、樹はというと御鶴木家の現当主、御鶴木宗達の姿を思い返し、腸が煮えくり返るほどに、静かに激昂していた。
その怒りは、影法師になるための儀式を命からがら通過した──、その儀式が如何なるものか知っている彼だからこそ、抱いた怒り。
「椿、君だって知っていたはずだよね?」
──その儀式に臨む。そのためだけに、何年も修行のために山奥に篭り、そのまま帰らぬ者となった修行僧達を。
「巫女である君が知らないはずが、ないよね?」
何年も俗世と離れて修行を積み、心身ともに半ば神仏の域に達するほどに鍛えて尚──、儀式に耐えきれず、命を落とす僧も少なくないことを。
「確かに君には彼らにはない強みはある。──僕らは舘亀と御鶴木。影を扱うということに関しては、彼らほど苦労することはないだろうね。──でも」
「回りくどいわね。……つまりはあなたはこう言いたいのでしょう? 私が、楽して能力だけを手に入れようとした三兄様のようになる可能性があった、と──」
「……やっぱり、そう分かった上で精神を、肉体を……己を鍛えることもなく、君は儀式に臨んだのか──」
己の両の掌を握りしめながら、樹は俯く。
「御鶴木、宗達……」
──家のためとはいえ、そこまでするとは思わなかった。
「まさか我が娘を……」
──僅かの修行も積ませることなく、儀式に赴かせるなど。
そこまでして家が大事なのか、そこまでして自らの子供を殺したいのか──。
脳裡に去来する後暗い百万語をうっかり口に出そうものなら、何だかんだと父親を尊敬している椿が激昂すること間違い無しであるが故に、樹は心の中で彼を詰ったのだが、僅かも冷めやらぬ、現御鶴木家当主、御鶴木宗達に対する抑えられぬ怒りは軽蔑としてその表情にまで表れていたようで。怒りに戦慄く彼を見る椿の目が、すっと冷たいものとなる。
「今考えたことを取り消しなさい樹。……父様は里の民の安寧を誰よりも尊んでいるだけ。……そう、民を護り、里の平穏を護る。それこそが御鶴木の使命なのだと常々仰っているの」
だからこそ、と続ける椿。
「私も父様と同じ。皆を救済したい。……けれど、巫女のままでは魔を打ち祓えない。──きっと、最初からこの道は決まっていたのよ。御鶴木家から他に卓越した影法師が出ない以上、私が影法師になるしかなくて、私は影法師になれば、魔を祓うことができる──」
そうでしょう? と椿は首を傾げてみせる。
「例え、そうだとしても、その選択はあまりにも早計すぎる。……さっき君は自分で言ったよね? 君の兄上は──」「──あー、うるさいうるさい」
椿はよほど三番目の兄について触れられたくないのだろう。それが話題に出た瞬間、すぐに彼の言葉を遮ってしまう。
「私は三兄様とは違う。私は──、いえ、私の里への想いはあんなのじゃない。私は皆のためならば、どんなことだってしてみせる。どんなことだって耐えてみせる──」
椿が己に言い聞かせるように呟いた、その時だった。ふいに乾いた拍手が襖の奥から響いてきたのは──。
「よく言った。偉いぞ鍔鬼」
ゆっくりと左右に開かれた襖の奥から姿を現したのは、他でもない、御鶴木宗達その人だった。
初めて父に誉められたのだろう椿は、ぱっとその顔を輝かせる。
彼女のことを良く知っている樹ですら、初めて目の当たりにする椿の心底嬉しいと言わんばかりのその表情は、彼女の実年齢よりもとても幼い、童子のもののようだった。
「聞いた通りだ。舘亀家の次期当主殿。我らは里を護るため、影法師であり続けなければならない。そも、影法師が男しかなれぬという古く、下らぬ仕来たりは、此度鍔鬼が儀式を通過したことにより、打ち砕かれたのだ。なあ、鍔鬼」
椿は父に声を掛けられることがよほど嬉しいのだろう「はい、はい」と大きく何度も頷く。
「……、御言葉ではございますが宗達様。影法師とは山野の奥、道なき道を駆けるもの。椿がいくら影の扱いに飛び抜けた才があろうと、影法師には運動能力も必要かと」
いくら卓越した影を操る才があろうとも、それは肉付きの悪い、細身の彼女にそぐう仕事では決してない。
「やれやれ……舐められたものだな。──鍔鬼、少し見せてやるといい」
つまらなさそうな目を樹に向ける宗達の言葉に、椿は小さく頷くと、──一瞬にして樹との距離を詰めた。
「──!?」
いつ座布団から立ち上がったのかも分からない、その常人離れした脚力に目を瞠る樹は、彼女の掌底を胸に受け、弾き飛ばされた先の襖にしたたかに背を打ち付ける。
宗達からは背になっていて見えなかっただろうが、弾く瞬間に、椿が目に見える程の減速を掌にかけていなければ、今頃彼の肋骨はメキメキに折れていただろう。
樹は何度も咳き込みながら、目の前にゆらりと立つ椿を見上げた。
「つば、き……?」
打たれた胸を片手で押さえながら、何とか立ち上がろうとする樹だったが、思いの外打撃の衝撃は大きく、すぐに彼は襖に背を滑らせながら座り込む。
「はは、丁度良い! 鍔鬼、奴を始末しろ」
「父様、此処で樹の命を断てば、里の者が黙っては……」
「何、構うことはない。屍を山に打ち捨て、魔物にやられたことにすればよいだけのこと。これで舘亀は跡取りが一人もおらなくなるぞ! ははははは!」
狂喜する宗達の声が、樹の頭にガンガンと響いた。
「なるほど、そういうことでしたら──」
視界が明滅し始めた樹の目に、椿が宗達へと恭しく一礼する姿が映り込む。
彼女の、その礼の動作は洗練されているというよりは最早、意思を持たぬ絡繰人形のようで──。
「それではどうか、御覚悟を──。抵抗なさらなければ、一息の内に始末することをお約束いたします──」
己を見返る、その無機質な黒曜の瞳に樹は自らの死を覚悟した。
そんな彼の頭を駆け抜けるのは走馬灯の如き、数多の追憶。
両親、使用人、親友、里人──そして。
「つば……き……」
譫言のように、何度もその名を繰り返しながら、樹は暗転していく視界の中、無機質な瞳の少女に手を伸ばす。
樹には目の前のその少女が現実の存在なのか、はたまた願望の見せた幻覚なのかも、もう分からなかった。が──。
「……て、いい。……どっちだって、いい……」
──必死に伸ばした指先が、彼女の輪郭を縁取る艶やかな濡れ鴉を梳いた、気がした。
それが彼の薄れゆく意識の、最後の記憶。
そうして樹は、己のその動作に目の前の椿が少しだけ首を傾げる仕草を見せたのを、視界に収めたと同時に、その意識を失った──。
──それは、いつのことだろうか。
昊も大地も血のように焃く染まっている。
虫、獣、鳥、花、そして魔物さえも──。いついかなる時も当たり前のように、辺りに満ちているのが感じられるはずの、躍動するような生命の気配は何処にもなく。
僅かに感じられるのは、今にも消えそうな、あまりにも少ない、傷付いた御魂の苦痛のみ──。
この世の最涯のような、その終焉の地で、一匹の巨大な漆黒の鬼が地に屈み込み、血溜まりの中で一心不乱に何かを貪り喰っている。
鬼の口元から聞こえる、その湿った湿音だけが混沌たる地に響く、唯一の音。
だが──。
──ふいに気付く。鬼は、何かを貪り喰っているのではない、ということに。
くるりと、というには緩慢な動作で、鬼が此方を振り向いた。
鮮血に塗れた咢。
哀しみに塗れた眼。
──ああ。そうか。
あの鬼は、喰らうではなく、誅していたんだ──。
ふいに意識が浮上し、目を覚ました樹は暗い闇の中、天井の木目を眺めていた。
「あれ……? 僕、生きてる?」
そう呟いた瞬間、己の言葉が頭にガンガンと響き、樹は顔を歪める。
「痛ッ──……!」
──無性に身体も怠く、やたらと気分が悪い。
「あー、もしかして、もう死んでいるとか?」
独りごちながら、その身体を布団から起こし、辺りを見回す樹。
敷布団に掛布団。その下は畳で、周囲は襖に区切られていて──。
恐らくどこかの屋敷の中だということには、すぐ見当が付いた樹だが──、
「なんだ、ここ……」
奇妙なことに、彼の周囲は透過性のある闇に満ちていて、音という音がそこには何もなく。
「一体どういうことなんだろうか……」
不思議に思いながらも、布団を這い出し──樹は己が目を疑った。
「なんだこれ……!? 世界が反転している……!?」
それは体感的にも視覚的にも、あまりにも不可解で不気味なものであった。
彼が足を着けている畳は、本来天井があるであろう上方にあり、本来であれば畳がある下方に、天井が位置している。
重力が反対に働いているかのようなその感覚に、樹は理解が追い付かないのだろう。己の身に起こっていることが夢などではないことを確認するように、何度もその場で足踏みを繰り返し──、結果、とりあえずは現実だということに落ち着いてしまったらしい。
「これが現実であるなら、まずは誰かに話を……」
──いや待て。そもそも此処には──。
はた、と己の思考に動きを止める樹。
「もしかして……誰も……?」
困惑に追い討ちを掛ける不気味なまでの静寂に、樹は「誰かいないのか」と声を張り上げる──が、どこからも返答は無く。
とにかく部屋から出ようと、樹は半ば小走りで閉め切られた襖へと近づき──。
「あ──」
スパン、と開けた襖の先。磨き抜かれた広い廊下には、両手で盆を抱えた単姿の椿が立っていた。
「椿……!」
樹は図らずも、彼女の姿に安堵の吐息を漏らす。
見知った者がそこにいる、という安心感は彼の想像以上に、彼を落ち着かせた。
椿が同じ場所にいるということは、恐らく自分が殺されたわけではなさそうだと踏んだ樹は、周囲を改めて見回した。──というには些かキョロキョロと、忙しないその様子に、彼の抱く疑問をなんとなく感じ取ったのだろう。椿は己の身体を、開けた襖にへばりつくように片隅に寄せ、樹から廊下の先がよく見えるようにする。
「心配しなくていいわ。ここは御鶴木の屋敷の……私の部屋よ」
心配しなくてもいい、と言われても彼は先ほどまで、ここの当主に命を狙われていたわけで。
左右に警戒したような視線を向ける樹に椿は、
「あなたを殺すつもりなら、あなたはもうこの世にはいないわ。だって、あなたが私に倒されてから、もう九日も経っているもの。殺す時間は充分にあった。そうじゃない?」
──と、淡白な声で事実のみを述べる。
「……つまり、僕に何か利用価値があると宗達様は踏んだ、ということかい?」
──身代金目的、ということはまずないはずだ。何故なら御鶴木家も充分な資産を蓄えているのだから。
「ということは……他の何か……」
──もしや、丁度明日に控えた御影祭で己に何かをさせようとでもいうのだろうか。
咄嗟にそんな思考をあれやこれやと巡らせる樹を、盆を抱え、両手が塞がっている椿は身体を使って、ぐいぐいと部屋に押し込む。
半ば無理矢理樹を部屋へと押し込め、それに続いて己も部屋へと入ると、椿は宗達が見ていたら「作法がなっていない」と憤慨するであろう、後ろ足で器用に襖を閉め直す、という小さな暴挙をやってのけた。
「あなたに利用価値があるか、といえば確かにあるのだろうけれど……。今回あなたを助けたのは私の独断──」
──だって、と続ける椿。
「あの時、お父様はあなたを殺すことしか考えていなかった。だけれど、お父様が常々仰っているように里を全ての脅威から護るのならば、優れた影法師であるあなたを失うのは里の損害に他にならない。だから私が独断で助けたの」
椿はそう述べながら、更に身体でぐいぐいと樹を押していく。
進行方向からして、布団に戻れというところだろうが、彼女の部屋ということは、恐らく今まで己が寝息を立てていたのは彼女の布団──。と、気付き、なんとなく気まずい樹は、掛け布団の上に、居心地が悪そうに正座する。
「あら、顔色が優れないようだけど……」
そんな彼の気まずさなどには全く気付くことなく、布団の脇に同じように──だが至って普通に正座した椿は、手にしていた盆を畳に置いた。
盆には湯呑みが置かれており、その中身は水だろうか、無色透明の液体が入っている。
「水薬、持ってきたの。飲めばすぐに痛みは消えると思うわ」
樹へと差し出された湯呑みの液体の正体は、どうやら薬らしい。
受け取るがままに、樹は薬をほんの少しだけ口に含み──すぐさま着物の裾から手拭いを取り出すと、それを吐き出した。
「樹……?」
椿は「何か変なものでも入ってたかしら?」と、その冷たい手で湯呑みを樹の手から抜き取ると、薬を自らの口に含み──、
「うん、特に変わったことはないようだけど?」
──と、舌の上で何度か水薬を転がし、そのままごくりと飲み込んだ。
そして──水薬を飲み込んだ椿はふと何かを閃いたように、己の手でポン、と手槌を打つ。
「あ、もしかして味のこと? 味が不味いっていうのなら諦めてもらえるかしら。いつも通り、と言ったらアレだけど、いつもこんな感じの味だから」
椿のその言葉に、樹はポカンと口を半開きにする。
「えぇ……!? これが普通……!?」
「ええ、いつも通り。至って普通の味よ」
「いやいやコレ、苦いとか辛いとか渋いとかそんな生易しいものじゃなくて、なんというか、もう何とも言葉に形容し難い不味さなんだけど──」
二口目を口に含む勇気は自身のどこにも見当たらず、くん、と意味もなく湯呑みを嗅ぐ樹。
悪い意味で衝撃的な味を誇りながらも、恐ろしいことに、その水薬からは何の臭いもしないらしく──。
「椿……この薬、何なの? 何を使ったらこうなるのさ?」
「え? 原料なら、翳形草だけど?」
さらりと返ってきたその答えに、樹は驚愕の表情で湯呑みの中身に視線を落とした。
「え!? 翳形草って……里では絶滅したって噂の、あの、影を操る力を増幅させるという植物!?」
「ええ。私も里では一度も見たことがなかったけれど……。樹、こっち」
立ち上がり、ちょいちょいと手招きする椿に釣られ、庭に面した襖に近づく樹。
「それっ」
スパン、と勢いよく開かれた襖の先。屋敷の庭には辺り一面見渡す限りの──。
「これ……全部、彼岸花!?」
庭にびっしり、所狭しと咲いている、甘いとも何ともつかぬ不思議な芳香を放つ赤い花に樹は目を瞠った。
「だと思うでしょう? でも、実はこれが翳形草なのよ。彼岸花と似ているけれどほら、よく見ると花と葉が茎に付いているでしょう?」
一本手折り、椿から手渡されたその翳形草を見つめ、樹はポツリと呟く。
「葉見ず花見ず……」
「そういうこと。彼岸花なら葉がある時に花は咲けず、花が咲く時には既に葉はない。けれどコレはほら、翳形草だから花と葉と両方同時に付いている──」
もう一本要る? と椿は縁側に手を突き、更に一本の翳形草を手折る。──と、その拍子に、花からぼとりと真っ白な何かが落ちた。
掌大ほどの大きさの丸っこいそれは、地に落ちると「ギィ」と、蟇が潰れたような声を上げる。
その落ちたモノに目を向け──樹は絶句した。
何故ならそれは、奇怪極まる見た目の蟲だったからだ。
その蟲は、髑髏のような禿頭に蟷螂のような鋭い顎を持ち、短い棘の生えた八対の蜘蛛のような脚はやたらと長く。
毛のちびちびと生えた、ぼってりとした腹を引きずるその蟲は、触覚を震わせながら、顔の半分を占める複眼を樹に向ける。
「あら、見えてなくてごめんなさいね」
目を白黒させる樹の前を横切るように、つい、と伸ばされた椿の白い手が、それはもう無造作に、むんずと蟲の背を掴み──、彼女はそのまま大きく振りかぶると密集する花の中へと蟲を思い切り放り投げた。
よくよく見ると、庭には同じ蟲があちこちに湧いているようで。
そして、その蟲の白さを不気味に浮かび上がらせているものこそが、庭一面に咲き誇る、翳形草の赤い花々だった。
「……おかしいな」
己の記憶にある御鶴木家の庭には、翳形草など生えて無ければ、勿論ながらそれに巣食う蟲もいなかったはずだ、と困惑する樹。
「いや、花だけじゃない……ここは……」
──大なり小なり差はあれど、この場所の全てが、違和感の塊だった。
いっそ、ここは死後の世界だ、と言い切られた方がしっくりくるくらいには。
そんなことをつらつらと考えている樹に、椿は「ああ、やっぱり樹も来たことがなかったのね」と呟きながら、彼女にしては珍しく、面白そうな表情を浮かべる。
「じゃあ影法師としては私が一番乗り、かしら」
「一番乗り? なんのことだい?」
樹の問いを聞いていなかったのだろう、椿はあどけない笑みで「やったぁ、一番!」と赤い単を翻しながら、トトトッとその場で小さく二度ほど回った。
そんな彼女の姿はまるで小さなうさぎのようで。
樹は苦笑しながら、滅多に見られることのない、彼女のはしゃぐ姿をただ見守る。
「そうよ一番! 私が一番! そして──」
ぴたり、と足を止めた椿が仰向くように身体を反らし──そのままの体勢で己の背後に立つ樹を見返り──、
「あなたがきっと二番手ね──」
急にストン、と表情の抜け落ちた様子で呟く椿。
「私ね──巫女と影法師。両方になってみて、分かったの。お父様の仰る通り、御鶴木と舘亀。両家の能力の高さは、他に比べて段違い。だけど──」
そう呟きながら、椿はゆっくりと体勢を戻すと樹と向き直り──、傾聴姿勢を取っている樹の胸元に白磁の人差し指をトン、と当てた。
「そんな両家の生まれでも、此処へはお父様の能力では辿り着けない。そして、二兄様がこの世にいらしたとしても──。きっと、此処へと自力で辿り着けるほどの能力を持っているのは私とあなた、二人だけ──」
巫女だったからかしら。なんとなく分かるのよ、と椿は無表情のまま、口端だけを無理矢理釣り上げた。
「さて、どうしようかしら。里の損失を思い、助けたのだけど……あなたの家が、お父様と同じ、己の家可愛さだけの考えで御鶴木の敵に回る日が来たならば、あなたは私にとって最大の脅威になり得るわけだし。やっぱり此処で終わらせておこうかしら──?」
樹の胸元に当てた指をつ、とその首元へとなぞらせる椿。
場に沈黙が降り、たっぷり五秒は経った頃、椿は「なんてね」と肩を竦めた。
「冗談よ。だって、すぐに寝込むような樹に私が敗けるわけがないもの。それに……いえ、なんでもないわ──」
椿はコロコロと玉を転がすように声だけで笑み「驚いたかしら」と、樹の回りをくるくると回り、彼の顔を四方八方から覗き込む。
「椿、冗談が過ぎるよ……。というか、やっぱり此処は御鶴木家じゃないんだね──」
──ここが本当に御鶴木家だというのなら、御鶴木宗達が『辿り着けない』はずがないのだから。
そんな樹の思考を読んだように、椿は「いえ、此処は確かに御鶴木家よ?」と、その思考を否定する。
「正確にいうと──此処は御鶴木の家だけれど『影の世界』の御鶴木の家なのよ。影からのみ訪れることのできる世界で、まあ見ての通り、天地は普通の世界をそのままひっくり返したようになっているし、影の中だから常に常闇よ」
椿は立ち話に疲れたのか、縁側へとちょこんと腰掛け「でね」と続ける。
「普通の世界との大きな違いは、此処で、自力で生存できる生命は限られているってことかしら。多分ここで私達、影法師の庇護なく生きていけるのはそれこそ翳形草とその叢に棲むこの──影蟲達くらいね」
樹は得意気に話す椿の横顔をしばらく眺めていたが、ふいに己の視界に映ったものに、大慌てで熱弁する彼女の肩を揺すった。
「椿、何か黒い影みたいなものが近づいて来てるけど!?」
「ん? ああ、あれは普通の世界にいる者の影よ。誰かまでは分からないけど、家人の誰かが此処を歩いているんでしょう。……あちらの世界からは私達がここにいるなんてことは全く分からないから全然気にしなくて良いわよ」
なに食わぬ顔でさらっと言ってのける椿は縁側から降ろした足をぶらぶらとさせる。
「影の、世界──」
──聞いたことがなかった。影の世界を自在に往き来できる影法師など。
唖然としている樹の視界の中で椿は、ここでは宗達に叱られることもないからだろう、くぁと大きな欠伸をしている。
「才能か、孤独の涯か──はたまた両方か」
樹は小声でぽつりと呟く。
「知ってるよ──」
──彼女が、生まれた時からずっと、影法師としての教育を叩き込まれている兄達を見て育ってきたことを。その気になれば己には簡単に成せることに、何度も躓く兄達を、いつももどかしそうに隅から眺めていたことを。
「そう、君が──」
──影法師になれない女は必要ないから何処かで遊んでいればよいと、それだけの理由で齢二の時、彼女が唯一父から買い与えられた、彼女の宝物である毬を抱えて、いつも修行に明け暮れる兄達を遠巻きに眺めていたのを知っている──。
兄が流鏑馬を始めれば、見様見真似で彼女も遠くで始めた。
彼らが剣の手習いを始めた時には、巫女である椿は道場には通えないため、兵法書を漁り、鍛冶屋に通い、なんとか独学で剣を修め──。
そうやって、兄達が師である父に教わった影法師としての全てのことを、遠巻きに眺めていた彼女は、それが如何なるものかを己が才に問い、才を師として履修した。
「皮肉なことだよね……」
必要ない、と切り捨てた娘だけが、御鶴木宗達──彼の最後の希望となった。
彼が手塩にかけた息子よりも、邪険にした娘ばかりが、より影法師に近い──どころか、息子達を、そして自身をも遥か凌ぐ逸材であった。
──しかし、何よりも皮肉なのは。
それは全て“彼女の師が己が才であった”点に尽きるだろう。
彼女の師が父であれば、彼女の能力は『御鶴木宗達の目指す影法師』が頭打ちとなり、それを超えることはなかったのだから。
「きっと、この世界も──」
──彼女が実質孤独であったからこそ、己に従い、そして見つけた、この世ならざる彼女の”居場所”。
「ねえ樹。此処はね、とっても優しいところなのよ。此処ではね、歩く影も、此処に沈んだ人も、みんな等しく真っ黒になるの」
「沈んだ人?」
歩く影とは、先ほど見た、表の世界を歩く者の影ということで間違いないだろう。と一人納得する樹。
では沈んだ人というのは──。
「沈んだ人っていうのはね、あなたみたいに表の世界から来た人のことよ」
「え……僕!?」
樹は咄嗟に己の身体を見下ろした。
理由は簡単、
「僕まさか人影になってるの!?」
彼女の”みんな等しく真っ黒”発言ゆえである。
「ううん。樹は真っ黒じゃないわ。何故なら、沈める時に、影法師があなたの肉体を”許可”したから──って言ってもよくわからないわよね。……簡単に言うなら、この世界には人は影としてしか存在できないところを、影法師の能力を使って、肉体に”影”と同じ意義を与えて、肉体を影として扱うことで、その肉体の意味崩壊を防いでいるってところかしら」
「……ああ、うん? なるほど、ね?」
なんとなく理解できないでもない樹だが、理解と模倣できるかはまた別で。
「まあ、あなたなら一晩も考えればきっと理屈もしっかり解せるのじゃないかしら?」
椿は樹の影法師としての能力を高く買っているのだろう。
嫌味などでなく、本気で言っているのであろう椿のその言葉に、樹は「頑張ります……」と返すしかなかった──。
それからしばらくの間、樹は椿の隣に並ぶように縁側へと腰を降ろすと、影の闇に光を飲み込まれ続ける、天である地に幽冥な光を放つ、赤く不気味な望月をじっと眺めていた。
「思えば、君とこんなにゆっくりと過ごすのは、初めてだよね」
月を眺めながら呟く彼の、その横顔を横目でちらりと見やり、椿は「そうね」と目を細める。
「私はなんやかんや巫女として多忙だったし、あなたは影法師と──自身の身体のご機嫌取りに忙しかったものね」
「ははは……返す言葉もないなあ……」
冗談か本気か分からない椿の言葉に、苦笑交じりにそう返しながら、樹は頭を搔いた。
「でも、まあ得難い機会だし、良いんじゃないかしら。昔もこれからも、こうして居られるなんて、もう無いことだと思うし──」
「うん、そうだね……って、待って! 昔はともかく、未来まで無かったことにはしないで──!?」
椿の言葉にうっかり頷きかけた樹だったが、すぐさまその言葉に同意しかねる点を見つけ、彼は全力でそれを否定する。
彼の反論に、一瞬不思議そうな顔をした椿だが、すぐに彼の言わんとするところを理解したらしく、
「え──? ああ、確かにそうね。未来はまだ、分からないものね──」
──と、素直に頷いた。
互いに得難い時だと思っているからだろうか、それから二人は特に何かを語ることもなく、並んで月を眺めていたが──、会話が途切れて優に五分は経った頃、樹が再び、徐に口を開いた。
「ねえ……椿、そういえば、明日の御影祭で舞を奉納するんだよね?」
椿の、巫女として研鑽に研鑽を重ねた唄と舞。
それは、彼女のその珠の唄声を聴く為だけに、用事がない時でも御鶴木家に大金を納める民が後を絶たないほどで、木蓮が「花魁かよ」と常々苦い顔をしていたのを樹はふと思い出す。
いつの頃からか、彼女の舞を拝めば、あらゆる苦しみから解放される、というとんでもない流言まで里ではまことしやかに囁かれ出した。
まあ彼女の舞を見て、思い込みで本当に病気を治癒させる民が続出したのだから、思い込みも決して悪いことではないのだが……。
「舞──? ええ。勿論ながら、その予定だけれど?」
当然のように椿から返ってきた答えに「じゃあ」と、樹は言葉を続ける。
「じゃあさ、舞が終わったらでいいよ。舞が終わったら……まだ屋台も残っているだろうし、一緒に屋台を見て回らないかい?」
予想もしていなかったのだろう樹の言葉に、椿は目に見えて硬直した。
そして待つことたっぷり五秒は数えた頃、ようやく彼女は「一緒に屋台を見て回る」という単純すぎる言葉を理解したようで。
「樹、ひとつ聞くけど、あなたは死んだ扱いってことを理解しているのかしら? 里の損失を防ぐために私が独断で生かしておいたとはいえ、それがバレた日にはお父様に怒られること必至な私が、みすみすこの世界からあなたを逃がすと思う?」
樹を解放すれば、椿が宗達に叱られるのはまず間違いないはずだ。
そんな、宗達に叱られることを一番嫌う彼女の言葉に、樹は特に気にした様子もなく、
「うん、僕は君を信じているからね。咄嗟のことだったとはいえ、君が後先考えずに僕をここに連れてきたとは思っていないし。──で、そんな君を信頼している僕と、明日は一緒に屋台を回ってもらえそうかい?」
──と、のほほんと返した。
椿は面白くなさそうにふっと息を吐き出すと、仏頂面でボソッと答える。
「そうね。舞が終わったら、ね」
そして椿は、そう答えると同時に、苦いとも渋いともつかぬ表情で縁側から一息に立ち上がった。
「元気になったのなら、もうここに居る必要もないわね。お父様のことは、あなたのその根拠のない予想通り対策済みだし、表の世界へ戻ることに何ら問題はないわ。……まあ、あなたなら、私が本気で此処に押し込めておこうとしたとしても、そのうち勝手を掴んで帰ってくるのでしょうけど──」
そうボヤきながら、つい、と差し出された椿の白磁の手を立ち上がりながら掴む樹。
刹那、彼はどぷり、と泥沼に身体を預けたような感覚に襲われ、反射的に瞼を閉じた。
次いで、徐々に己の身体が浮き上がるのが感じられ──。
いつの間にか辺りからは全ての景色が消えていたらしく、怖々と開いた彼の目に映るのは身体に纏わり付くような、辺り一面単色の闇。手足を動かすと、まるで水中にいるかのように、ただゴポゴポと、鈍い水音だけが身体を包む。そして気泡が水面へと昇るように、彼はゆっくりと浮上を続け──一際大きな泡の弾けるような音とともに、その瞼を貫くように眩い光が差し込んだ──。
囀る鳥の声。鼻腔をくすぐる、多様な花々の香。
遠くから聞こえてくる、人々の喧噪──。
辺りを満たす光の明るさに、闇に慣れきった目が咄嗟に順応しないのだろう。樹は目を細め、そんな光に徐々に目を慣れさせながら、ゆっくり辺りを見回す。
「間違いない……此処は、いや、此処こそ……」
──何度も足を運んだことのある、己の良く知る、表の世界の御鶴木の屋敷。
影の世界と同じ位置に浮上したのだろう。目の前には庭が広がっているが──、
「当然、か……」
そこには勿論、翳形草も生えていなければ、影蟲などもいない。そこには椿の好みなのだろう──水仙やら釈迦やらの花が静かに香を漂わせているだけだ。
鳥、花、獣、人──。数多の生命の躍動を頬に感じながら、樹はようやく元の世界に帰ってきたのだと実感する。
「樹、お父様は今、祭りの最終調整のために屋敷を空けているわ。だから今のうちに帰りなさいな。お父様のことはさっきも言ったと思うけれど……あなたは気にしなくていいから」
ふいに己の背後から響いた声に、樹は驚いた様子もなく振り返る。
「えーと、この場合、一応“おかえり”でいいのかな──椿?」
背後に立つ、影の世界から戻ってきた少女──椿へと、冗談半分、本気も半分で問う樹。
「──いや待てよ。僕も戻ってきたわけだし“ただいま”なのかな? うーん、どっちだと思う?」
「……どっちだって良いわよ、そんなもの」
些かのほほんとしすぎている樹に、椿は『心底どうでも良い』といわんばかりの顔でボヤいた。
「ほら、呑気なこと言ってないで、すぐに帰りなさいってば」
「え? いや……きちんと僕から宗達様に話をつけて帰りたいし……宗達様が戻られるのを待たせてもら──」
「そんな悠長なこと言っている場合じゃないでしょう! あなた、家を九日も空けているのよ!? 今、舘亀家は上を下への大騒ぎ中で大変なんだから──!」
珍しく、感情の篭った口調でまくし立てる椿に、樹は「それは確かに」と決まりが悪そうに頬を掻く。
椿の言葉通り、舘亀の家ではさぞや大騒動が起こっているはずだった。
なぜなら次期当主がずっと帰ってきていないのだから。
「まずい……さすがにまずい、けど──!」
家老達のあわてふためく様が想像に難くなく、非常に申し訳ない気持ちになった樹だが、宗達のことも気掛かりで──。
だが椿にとっては、そんな彼の悩める心境など知ったことではないのだろう。そんな、もたくさとしている樹を「すぐさま出ていけ」と言わんばかりに、御鶴木家から半ば強引に追い立てた。
渋々ながらに樹が去ったのを門扉の前で見届けた椿は、自室に戻ろうとし──その道すがら、庭池の畔で誰かに池から引きずり出されたのか、カピッと干からびかけている哀れな蛭を見つけた。
別段、蛭が好きなわけでもなければ、勿論ながら恩があるわけでもない椿だが、その蛭が一瞬、己へと向けて小さく首を擡げたその姿が、まるで救いを求めているように見え──。
「あなた、誰にやられたか知らないけれど、どんくさい蛭ねぇ。ま、でも世の中は捨てる者あれば拾う巫女あり、ってね。……ほら、部屋に来なさいな。金魚の空鉢もあるし、血も飲ませてあげるわよ」
椿はこの日、蛭を一匹手に入れた──。