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「シズマ様、すみません……またハンカチは新しいものをお返しします」
鼻をかみ、少し落ち着いたローザは、己の放った言葉に思い当たる節があったらしい、苦虫を噛み潰したようにな顔で黙りこくるツバキから、顔を上に逸らし、次いで、ツバキにかじりついたままビクッと全身を跳ねさせるカゲロウを睨む。
「あなたもなのだわカゲロウ!」
「う、うぇぇっ!?」
「どんくさいことこの上ないくせに、悪魔だなんて、笑わせないで! この前だって盛大にすっ転んで小麦粉被って、白猫になってたくせに!」
「ローザ……そのことは……!」
カゲロウは暴露された内容が恥ずかしいのか、ツバキの後頭部に、その端正な顔を埋めて隠した。
ローザは今まで積もりに積もっていたのだろう怒りを説教に変え、石のように固まった主従に、ここぞとばかりに浴びせかける。
「人の言うことは素直に聞きましょう! 会った人には親切にしましょう! 友達はいっぱい作りましょう! アタシを放って二人だけで出掛けるのはやめましょう! 時の竜騎兵には喜んで入りましょう! 夜寝る前には明日の服を用意して、一日無事に過ごせた感謝を神に祈って──」
矢継ぎ早にまくし立てるローザの言葉を遮るように、ふいに室内に拍手が響く。
拍手の主は、唯一まだツバキと面識のなかった七天使の青年のようだった。
短い銀髪を後頭へと流し、両耳に銀のピアスをいくつも付けた、見るからに短気そうなその青年は面白そうに、灰銀色の目でローザを見やる。
「いやぁ、中々に面白い漫才だったぜ、女。礼に少し手伝ってやるよ」
「え? 手伝い……え?」
疑問でいっぱいのローザにはもう目もくれず、その青年は成り行きを見守っていたヴァイスへと放るように声をかける。
「団長ォ、入団するにせよしないにせよ、こういうクソ生意気なヤツは一回痛い目を見た方が身の為だと思うぜ?」
「いや、入団しないから」
はっと我に返り、仏頂面を作るツバキ。
だがその言葉すらも聞いていないのだろう。暗に戦わせろ、と要求する男に、ヴァイスは「そうだな」と頷く。
「斬れすぎる刃は時に、集団に於いて、それを瓦解させる脅威となり得る。故に許可しよう。私がお前が入団した時に叩きのめしてやったように……いや、あれは些かやりすぎた気もするが、まあ影法師とやらの力を測る機会にもなろう。思うようにやってみるといい」
ヴァイスの言葉が黒歴史なのか、少しだけ渋い顔をした青年は、その苛立ちをぶつけるようにツバキへと敵意を向けた。
「ジオン・ディストリーク。与えられた天号は”ミカエル”で、時の竜騎兵の最前線を任される者だ。隊列を崩す者は女だろうがガキだろうが許さねえ。ってわけで、テメェをこれから思いっ切りシバき倒してやるから覚悟しろ」
そう言うが早いかジオンは椅子に立て掛けていた、彼の身の丈程もある大斧を掴むと、片手で器用に回し始めた。
まるで木の棒を扱うかのように軽々と振り回しているそれは、かなりの質量を持っているらしく、刃が回る度に空を斬る低音が斧から放たれる。
靴底をカツリ、カツリと鳴らしながらツバキとの距離を縮めてくる彼は、恐らく七天使の中で最も短気かつ一番好戦的なのだろう。
その出で立ちも、戦いにおいて隊服が邪魔にならないように、袖やズボンの丈などを短めに作り変えている。
「ま、テメェもこっちの方が楽だろ? 会議なんて面倒なこたぁしなくても、戦り合えば互いの手の内がよく分かるってもんだ」
ジオンの挑発に完全に平常心を取り戻し「おこがましいわね」と、鼻で一度嗤ったツバキは、いい加減物理的に暑苦しくなっていたカゲロウの鳩尾に肘鉄を叩き込みその身体を引っ剥がした。
そのまま指をポキポキと鳴らせながら立ち上がると、ジオンと相対するツバキ。
「カゲロウ、今回は私一人で行くわ」
大斧を前に、冷笑さえ浮かべながら、肩から羽織っていた隊服を床に打ち捨てるツバキだが、やる気に満ちた彼女とは対照的に、彼女の相棒はあまり乗り気ではないようで。
「ツバキがそう言うなら、従う……けど……」
主を見つめるカゲロウの不安を表すかのように、その手に嵌められた猫のパペットが行く宛てもなく宙をさまよう。
「天使は俺達を殺すためなら手段を選ばない……。本当に、本当に気を付けてくれ」
そんなカゲロウの心配を余所に、ツバキは宣戦布告をジオンに叩き付けた。
「天使だろうが悪魔だろうが、私を影法師と分かって尚、挑んでくるというのであれば、影法師の誇りにかけて容赦なく叩き潰すのみ!」
「はっ! 言うじゃねぇか女!」
「あ……あわわわ……とんでもないことになりかけてるのだわ……!」
火花を散らす二人を前に、さっきまでの威勢もどこへやら。ローザはこの世の終わりに立ち会っているかのような顔で、頭を抱える。
必死に神へと両者の無事を祈るしかない彼女へと、シズマが苦笑しながら声を掛けた。
「ローザ、そんなに心配しなくても大丈夫ですから。ジオンはああ見えて意外と優しいので、丸腰の彼女を殺めることはまずありませんよ。──多分」
「え!? シズマ様、今多分って言いました!? 言いましたよね!?」
くるりと振り向き、目を剥きながらシズマに掴みかかるローザ。
「いえ、やっぱり戦いは戦いですので、保証はできないかな、と」
歯切れの悪いシズマの言葉に、ローザの顔はみるみる青くなる。
「そ、そんなぁ……!」
今にも卒倒しそうなローザの鼻先に、ふわりと一筋の燐光が舞う。──それは主を見送ったカゲロウの腕から零れ出る、仄かな燐光だった。
いつの間にかローザの隣へとペタペタと移動してきていたカゲロウは、人の姿では感情を表現することが難しいのだろう。ぎこちない笑みを彼女へと向ける。
「大丈夫だ、ローザ。俺も心配だけど、ツバキならきっと大丈夫。地に落ちるのは、あの天使の首だ」
「いや、それはそれでダメだからね!?」
何がダメなのか判らない、と言わんばかりのカゲロウに、その水色の髪をぴっと引っ張りながら「後でお説教ね」と予約を入れたローザは、二人の無事を祈るように手を胸の前で組んだ。
「ローザ。今、何時?」
と、ふいに飛んできたツバキの問いに、絶対シチューの話だと踏んだローザは、
「五時過ぎ。だけど今晩は作らないからね。シチューはまた後日」
と先に釘を打つ。──が、その憶測は外れていたようだった。
シチューの件など耳にも入っていないのだろう。ツバキは告げられた時刻に、ぞっとする程妖しい笑みを浮かべ、喉をくつくつと鳴らす。
その笑みは最早人のものではなく、子羊を見つけた道化の微笑みに近かった。
「何笑ってるのか知らねえけど、かかって来ないのならこっちから行くぜ」
ジオンは大斧を床に突き立て、言霊を口にする。
「我、”ミカエル”の号を以て楔と為さん。熾天より来たれ、万魔祓いし緋き軍勢──!」
言霊が完成すると共に、彼の周囲に緋い火の玉が浮かび始め、それらは次々に剣を持った人型へと状を変えていく。
幾百、幾千、幾万と数を増やしていく炎の軍勢に、アマラが「ああもう!」と悪態を吐きながらも、ツバキとジオンを囲むように結界を張っていなければ、今頃会議室は炎の兵士で埋め尽くされていただろう。
アマラは、七天使中、最も堅固な結界作成能力を有しており、その護りの結界は福音の壁では護り切れない上空からの魔物による脅威を常に防ぎながらも尚、必要とあらば比類無き強度の結界を自在に展開せしめる。また、彼女の結界は、自身の作成した結界の内であれば、結界同士を融合させることにより、結界内に収めた者を自由に他の結界へと送り込むことも可能であり、その飛び抜けた結界を操る能力こそが、戦えない彼女が七天使の一角を任される理由だった。
咄嗟のアマラの判断により、結界に包まれた一同は本部の外にある野外修練所へと送り込まれる。
「ちょっとジオン! 本部を壊さないでくれるかしら!?」
会議室が火の海へ変わる寸でのところで一同を移転させ、会議室と、そこに設えてある備品達を守り抜いたアマラの怒声を馬耳東風と聞き流しつつ、ジオンは小馬鹿にしたような目をツバキへと向けた。
背に控える幾万の兵を見せつければ、いくら不遜な彼女でも、さすがに恐れを為すに違いないと踏んだのだろう。
「……ジオンにしては頭を使ったな」
離れた場所でその対戦を眺めていたヴァイスが呟く。
ヴァイスの周りに控える彼の同胞達は、対峙する二人の圧倒的な戦力差に、ジオンの勝利を薄々予想してはいるものの、静かにその勝負の行方を見守っていた。