3-2
ローザとカゲロウから時の竜騎兵本部の会議室で連日事情聴取を行っていたヴァイスは、廊下から響いてくる、甲高い怒声に小さく眉を顰めた。
耳を凝らさなくとも聞き慣れている、同胞と、先般獅子奮迅の死闘を見せた少女──ツバキの声は、会議室に近づいているのだろう、だんだんと大きくなってくる。
──というより、途中から最早それは騒音の域に達していた。
静寂を完璧にぶち壊したその騒音が事情聴取の妨げになると踏んだのだろう。大理石の円卓を囲んでいた七天使の内の二人──イェンロンとシズマが顔を見合わせ、互いに頷き合うと静かに立ち上がる。
無言で騒ぎを止めに行こうとした彼らを、ヴァイスは溜め息交じりに、ではあるが「放っておけ」と引き止めた。
「何、アマラは七天使に相応しくあろうと、常日頃から自らを殺しすぎる嫌いがあるからな。──たまには素のままであっても良いだろう」
同胞アマラを慮っての言葉に、立ち上がった二人は顔を見合わせ、小さく苦笑すると、そのまま何事もなかったかのように円卓に設えられた各々の椅子に腰を下ろす。
だが、そんな彼らとは違い、この状況に顔を引き攣らせている者が一人──。
「あ、あの……アタシちょっとあのバカ叱って来ます……ッ!」
それは廊下で絶賛騒ぎ立てている二人の内の片割れに、ものすごく心当たりのあるローザだった。
会議室にガンガンと響いてくる友の怒声に、事情聴取が完全に止まってしまったのを気にしているらしく、ローザは脱兎の如く扉へと向かおうとし──。
「ローザ」
己を呼ぶ、柔らかな声音に彼女は背後を振り返る。
「シズマ様……?」
急に声を掛けられ、きょとんとした様子のローザへと、シズマは「良いんですよ」と微笑みかけた。
「どうかそのままでお願いします。……たまにはアマラにも言い合いの一つや二つ、させてあげてください」
──七天使である彼女にとって、素を晒せる機会など、ほとんどないのだから。
「え……えぇ……!? あのアマラ様にこんなに声を張り上げさせてしまって……本当に良いんです?」
あの、とは恐らくドレストボルンの民に浸透しているアマラに対するイメージのことだろう、と見当を付けたシズマは「構いません」と再度頷く。
「あうぅ……アマラ様ぁ……。せっかくの超絶クールビューティーがツバキのせいで台無しに……!」
罪悪感に項垂れるローザの耳に──いや、会議室に集う者全ての耳に、だいぶ会議室に近づいているのであろう廊下の喧喧囂囂の応酬は、その内容がつぶさに聞き取れるまでに鮮明になっていた。
『ちょっとなんなの!? アンタ本当のバカなの!?』
『煩いわ。あなたの指図に従わなくてはならない謂れはない。ただそれだけよ。その低脳な脳ミソでもなんとかかんとか理解できたのなら、そこをどいてちょうだい』
『はぁ!? どけるワケないでしょ!? かくなる上は……このっ、このぉっ!』
『ちょっと、何するのよ! 離しなさい!』
ギャーギャーと響く声の合間に『え、そこで私の上着むしり取ります普通? 結構寒いなー、聞いてないなー』と聞こえてくるのは会議室にいる者達の幻聴ではなさそうだ。
続けてくしゃみの音が何度か会議室に響き──。
『なんで平気なのよ!? アンタの精神は丸太ででも出来てるの!?』
『耳元で吠えないでちょうだい。耳が痛いから。多少違うとはいえ、ほとんど晒を巻いているようなものでしょうに、何をそんなに気にすることがあるの?』
『サラシ? ナニソレ、ってあああ! 待ちなさ──』
刹那、ドカンと破音を響かせ、円卓の置かれた会議室の扉がツバキによって蹴り開けられ──というよりは蹴り破られた。
扉を蹴り破った少女は、ふてぶてしい表情で腕を組み、包帯一張羅の上に、アマラがレーベンから剥ぎ取ったらしき飾緒の付いた彼のレザージャケットを肩から掛け──、
「こんにちは。──ローザの迎えよ」
少女──ツバキは淡白な声でそう放った。
レザージャケット同様に、アマラが無理矢理着させ──いや、苦肉の策で巻き付けた、彼女の私物のロングスカートを腰に横に巻き、布の両端を雑に縛っただけの恰好でドカドカと会議室へと踏み込んでくるツバキの後ろには、パリパリと頭を掻きながら「勇者だなぁ」と呟く、カッターシャツ一枚になったレーベンと、顔をリンゴのように真っ赤に染め「恥ずかしい、ごめんなさい」を連呼するアマラが続く。
どうやら蠱惑的な見た目に反し、アマラはかなり純真な心の持ち主のようで、羞恥に顔を覆うその手には、ついぞ着てもらえなかったらしい、彼女が用意したシャツが握りしめられていた。
恥じらいという概念が備わっていないと見られる少女の姿に、目の遣り所に窮した男性陣はそれぞれ、すっとその視線を彼女から逸らす──が。
「あー、お気遣い無用なのだわ。アイツ自身、全く気にしてないから」
ローザにとってはもう見慣れた光景らしく「それくらいならマシ」と、微塵も慌てる素振りはない。
カゲロウもまた「ボクとローザが、朝とかお風呂上がりとかにツバキの服を用意し忘れたらそのまま全裸でお屋敷歩いてるもんね……」と、悟ったような表情で髭をひくつかせる。
そんな一人と一匹の反応に、軽く頭痛を覚えたヴァイスは、己のこめかみに指を当てながら、
「お前は本当に何者だ……」
と、なんとかそれだけを口にした。
何者かと問われたツバキは、勧められてもいないのに空いている椅子に勝手に、かつ堂々と腰を掛けると、脚を組んでふんぞり返りながら答える。
「何者って、そんなの──ただの影法師よ」
──広間に沈黙が降りた。
皆が、脳内でツバキの言葉を反芻し、反芻し──結局、理解に辿り着ける猛者は残念ながら誰もおらず。──ツバキと関わりのあるローザとカゲロウを除いては。
「えっと、その、カゲボーシはツバキのお仕事だそうなんです」
「ローザ、発音が違うよ。影法師だよ」
天使達への説明役を買って出たローザへと、カゲロウが舌足らずな発音で、一文字ずつ区切りながら影法師の発音に訂正を入れる。
「あ、うん、カゲボウシ?」
「影 法 師」
「えっと、影 法 師?」
「そうそう、ツバキは影法師なんだよ! すごいんだよ、すんごいんだよ!」
これくらいすごいの、と尻尾をぶんぶんと振り回すカゲロウ。
基準が謎ゆえ、誰にも全く凄さが伝わらないのだが本人、いや、本猫は至って真剣だ。
「えっと、初めて聞くご職業なのですが……その、影法師とは一体どういう──」
想像すらつかない職業『影法師』に、シズマが集う天使を代表してツバキやローザ、カゲロウへと、その仕事内容を問う。
「影法師はね、ツバキみたいに影で、わーってやって、どどーってするお仕事だよ!」
臨場感を出そうとしているのだろうか、尾を膨らませ、爪をわきわきさせながらカゲロウが説明するが、あまりに抽象的すぎる説明のため、集う誰一人として意味を理解できる者はおらず。
困惑する天使達に、ローザもなんとか身振り手振りで説明しようとするが──。
「あの、本当に影でこう、がーってやって、ドスってやるお仕事なんです」
結局曖昧すぎて何の説明にもならなかった。
「えっと……影で暗躍する。……あ、所謂、暗殺者のようなものですか?」
シズマは一人と一匹の言葉から想像し得る職業を口にする。
「暗殺ねぇ……確かに私は得意よ、暗殺」
暗殺、というその言葉にツバキはニンマリと得体の知れない笑みを浮かべると、獲物を探す蛇のような、ねばついた視線で集う天使を順繰りに見やった。
「暗殺が得意とは……ワシは怖い! 怖いぞリン!」
一瞬彼女と視線が合ってしまったイェンロンは相棒の小白虎ツェンリン──愛称リンを肩から降ろすと、幼子が人形をそうするようにぎゅっと抱きしめた。
「腕前もそこそこだと自負しているわ。そうね、例えば……アドラー家と言えばあなた達もよく知る所じゃない?」
まるで酒の銘柄を口にするような軽さで触れたその名前に、しばらく黙していたヴァイスが元より鋭い眼光を更に鋭くしながら低く呟く。
「アドラー家……忘れるものか。時の竜騎兵の大きな支援者だった貴族だ」
「ええ、そう聞いていたわ」
くつくつと喉で笑うツバキだが、その喉笑とは裏腹に彼女の表情は限りない『無』に彩られている。
そんな彼女の黒曜石の瞳を円卓を挟んだ正面から見据えながら、ヴァイスは苦々しげにその事件について語り始めた。
「アドラー家は七年前、家長を含む家人十四名が一夜で殺された。規模が規模だというのに、あまりにも犯人の足跡や犯行の痕跡が無く、結局我々、時の竜騎兵は犯人を突き止めることが出来ぬまま、ついこの間、この事件は時効を迎えた」
「それはまあ私も時効になったからこそ、こうして暴露しているのだけど」
一人、うんうんと頷くツバキ。
ヴァイスは「知っていて黙っていたのか」とローザへと話を振り──彼女は全力で首を横に振って否定の意を示した。
「ああ、ローザは知るはずがないわよ。だってその件は、私がヴァイセンベルガー家に拾われるよりも前──といってもほぼ直前だけど。まあ、そんな頃の話だから」
「……何故アドラー家を襲った」
ヴァイスの底冷えする眼光を飄々と受け流しながらツバキは肩を竦めてみせる。
「そんなの、依頼があったからに決まっているでしょう。仕事よ、仕事。一首につき十二マークで引き受けたわ」
マークとはドレストボルンで流通する通貨の単位であり、一般庶民の食卓に上ることの多い、至って普通のパン一切れですら、百二十マークはすることを鑑みると、十二マークという値段は到底人の命に付いたものではないだろう。
ましてや貴族ともなると、屋敷に潜入するのにも一苦労となるため、通常であれば、人海戦術で多数の暗殺者を送り込むか、潤沢な報酬で腕利きの暗殺者を一人送り込むか、まずそのどちらかになる。
もし彼女が腕利きの暗殺者として一人で送り込まれたとするなら、報酬が十二マークなどになるはずがないのだ。──が、ツバキの過去を思い出しながら話す、その口調にはあやふやなところは一切見られず、彼女が嘘を言っているのではないことが窺えた。
「結局私はその日、十四人殺めたから、百六十八マークを手にしたわ」
「ま、待たぬか! その中には家長もいたはずじゃ! 家長までもが十二マークなはずがないではないか!」
異議を唱えるイェンロンに、ツバキは「残念ながら」と続ける。
「家長も従者も関係ないわ。子供の暗殺者なんて皆そんなものよ。……憎むなとは言わないけれど……まあ個人を憎んでいる暇があるのなら、暗殺者一匹引きずり出せない組織であることを。そして子供が暗殺者にならなくてはならないような世であることを憎みなさいな」
その方がよっぽど建設的、とツバキが呟いた時だった。──シズマの圧し殺すような声が響いたのは。
「……因みにそれは、どこからの依頼だったのですか?」
その、決して明るくはない百万の感情を圧し篭めたような声に、ツバキは首を傾げる。
「それを知ってどうするの? もう時効なのだけど」
「確かにこの事件は時効を迎えました。でも……それでも、僕は知りたいんです。何故、彼らが殺されなくてはならなかったのか、何故彼らだったのか。──そして誰が、貴女へ暗殺を依頼して、あの清廉潔白な方を死に追いやったのか──」
シズマは別段、意図していないのだろうが、彼は己の逸る心を抑えるかのように、片手で自身の隊服の胸元を、服に皺が寄るほどに強く握り締めている。
そんなシズマの姿を視界に収め──ツバキの瞳が僅かに翳った。
「そうね、確かにとても清廉な人だったわ。子供心にも殺すのが惜しいくらいには。でも、さっきも言ったと思うけど、殺したのは私よ。……殺しておいてこんなこと言うのも変だけれど、本当に見事な最期だったわ。錯乱せず、命乞いせず。首を落とすのが本当に勿体なかった……」
その時のことを思い出すように、そして己の殺めた家長の最期を再現するように、自身の首に指を這わせるツバキ。
烟るように長い睫毛を一度伏せ──、思考を断ち切ったのだろう。ゆっくりと目を開くツバキの顔からは既に翳りの色は消えていた。
「そうじゃないのだわ! シズマ様が聞いているのはアンタに依頼をしてきた奴のことよ!」
ローザが円卓から身を乗り出すようにしてツバキへと詰め寄る。
彼女のその青い瞳には暗殺を依頼した者への隠しきれない非難の色が浮かんでいた。
「あー、それは私からは言えないわ。依頼者については口外しないって契約だったから」
ツバキは己の唇に人差し指を当て、黙秘の姿勢を取る。
その仕草は、うだつの上がらない教師に小さな悪戯をした子供が、共犯者の友人に見せるような、あまりにも芝居じみたもので。──まあ、つまり、有り体に言ってしまえば、ツバキは場に集う天使達を完全にナメていた。
そうして場に沈黙が降り、たっぷり二分は経った頃──。沈黙に耐えかねたローザがおずおずと口を開く。
「ツバキ……何度考えても、アタシはやっぱりアンタが昔、そんなことをしたなんて信じられないのだわ……」
ローザにとってのツバキは、あくまでも親友であり、暗殺者などではないのだ。
常に己を護らんとしてくれるツバキの姿を見てきているからこそ、ローザはどうしても彼女の言葉を真に受けることができなかった。──のだが。
「まあほら? そこは何事も経験って言うじゃない。私は暗殺業界にいたからこそ、あの日、あなたを護ることができたわけだし?」
ローザの葛藤など何処吹く風のツバキは、彼女の一縷の期待と希望を一瞬で粉微塵に打ち砕いた。
話の流れとして、ツバキの言うところの『あの日』とはローザの家に暗殺者集団が押し入った日のことだろう。
「その道に精通していれば、自ずと業界情報も流れ込んでくる。それに、何よりも相手の出方がよく解る。……ま、蛇の道は蛇ってところかしらね」
至って軽いツバキの言葉にローザは掌を強く握り締めた。
「アンタのその言葉が真実だとするなら──。アタシがあの日、アンタに救われて今ここにいられるのはアドラー家の……ううん、アドラー家だけじゃない。アンタに殺された、みんなの──」「──それは違うわよ!」
ローザが言い切るより早く、アマラが険しい顔でその言葉を遮る。
「いい? アドラー家とアナタは何の関係もないわ。関係ないのだから、勿論アナタがあの事件に対して引け目を感じることはない。引け目を感じて然るべきは……」
ちらりと厳しい視線をツバキへと投げかけるアマラ。
険を含んだそのトパーズの瞳に映るツバキは優雅に脚を組み、両の手を後頭部に宛てがいながら、椅子の背凭れにのんびりと凭れかかり──、
「引け目? ないわよそんなの。むしろ引け目を感じなきゃいけないのはそちらでしょうに。──アドラー家から組織運営の資金を出すだけ出してもらっておいて、そのくせ、暗殺者から家長を護れず、あまつさえ犯人も見つからず時効になりました。って? もう無能すぎて嗤うしかないわ」
その、悪びれる素振りすらなく返ってきた声にアマラが激怒した。
アマラは座っていた己の椅子を蹴り飛ばすように立ち上がると、足音荒くツバキの目の前へと歩み寄り──、その瞬間、小気味良い音を立て、ツバキの左頬が鳴った。
──音の正体はアマラが平手打ちをかました音で。
「アンタ……最低にも程があるわ! アタシはアンタを軽蔑するし、同じ人間とは絶対に思わない!」
「ええ、丁度良いわ。私、天使が大嫌いなの。同じ人間同士だなんて言われた日には、うっかり殺しかねない自信があるわ、うん」
売り言葉に買い言葉。
しばらく互いに睨み合っていたツバキとアマラだったが──、
「ふん。無能共は無能共同士、仲良くお遊戯ごっこでもやっているといいわ。……反吐が出そうだけれど」
先にぷいっとそっぽを向き、そう吐き捨てるツバキの瞳には、烈火の如き怒りの炎が浮かんでいた。
「私は手段を選ばないし、そも、選ぶ気もない。何故なら綺麗事で大切な者を護れるような世の中なんかじゃないってことを身を以て知っているから。──私はカゲロウとローザ、そしてローザのお父上、彼ら三人を護る為なら、悪事も不義理も不道徳も、何一つ厭わないわ」
得てして身勝手な持論を隠すことなくぶち上げたツバキに、シズマが「そんなことはないはずです」と咄嗟に反論する。
「貴女は学園に悪魔が出現する前、自発的に生徒達を救おうと奔走していたじゃないですか! 不義理でも不道徳でもない。あれが……あれこそが貴女の本質では──」
「──何を言うかと思えば、くだらない。……そんなの校内に生徒達がわんさか残っていたらローザがどんな行動を取るか分かったものじゃないから避難させた。それだけのこと。……あなたが私に何を期待しているのかは知らないし、知りたくもないけれど……私はそういう人間よ」
きっぱりとそう言い切ったツバキは、もう此処には用事など無いと言わんばかりの表情で、円卓を叩くようにして立ち上がると、そのままくるりと踵を返す。
「──あっ……」
ツバキへ制止をかけようと手を伸ばしかけたシズマだが、踵を返すその瞬間に彼女が浮かべた苦渋の表情を見てしまっただけに、彼にはどうしてもそれが彼女の真意だとは思えなかった。
「貴女は本当に……本当に心からそう思うのですか? 貴女は……ローザを護るためにそう在りたいと思っているだけじゃ──」
「──くどい! ……ローザ、カゲロウ、帰るわよ。私達の出る幕はもう無いわ。後の悪魔騒ぎは全部この天使サマ方にお任せしておけばいい」
シズマの言葉を一蹴し「それがこの天使共の仕事なんだから」と続けるツバキだったが──。
「あ、そのことです。そのことなのですが……その、えっとですね……」
シズマが立ち去らんとするツバキを引き留めるように手を伸ばしながら、そろりと発言を捩じ込む。
彼の軽く引き攣った笑顔は、今後のツバキの反応が容易に予想できるからであり、だからといって議決を黙っておくことも出来ない──言わば、進んでも地雷、退いても地雷状態の四面楚歌な青年シズマは、なるべくツバキの怒りを買わないようにそろりとに発言するしかなかった。
「煩いって言わなかったかしらシグレ? ……言ってなかった気もするけれど、まあいいわ。シグレはシグレでも、私の好きな蝉時雨とは大違い。ただひたすらに煩い声で耳を穢すだけで情緒も糸瓜もあったものじゃないわ。──これ以上苛立ちたくないから黙っていて頂戴」
濡れ鴉の艶髪の流れる背は、それ以上の問答を拒むように、再び遠ざかってゆく。──が、シズマは挫けなかった。
「待ってください! 一点……いや、二点だけ!」
彼はツバキへと食い下がるだけでなく、一点どころか更に一点、無理矢理問答を追加する。
──と、意外にもツバキは「面倒ねえ」と、その言葉通りに非常に面倒くさそうにではあるが、少しだけ背後を振り返った。
そんな彼女の視線の先には、『二点』を強調しているつもりなのだろう。己の人差し指と中指を立て『二』を形作るシズマの姿が。
「面倒です。さような──」「(指を立てたまま)待ってください、二点だけです!」
「待ちません。さようなら──」「(指を強調しながら)二点、だけ、です!」
その、頑として引き下がらないシズマの姿に、ツバキは盛大に溜息を吐き──。
「わかったわよ……。でも本当に二点だけだから。それが済んだら即帰らせてもらうわよ」
それはもう渋々ながら、根負けという形で問答を許可したツバキだった。
シズマに押し切られ、口をへの字に曲げているツバキへ、シズマは「ではまず一点」と彼女の気が変わらないうちに、とやや早口で言葉を紡ぐ。
「僕はシグレじゃなくてシズマです!」
「……は? あなたそれで一点消費する気な──いえ、なんでもないわ」
ツバキにとっては非常にどうでもいいことであるのだが、シズマにとっては最後まで『決して削れない点』とするくらいには重要なことであったらしい。
「じゃあ次の二点目は何かしら?」
「二点目はですね、まあ勿論ながらこちらの方が重要です。その、貴女がお休みになられている一週間の間に、貴女の処遇が決まりまして……」
「あぁ、そう言えば忘れていたけれどそんな話もあったわね。で、死罪にでもなったのかしら?」
話が長丁場になりかねないと踏んだツバキは再び椅子へと歩み寄ると、そのままストンと腰を下ろした。
死罪の可能性も皆無ではないはずなのだが、彼女は至って落ち着いた様子で、両の手を後頭部で組むと、背凭れにのんびりと体重を預ける。
「いえ、まさか。たとえ貴女が意図していなかったとしても、多くの生徒達を救った功績がありますから、まず死罪はあり得ません。……しかし、洗脳を乱用していた以上、無罪放免とも出来ないのもまた事実です。なので、ローザ・フォン・ヴァイセンベルガーより申し出を受け、これよりツバキ・ミツルギを時の竜騎兵の戦闘員として迎え、その能力を国の為に振るうことで贖罪とする。という議決になりまし──」
「──は?」
刹那、息を吹き込みすぎた管楽器の音ような、声とも音ともつかぬ、そんな素っ頓狂な音がツバキから上がった。
空白の表情を浮かべる彼女はその議決に我が耳を疑っているのだろう。幾度となくシズマの声を脳裏で再生するツバキだが、勿論ながら脳内で繰り返されるそれの議決が変わるはずもなく。
「ああ、わかったわ。つまりはそういうこと──?」
──と、ふいにツバキは何かに合点がいったように両手を打ち合わせた。
その直後、円卓の上で行儀よく座っていたカゲロウは、おもむろに伸びてきた白磁の手に、己の尻尾をそれはもう無造作に鷲掴みにされ──、
「ツバキー! やめてよ! 尻尾が抜けちゃう!」
咄嗟の出来事に、カゲロウから猫独特の悲鳴混じりの声が上がる。
どうやら己の耳が狂ってしまったに違いない、と結論付けた様子のツバキは、自身の耳に黒猫の尻尾を宛てがい、耳掃除を始めたらしい。
その過程で逆さ吊りにされたカゲロウは「ぎにゃー!」と絶望的な悲鳴を上げるが、ツバキの手が哀れな猫を離す気配はなさそうだ。
「相手が本調子でなかったとはいえ、あの悪魔を相手に応援到着まで戦い抜いた貴女の実力の程が、既に申し分ないことは僕が証明できます。それに、時の竜騎兵は先の団長が老衰にて退団したこともあり、早急な戦力を必要とし──」「──断るわ」
“もしかしなくても、入団させられそうになっている”話の流れが己の聞き違いなどではないと判断した瞬間、ツバキはシズマの声を遮り、すっぱりきっぱり即答した。
「ですよね……。絶対にそう仰ると思いました……」
シズマは想像を裏切らない彼女の言葉にがっくりと項垂れる。
「私は影法師よ。それ以上でもそれ以下でもないわ。ましてや天使共と共闘するとか? 冗談じゃない云々以前に、それくらいなら死罪の方がよっぽど人道的ってもの。まあタダで殺されてあげるかは別の話だけど」
嫌悪も露に、口から次々と溢れるツバキの、その敵愾心マシマシの言葉を、円卓の上で組んだ、己の手の甲に顎を乗せ、黙って聞いていたヴァイスは、
「お前は先程から妙に天使を毛嫌いするな?」
何か理由でもあるのか? とエメラルドグリーンの目を眇めながらツバキに問う。
「理由なんてない。そしてこれ以上の問答の必要性はもっとない。この国の最高刑は死刑なのでしょう? 天使共と馴れ合うくらいならば私はそちらを望──」
「──早々に立ち去りたいのは、お前の隣の猫が悪魔だからか?」
ヴァイスの言葉にツバキの顔色が一瞬にして変わった。
彼女の言動から、先ほどまでののらくらとした様子は完全に消え──、集う天使一同へと並々ならぬ敵意を向け始めるツバキは呻くように口を開く。
「……ふぅん、なるほど。カゲロウの正体を知らないフリした天使の集う敵地へ、私はうっかり誘われた、と」
そんな射殺さんばかりの視線をヴァイスへと向けるツバキの手の中から、カゲロウは逆さ吊りの状態から器用に抜け出し、
「ツバキ、バレているみたいだ……」
と、抑揚のない低い声を放つ。
その声にはもう、どこにも子供のあどけなさは残っていなかった。
カゲロウが悪魔だったということをローザは知らなかったのだろう、呆けたように口を開けて、ツバキとカゲロウを交互に見返している。
「シズマから受けたお前達の報告と、アマラの索敵網に引っ掛かった二匹目の悪魔の誤情報。その二つから弾き出されるのは──」
「黙れ天使。貴様らに我が正体を暴かれるくらいならば、自ら名乗る」
カゲロウはヴァイスの言葉を遮り、ツバキへと視線を送った。
その視線を受け、ツバキが諦めたように頷くのを見届けたカゲロウは、ゆっくり窓辺に近づくと、鋭い猫爪で黒いカーテンを引き裂き、床に落とす。
遮るもののなくなった部屋に差し込む茜色の西日に、眩しそうに金色の眸を細めたカゲロウは、まだ陽の温もりの残る、落としたカーテンにもそもそと潜り込み──刹那、カーテンが山型に膨れ上がった。
メキメキと骨格を変える音とともに、黒布の裾から人間のような青白い脚がにゅっと伸びる。
「っててて……久々の人型は感覚が掴めんな……」
息を飲む一同の前で、膨らむのをやめたカーテン──否、カーテンを襤褸切れのように纏った人間の姿を形取る悪魔が起き上がった。
淡い水色のパサつく長髪を切ることなく、伸ばし放題伸ばしている、表情の薄い痩せぎすの青年の姿を取ったカゲロウは、
「俺は悪魔──バアルだ」
と、その金の眸を少し下げ、薄い表情のまま名乗った。
「バアルだと……!?」
バアルと名乗った、元黒猫──カゲロウの言葉に大きく目を見瞠るヴァイス。
集う他の天使達も、それこそ息をするのさえ忘れて驚愕していた。
「ああ。貴様等の今考えているバアルで間違いないさ」
──まあ、実際のところは人間共にどう伝わっているのか全く知らないがな、と小さく呟くカゲロウ。
彼は久しぶりに人間の姿を取っているらしく、素足のまま覚束ない足取りでペタペタと歩きながら、主の元へと戻る。
歩くたびにカーテンの裾から覗く、青白い腕やふくらはぎには、青い燐光を放つ奇妙な紋様が刻まれていた。
「あれ? あの紋……色とか形は違うけど、確かアスタロトにもあった……」
記憶を辿りながら呟くローザをちらりと見やり、カゲロウは、
「記憶が良いな、ローザ。これは地獄紋といって、俺達悪魔の特徴なんだ」
と、燐光を放つ己の腕の紋様を見つめる。
皆が皆、穴が空くほどにカゲロウを凝視していた。──正確には、その両の手を。
彼の両手には何がどうしてそうなったのか、愛らしい猫のパペットと、カエルのパペットがそれぞれ嵌められていたのだ。
一同が互いにチラチラと視線を送り合う。
誰かあのパペットについて聞いてくれ、と飛び交う視線の中、ついぞその疑問を口にできる勇者は現れなかった。
カゲロウはというと、そんな視線には全く気付かず、己の感覚としては猫のつもりなのだろう、ツバキの左隣に立つ──もとい、めり込むくらいにぴったりとくっつく為、ツバキはカーテンに二割ほど半身が埋もれる。
「貴様が真にバアルだとするならば、伝説によれば、貴様は魔物の軍団を六十六率いる悪魔の国の王だという話だが?」
己へと投げかけられたヴァイスの問いに、カゲロウは慇懃に頷いた。
「違いない。確かに俺は国の東方を治める大王だった」
「……壁の中に来た目的は、魔物の軍団をここへ呼び込む為、ですか?」
レーベンは至って平静を装いつつカゲロウへと問うが、その視線には隠しきれない敵意の色が滲み出ている。
だがそれは彼だけに限ったことではなかった。集う七天使が皆、椅子から腰を浮かし、臨戦態勢に入っているのを金の眸でオドオドと見渡し──、
「ツバキ、どうしよう。逃げ場がない……」
と、カゲロウは怯えたようにツバキにかじりつく。
ツバキは己の視界を覆い尽くしていた、黒布を纏う腕を掴むと全力で引き剥がし、諦めとも虚しさとも取れる溜め息を吐いた。
「諦めなさいカゲロウ。彼らはどこまでいっても『壁の民』ってことよ」
達観したように呟く己の主、ツバキの言葉に、カゲロウは唇を噛む。
「俺、どうしたらいい?」
考えてもいい案が浮かばないカゲロウは、助けを求めるように再びツバキにかじりつく──が、猫の姿であればその行動も愛らしいのだろうが、人の姿を取っている今、残念ながら可愛らしさは微塵もなく──いや、むしろゼロをぶっ千切り、気持ち悪い以外の何物でもなかった。
ツバキは一度ため息を吐くと、困惑した顔で俯く友人へと視線を滑らせる。
「ローザ。本当はもう少し一緒にいても良かったんだけど……、カゲロウの正体がバレた以上、そうもいかなくなったわ。……あなたを護るためにも、あなたは天使側につきなさい」
ツバキの声に、俯いたまま硬直していたローザは、びくっと肩を震わせた。
それを怯えと取ったのだろう、ツバキは一瞬、寂しげに目を細め──、
「大丈夫よ。私はあなただけは殺しはしないか──」「──違うッッ!」
髪を振り乱し、怒気も露に叫んだのはローザだった。
「へ……?」
俯いていた顔を上げ己をキッと睨み付けてくる、頭に血を昇らせた友人を、ツバキは驚いたように見やる。
「天使側につけ? 冗談じゃないのだわ、この──アンポンタンッッ!」
声を限りに叫ぶローザ。
決して狭くはない会議室に何度も反響したその声の残響が消えた頃、ようやくツバキは友が己へと怒りをぶちまけたという事実を理解した。
「ローザ、今回ばかりは聞き分けて。あなたはドレストボルンの民なの。であれば、あなたが大人しくしている限りは天使共にとってあなたは敵ではなく庇護対象になるのだから。私が此処の天使共に敗けるなんてことはまずないとは思うけれど、世の中には万一ということもあるのだから、その時の保険だとでも思いなさいな」
至って冷静に、そして論理的にローザを諭すツバキだったが、友の怒りは収まるどころか、膨らむ一方で。
「だあぁっ! 万一も億一もない! そもそもの問題は、何でいつもいつも大事なことを少しも、これっぽっちも、一言たりとも相談してくれないのか、そこなのだわ!」
カンカンに怒っていたかと思えば、次の瞬間には涙で青い瞳を潤ませ、突っ掛かってくるローザに気圧されるようにツバキは少したじろいだ。
「そ、そんなのローザには関係──」
「あるわよこのバカ! 皆に睨まれるような、こんな事態に陥って……アンタの家族であるアタシに関係ないなんてそんな話ある!?」
「いや、親友ではあるけれど、家族かどうかは……」
ついうっかり反論しそうになったツバキだが、己の言葉にローザが傷付く可能性を考えたのだろう。すぐにその口を閉ざす。
「あーもう! いつも跳ねっ返るし突っ掛かるし。そのくせ絶対に他人に正面から向き合うことはせず人様の不興を買って! 結果こうしてどん詰まりに陥っているんだから世話ないのだわ……! 白服を着られるほど頭がいいのに、何でそんなことにも気付かないのよッッ!」
涙と鼻水を文句をだらだらと垂れ流すローザを見兼ねたシズマが、横からすっと手布を差し出す。
ローザはぐちゃぐちゃな顔でそれを受け取ると、涙を拭き、それから思いっきり鼻をかんだ。