秋・3
庭の木々も海岸沿いの並木もすっかり葉を落とし、陽が射し込むようになったけれども、それ以上に吹き込む風が冷たい。海も薄暗く色を変え、打ち付けられる波が立てる白い飛沫までもが寒々しい。
”暦の上ではまだ秋”だなんてとても言えない。
そんな中、
「……これはどういうことか、説明してもらいましょうかお兄さん」
「あ、ええっと」
彼が帰ってきた。
もう海外には行かないのか、それとも一時帰国なのか。
とは言え高校に出席する必要もあるだろうし、帰ってきたその足でとんぼ返りすることはないだろう。そう思って掃除は念入りにしておいた。備蓄のカップ麺も戸棚に詰めておいた。
そしてメイン。
最後の晩餐よろしく庭にバーベキューセットを据え、肉もタレに漬け込んで冷蔵庫でスタンバっている。コーラも1.5リットルを2本用意した。
風は冷たいけれど日中なら我慢できる程度だし、火の近くなら温かい。何よりテンションが上がれば寒さなど感じないだろう。
と思ったけれど、念には念を入れてカイロも買ってある。
俺側の準備も万端だ。
かねてからの準備は滞りなく、とは言えないが、短期の仕事は確保した。
2駅先の隣町に開店するショッピングモールの駐車場誘導員。場内で「こっちに1台空いてますよー」と誘導する人ではなく、路上で”駐車場はこちら→”の立て札を持って立っている人だ。
誰にでもできる簡単なお仕事に見えるけれど、座れないし、風が強ければ立て札と一緒に飛ばされるだろうし、1日中となれば晩秋とは言え陽射しもキツい。経歴:自宅警備員の俺が耐えられるかどうか自信がないが、やる前から弱音は吐かない。いや、吐けない。
ちなみに此処は駅前商店街に閑古鳥を放った某ショッピングモールとは別の、要するに競合他社だ。愛美ちゃん家の敵にはならないと思うのだが……最近某ショッピングモールの一角に移動したと言うから……もしかしたら敵に与してしまったかもしれないが、短期のことだから許してほしい。
アパートへの引っ越しは保留にしてある。さすがに短期の職では懐が心許ない。
その代わり実家の元・俺の部屋を半分返してもらうことにした。
寄生先が彼の家から実家に移っただけに聞こえるのは真実だから反論できないが、引っ越すつもりだけはある。毎月家賃が払えるような安定した職に就いたらすぐにでも。
なんせ元・俺の部屋の半分は亜生璃の物置と化し、返してもらった半分も俺の荷物で埋まってしまった。とても寝るスペースなどない。
だから彼が帰ってくるまでは、と、この家で寝るだけ寝させてもらっていたが、それも昨日まで。
彼が帰ってきたからには、俺は「住むところ? そんなもの子供に心配されなくたってちゃんとあるさ」とばかりの顔で颯爽と……体のほうを隙間に合わせなければ寝る場所もない部屋に去るつもりでいる。
つまらない見栄だ。
でも、最後くらい張ったっていいじゃないか。
と、まぁ。
空白期間のあらすじは此処までとして、冒頭の台詞に戻る。
「就職だの引っ越しだのって聞いてないんですけど? と言うか荷物運び済ってどういうことですかお兄さん」
彼はもぬけの殻になった部屋を見回し、それから俺を見据える。
下から睨んでくるその目線があまりにもマーレで、懐かしさのあまり怒られていると言うのに口元が弛みそうになってしまって、俺はさりげなく手で口を押さえた。
「だ、だからな。俺もいい加減独り立ちしないといけないなーって、ははははは」
いい歳した大人が半分の年齢の子供相手に独り立ちと言うのも妙な話だが、俺がいたら彼は友達を家に呼ぶこともできない。進路も自由に選べない。
「いてもいい」とは言うけれど、それは俺が”前世で親密な知り合いだった”と思っているからが8割+行き場所のない俺への同情が2割、から発せられただけの言葉だし、例の「幸せにしてくれないんですか?」発言も前世絡みの気の迷いだってことは、俺はちゃんとわかっている。
マーレの記憶を持っていないのなら、彼は”世界に3人いる同じ顔”のひとりでしかない。
だから俺は彼とは離れる。
離れるけれど、彼をマーレだと思って遠くから見守ることにする。
「突然のことだから怒るのもしょうがないけどさ。でも勝手に居座ってるのも悪いなーって思ってたんだよ前からさ」
「居座るも何も、お兄さんは能登からブ〇ック〇ック1個で買い取ってますから、此処にいていいんです」
「買い取っ……って、安っ!!!!」
妹よ!!!!
仮にも実の兄だろう!? 小さい頃は「パパよりお兄ちゃんがいい♡」と宣言して親父を悲しみの淵に立たせたくせに、その兄を紙パックジュース1個で他人に譲るとか、扱いが酷過ぎやしないか!?
と言うか、やたらと出てくる”ブリ〇クパ〇ク”は本当に俺が知っている紙パックジュースと同じものか? あの学校では通貨として流通しているのか!?
「で? 話を戻しますけど就職ってどう言うことです? お兄さんはゲームを作る人なんでしょう?」
半分はネタでしかないような衝撃の事実に絶句する俺の心情など無視を決め込んで、彼は追及を続ける。笑って誤魔化せそうにない。
「なんだけどな。ほら、人間夢だけじゃ食べていけないって言うか、俺もこの歳になってやっと目が覚めたって言うか」
しかしそう思っていても笑ってしまうのはこの国の民の性。決して誤魔化しているわけではないのだが……案の定、その態度が気に入らなかったのか、彼は仏頂面のままスマホを取り出した。
画面をタップして出て来た画面を俺の鼻先に突きつける。
「だってお兄さん、賞取ったじゃないですか。『6月のオラシオン』ってこの間完成して応募したやつでしょう?」
「……知ってたのか」
実家からバーベキューセットを借りて来た日、俺宛てに届いていた郵便は、以前出したコンペの主催からだった。
『6月のオラシオン』とは、あの世界とマーレたちを忘れないように、と細部まで思い出しながら作り上げたゲーム。但し主人公はマーレではなく俺にしてある。
あの1年の日々の中でマーレが何を考え、何を判断して来たのか。大半を共にしたとは言え俺の知らない部分を捏造するのは気が引けた。
選択肢で分岐するエンディングには俺が味わった”マーレを失って元の世界に戻るルート”の他に、”レトを破壊しないルート”、”あの世界に残るルート”などがある。どれも俺が暴走しなかったら現れたであろう別の未来だ。
そして結果は大賞、金賞、銀賞も逃し、ギリギリに入った”奨励賞”。
応募本数から考えれば「でも奨励賞だし」なんて言った日には後ろから刺されること間違いないし、1年前の俺なら喜び勇んで彼に自慢しただろう。
が、今は違う。
この奨励賞は彼に寄生して彼の人生を無茶苦茶にして得た結果。
犠牲に釣り合う賞だったなら無邪気に自慢しただろうけれど……俺は俺の限界を知ったと言うか、現実を見てしまったと言うか。要するに燃え尽きてしまったわけだ。
加えて、「30代ならまだ定職には就ける。歳を重ねれば書類選考すら通らないのだから」というハローワークからの助言も響いていた。
この後何十年か経って年寄りになった時、その時も俺は此処にいるのか? いないだろう?
彼が巣立つ今、俺も自分の進むべき道を……自分だけで生きていける道を探すべきだ、と。
「いい夢が見れたよ。だから、」
「何言ってるんですか。1歩踏み出したばっかりじゃないですか! 住むところもお金も、お兄さんは何も心配しなくていいんです。お兄さんは僕が面倒を見ます。だから作り続けて下さい」
1タップで画面を出したあたり、彼は結果発表のページをブクマしていたのだろう。
応募のことは隠していたのに何処で知ったのか。
俺の名前を見つけて、一緒に喜ぼうと思って、なのに当の本人がゲームから足を洗おうとしていたら怒るのも当然だが……この歳になると現実と、そう遠くない老後を考えなければいけないんだ。
夢を見る権利があるのは子供だけなんだ。
「俺を売った亜生璃も帰って来いって言ってるし」
「今のお兄さんの所有権は僕にあるんですが」
気持ちは嬉しいが、ブリッ〇パッ〇1個で取引された俺にそこまで責任持ってくれなくても。
面倒を見ると言い切った彼に、この3年間がこの後も続くかもしれないと淡い期待を寄せそうになって、俺は慌てて首を振る。
駄目だ。それじゃ意味がない。
思い出せ! 推しの足枷になるなんて、オタクの風上にも置けやしないってことを!
「お、推しは遠くで見守るもんだ、から」
「意味がわかりません」
そりゃあ真っ当な道を歩んで来た優等生には推しだの何だのと言っても通じないだろう。曖昧に笑う意外の術を知らない自分がもどかしい。
しかし彼にオタクについて説くつもりはない。住む世界が違うのだから。
「推しが夢を叶えるための障害がこの手で退けられるのなら、手を差し伸べるのが本当のファンでしょう? お兄さんは見守るだけなんですか?」
「いやあの、障害は取り除くとも。だから俺は」
その障害が俺なんだ、と改めて言うと悲しくなって来るけれど、どうも彼はそう認識できていないような……いや違う。彼の言い方は、まるで俺のことを推しと言っているような。
いや。
いやいやいや。
彼は「意味がわからない」と言ったじゃないか。
彼は”推し”という単語が指す意味を知らない。だから――。
「……自分勝手なのは全然変わらない」
彼はひとつ息を吐く。
「え?」
「ひとりで考えてひとりで結論出して、いつも振り回されるんだ僕は」
「いや、ひとりで考えてひとりで結論出してるのはお前だろ!?」
東京に行くのをやめたことも、大学の志望先を変えたことも、海外に行ったことも。
その全てが理不尽に俺のせいになっているのを知らないのか?
そう反論したかったが、原因を突き詰めて行けば俺が此処に転がり込んだのが発端になるわけで。俺は脊髄反射的に飛び出しそうになる言葉を口を引き結ぶことで堪える。
その間にも彼はリュックから紙束を引っ張り出した。
オール英語だが、collegeだけはわかる。
「大学、」
大学に行くのか? 海外の。
彼が此処からいなくなるかもしれない。拠点を海外に移すかもしれないと覚悟していたはずなのに、それでも目の前に突きつけられるとこの3年間が彼にとっては決して良いものではなかったのではないかと――結局俺の自己満足で振り回していただけなんだと――胸が痛む。
「ええ。お兄さんが思っているとおり、外国の大学を受けました。再来月に合否が出ます」
「受けたぁあ!?」
だがしかし。
予想は斜め上を飛び越えた。
「待て! 過去形なのか!? 何で一言もなく、って俺に相談したってどうしようもないことはわかってるけど、でも」
「ごめんなさい。でも海外の大学に行くって偉そうに言って、失敗したら恥ずかしいじゃないですか。だから確信できるまで黙ってたんです」
恥ずかしいって。
だがしかし、合否が出る前にこうして喋ると言うことは、彼が口にした通り、それ相応の手ごたえを感じているということだ。
海外の大学は入るのは簡単だが出るのが難しいと聞く。簡単と言ってもそれなりの頭はいるだろう。けれど彼ならきっと。
「僕、医学に進むことにしたんです。この間みたいな疫病がまた流行るかもしれないでしょう? そもそも今だって単なる小康状態かもしれない。冬になったらまた流行するかもしれない。だから何かあった時にすぐワクチンを作れるように、作るだけの力を持っておきたいって」
『――そうだよ! 生命の花があれば、能登大地の世界の人は死ななくて済むかもしれないんだ!』
ああ。
お前は……記憶がなくたって同じことを思うんだな。マーレ。
「一番研究が進んでいるのが海外だったものですから……お兄さん、泣いてるんですか? 心配しなくても大丈夫ですよ多分。先生もいけるって言ってたし」
クルーツォが来ていたのは彼の受験を助けるためだったのだろうか。
それを俺は薄汚い嫉妬に塗れた目で見ていたのか。
「もし駄目でも来年受けるって手もあるし、それに、」
「そうだな。うん、そうだ。偉いよお前、いつも俺が考える以上のところにいるんだ」
俺は拳を握る。
だからこそ俺はお前の足を引っ張るわけにはいかない。
俺なんか忘れて、お前はお前の夢を叶えろ。2万km離れた地球の裏側に行ったって、俺はお前を応援してやる。障害も全部ぶっ壊してやる。
何て言ったって俺は、町ひとつ破壊した男なんだから。
そして最初の障害は、俺自身だ。
「それに、その時はお兄さんも連れて行きます」
「うんう……はあああああああ!?」
「一緒に行きましょう。パソコンがあれば場所は何処でも大丈夫でしょ?」
待て!!!!
俺もって何だ! 確かにパソコンがあれば場所は選ばないけれど、コンセントの形とか変圧とか、そう言う細かいところがあるだろうが! なんて反論は反論にも入らないのだろう。「だったら変圧器を買いましょう」で終わるのが目に見えている。
でも!
ひとりで考えてひとりで結論出して、俺のことを振り回してるのはやっぱりお前のほうじゃないか!
俺の心の中の嵐はまたしても無視して、彼は庭に広げられたバーベキューセットを見ながら続ける。
「お兄さんはずっと夢を追ってた。だから僕もやりたいことをすることにしたんです。海洋学の道に進むことは先輩からの勧めであって僕の意思じゃない。向いてるって言うからそうかな、って思っていただけで、別にお兄さんが此処にいるから進路を変えたわけじゃ、」
そこまで一気に言い、彼は少し言い淀むように俺を見上げた。
何だそれ、ちょっとかわいい。
「違う、お兄さんが此処にいたから進路を変えたんです。お兄さんが熱を出した時、すごく怖かった。あの病気は……お年寄りのほうが重篤になるって聞いたから」
「…………………………俺を年寄り扱いするんじゃない」
嗚呼。なんかもう……。
怒涛の展開からもの凄くいい感じのエンディングに向かってまっしぐら! って感じだったのに、これが吉〇だったら大袈裟にひっくり返っているところだ。
振り回されてオジサンは目が回りそうです。俺は頭を抱える。
いや、彼自身は全く笑いを取るつもりなどないのだろう。
医学に進むことを決めたのも、本当に俺があのウイルス性疾患に罹患していたら、と思ったからだ。そう思うに至った根拠が心を抉ってきただけで、彼は悪くない。
「僕、お兄さんとは上手くやっていける気がするんです。お兄さんもそうでしょう?」
俺は彼の障害でしかない。
だから俺を彼から排除する。
そのつもりだったのに。
「あー……俺は、」
「そう言いましたよね?」
「言った…………か……?」
「言いました」
だーかーらー!!
その顔で迫るな! 俺の罪悪感に火をつけるな!
俺は。
俺は。
俺は……
「俺は、此処にい………………………………いや! 腹減ったろ!? まずは飯だ! 俺が世界一美味いカルビを焼いてやる!」
雰囲気に飲まれて口走りそうになった台詞を寸でのところで飲み込み、はぐらかすように俺は彼を庭に促す。
バーベキューセットに火を入れて、冷蔵庫から肉とコーラを出して。
「お兄さん、まだ終わって、」
「わかった! わかったからそれ以上言うな」
話は終わっていないと言い募る彼を、宥めながら椅子に座らせる。
「ちょっと脳内がヤバいことになってるんだ」
「だ、大丈夫ですか?」
「大丈夫。これはオタクなら全員感染してる病気みたいなもんだから」
「病気!?」
こうしている間にも前後左右のあちこちから「おめでとう」「おめでとう」と言う幻聴が聞こえる。拍手まで聞こえる。
わかっている。俺がつい口走りそうになった台詞のせいだ。
ロボットアニメの見過ぎだと嘲笑われるだろうけれど、その台詞は「おめでとう」と拍手がセット。耳と脳内がエンドレス再生してしまうのはオタクの性というものだ。
ジュウ、と肉が焼ける音と、焦げる寸前のタレの香ばしい匂いがあたりに充満していく。
俺の向かい側で、彼が不安げな顔で俺を見上げている。”脳内がヤバい病気”のせいだろう。しかし肉が焼けるにつれ、関心は網の上に移行しつつある。
「怒ってるんですよ僕は。いきなり引っ越しだの最後の晩餐だの言い出すから」
彼は網の端にピーマンを並べる。
「すまん」
「僕はね、てっきりこれはお兄さんが賞をとったお祝いだとばかり思ってたのに」
「自分の祝いを自分でするほど悲しいことってなくないか?」
そこは普通、自分の帰国祝いだとは思わないのか? とツッコミたかったけれど、彼がそれを言うと”自分の祝いを自分でする”ことと同義になってしまう、と踏み止まる。
「3年前お兄さんが来た時も、約束を果たしに来たんだと思ったのに」
「約束?」
何の? と続けそうになって飲み込む。
さっきからそうだが、彼の語ることが俺の記憶の中に見当たらない。一緒に暮らそうのくだりも、今の”約束”もない。
しかし忘れているのだとしたら多分に俺のほうだろう。高校3年生なんて人生で最も記憶力が鍛えられている年頃。40に手が届きそうな30代の脳とは比べ物にもならない。
「だから一緒に暮らしてるんだと思ったのに」
「あのぅ」
「……まさかとは思いますが、忘れてます?」
「え、あ、いや、そんなはずないじゃないか、ははははは」
嗚呼!!
反射的に笑って誤魔化す国民性が恨めしい。下手に誤魔化してしまったせいで、それが何かを聞く機会を失ってしまったじゃないか!
3年前、彼に再会して有頂天になっていた時に何か言ったのだろうか。
「あの時、果たせなかったから」
「あ……あ、そうか」
どうも俺は以前、彼と何かを約束していたらしい。
そしてどうやら1度は反故にされたらしい。
しかし再会してから一緒に暮らしてはいるけれど、反故にされた覚えはない。むしろ一歩的に言いくるめて転がり込んで、こんなに簡単に入り込めるなんて危険じゃないのかと心配するレベルだった。
彼の言う約束とは何なのか。
でもそれを問い質すと、牛肉様のおかげでせっかく戻りかけた機嫌がまた悪くなる気がする。
俺の苦悩をよそに、彼は輪切りの玉ねぎをひっくり返している。
赤と緑と白のコントラストに、黄色もあればよかったな、なんて、現実逃避した思いが通り過ぎていく。
「でも焼肉って盆とか正月とか、要するに晴れの日にするんでしょう? だったらおかしくないじゃないですか。これはお兄さんの受賞記念です」
彼の言葉に、俺は肉を注視していた視線を上げた。
何か。そう何かがはまる音が聞こえた。靄がかかってわからなかったものが近付くにつれてはっきり見えて来るように、漠然としていた何かが掴めそうな――。
『――あ、美味いものを食うんだ。冬は特に1月1日に食べる伝統料理があるんだけど、作るの面倒だし買うと高いしで、だから俺ん家は焼肉やってた。いや、夏もやってたな、焼肉』
この世界で焼肉は決して盆と正月に食べる料理ではない。
精進料理でもおせちでもなく焼肉を食べるのは俺の家だけ。
そのことを教えたのはマーレにだけ。
お前は。
「……お前の帰国祝いと合格祝いもしないとな」
「次は刺身がいいです。トロって脂が乗っていて美味しいですよね」
「そうだな……俺もトロだな」
『何時か、僕にも食べる機会があるかな』
『ああ、食おうな。焼肉も刺身も』
お前は、やっぱりお前なのか?
「お兄さん、焦げてます」
「あ? これっくらいがいいんだよ。ほれ、若者は食べるほうに口を動かす!」
指摘されたロースを彼の皿に投げ込む。
肉を白米の上に乗せて口に運ぶのをひとしきり眺め、さらに他の肉も投げ込む。あっと言う間に空になっていく皿が清々しい。
そして。
網が空いたらいよいよ主役、300g1万円の特上カルビ様の登場だ。
俺は目の前に座る彼を見る。
そうか。覚えていてくれたのか。
「いいか? 特上カルビは強火で焼くんだ。ひっくり返してからは中火で――」