秋・2
朝起きて、庭木に水をやる。
ぼんやりしているうちに暗くなって、買い置きのカップ麺をすすり、寝る。
亜生璃が言ったとおり、彼は海外に行ってしまった。
高3にもなると授業なんてあってないようなものなのか、課題を提出することで授業を受ける代わりにするのか、出席日数は既に足りているのか、兎も角今の時点で休んでも留年という事態だけは回避できるらしい。
留年せずに済むと知れば、次に気になるのは大学受験だが……出立前に何とか聞き出したことと言えば、海洋学の道に進むつもりだった進路を白紙に戻したということだけ。
新たな志望先については何も言わない。
志望先が”ある”のかどうかもわからない。
もともと国公立大受験コースで5教科やっているから変更したところで大勢に影響は出ないとは言え、こんな直前になっての変更、本当に大丈夫なのか? 大学に行く気すらないんじゃないのか?
気になるものの居候の身ではそんな踏み込んだところを問えるはずもなく、モタモタしている間に彼は機上の人になってしまったと言うわけだ。
何をしに海外に行ったのか。
何処に行ったのか。
世界の何処かにいる両親と一緒なのか。
それとも他の誰かと会っているのか。
俺は何も知らない。教えてもらえない。勝手に居座っているだけのウザい中年(妄想癖有)でしかないのだから当然だ。
そんなモヤモヤを抱えたまま、俺はこの家で留守番をしている。
本当の住人が誰ひとりいない家に他人が居座るのもどうかと思ったが、実家に俺の部屋がなくなっていると知った彼が「此処にいてもいい」と言ってくれた好意に甘えている。
空き巣防止をも兼ねてはいるけれど……もし拠点を海外に移したとしても彼のこと。俺の居場所がないというだけの理由で「此処にいてもいい」と言いかねない。
何年も、何十年も。下手したら子や孫(ができるかどうかはコンマ以下の確率になりそうな年齢になりつつあるけれど)の代になっても。
ちなみに小ネタだが、民法では20年住み続けて且つ、取得時に盗った盗らないなどの問題がなければ取得時効というものが成立するらしい。
土地付きの家が実質タダで手に入るなんて前世で徳を積んだとしか言いようのない棚ボタだが、俺の前世は住んでいた町を破壊し、同級生をも囮として利用しようとしたろくでもないもの。そんな幸運は俺が手にするべきではない。
兎も角、そんな棚ボタが降って来る前に此処を出るつもりではいる。
まずは就職して、安アパートを借りて。
疫病の影響で経済は低迷も低迷、倒産する企業もあれば解雇される従業員も増えている今、ブランクの長いニートがいきなり就職なんて世の中を甘く見過ぎていると怒られそうだけれども、職種を選ばなければ何かしらはあるだろう。
そして彼から離れる。そうしなければ俺は何時までも寄生してしまう。
現にこの3年間やっていたことと言えば、あの世界を舞台にしたゲームを仕上げてコンペに出したことだけ。寄生している立場に胡坐をかいて、俺はそんな一銭にもならないことしかしてこなかった。
彼の幸せを見るだけなら此処にいる必要なんてない。
幸せになるのを見届けたい、なんて言いながら、誰よりも彼から幸せを遠ざけていたのは俺だった。
「幸せにしてくれないんですか?」と言われてちょっと分不相応な未来を見そうになってしまったけれど、俺と彼の関係は対等であってはならない。ニュアンスは少し違うが、ファンと推しのようなもの、というのが1番近い気がする。
推しの幸せは陰で見守るもの。
決して”自分が”叶えようと思ってはいけない。
海を隔ててしまったら見守るのは無理だろうと思うかもしれないが、それを言うならドルオタはCDを何枚も買わなければ会話(それも数分)することもできないほど、推しに会うためのハードルが高い。アニオタに至ってはリアルで出会うことすらできない。
それに比べればどれだけ遠くても2万km以下、会ったら会ったで家族同然の親しさで認識してもらえるであろう俺は恵まれている。
そう。どれだけ遠くても。
俺は学園祭の時に彼と親しげに話しをしていた褐色肌の青年を思い出す。
奴は、やはり中学の時に実習に来ていた”(亜生璃曰く)石油王の息子”であるらしい。
今何処で教鞭を取っているかは知らないが、あの学校ではないと言質を取ってある。
国内の何処か……もしかしたら出身国に帰っていて、あの日はたまたま遊びに来ていただけとも考えられる。
だがもし奴にクルーツォの記憶が残っていたのなら、俺と同様、マーレに対して罪悪感を抱いていることだろう。直接的にマーレをレトの意思に殉じさせたのは奴なのだから。
その場合、当初の俺のように目の届く範囲で見届けたいと思うはずだ。
厄介なことに、奴は俺と違って オタクの 星の下には生まれていないから……今回の海外行きに1枚噛んでいないとは言いきれない。
あの世界の人々と同じ顔をした連中が揃ってあの世界の記憶を持っていない今、奴に記憶がある率も限りなく低いけれど、記憶がないから動かないとどうして言える?
そして記憶がないと言うのは彼にも言える。
記憶がないからこそ、俺の語った前世をそのまま俺の都合がいいように理解している。
真実を知ったら彼が俺を見る目は変わるだろう。
俺はラ・エリツィーノを破壊し、親代わりだったレトを破壊しようと目論んだ。それだけじゃない。ヴィヴィやチャルマ、フローロが死んだのも、マーレ自身を死に向かわせたのも元を正せば俺だ。
あの世界は俺が作ったゲーム世界。「大勢死んだほうが涙を誘えるから」「ディストピアっぽいから」という安直な理由が、まさかあんなことになるとは……。
庭と公道を仕切るように植えられた桜は、風が吹く度にハラハラと葉を落とす。
桜は家に植えるものではない、と理由も知らない通説を彼に教えたことがあるが、その時は「家で花見ができるからいいんです」と返された。
けれどこの3年間、此処で花見をしたことはない。
どうしてもあの最期の日を思い出してしまって、直視することができない。
そんな俺を見ているからか、彼も花見をしようとは言わない。
でも。
「最後の日は、パーッと焼肉でもするか!」
景気づけに大声を張り上げる。
バーベキューセットにするか、無煙ロースターにするか。そのどちらもこの家にはないから実家から借りて来よう。
3年前の給付金がまだ少しは残っているから新しいのを買ってもよかったけれど、たった1度の焼肉のためには勿体ない。タダで使えるものはタダで使って、その分、肉を多く買ったほうが有意義だ。
「最後に………………馬鹿みてぇ」
彼は焼肉に込められた意味を知らない。
盆や正月に焼肉をする、と教えたのはマーレにだけだし、この世界の一般常識では盆や正月に焼肉はしない。
桜の下ではすることもあるけれど、その花も咲いていない今、彼は不審に思うだろうか。
でも最後だから。
これを最後に、俺は彼の前から消えるから。
最後くらい、彼が焼肉を頬張る姿を見たっていいじゃないか。
そんなこんなで気を奮い起こしてやって来た駅前の商店街は、少し先にできたショッピングモールに客を取られて閑散としていた。
ハローワークの求人にもピンとくるものがない。
俺が学生の頃はあちこちの店舗に貼られていたアルバイト募集の貼り紙も、今は何処にもない。
疫病の爪痕が3年経った今も残っているのは予想していたが、見通しが甘かった。選り好みをしなくても結果は芳しくない。
買い手市場の今、就職できなかった大卒はそのあたりにゴロゴロいて、経歴:自宅警備員の30代にお呼びはかからない。
愛美ちゃんの実家でもある雑貨屋も今年の4月からシャッターが下りたままだ。
ショッピングモールのテナントのひとつとしてやっていくことになったので、採算の取れない駅前店は閉めることにしたのだと聞いた。
とは言えファンシー雑貨多めの店にオッサンは不要だろうし、愛美ちゃんに寄生するなんて以ての外。こればかりは亜生璃の制裁を受けても文句は言えない。
実家から借りたバーベキューセットの箱を吊り下げてトボトボと歩く。
予定ではそれなりの候補を見つけて面接の約束を取りつけるところまではいくつもりだったから、尚更足取りも重い。
なのに傍目には週末キャンプを計画する、”人生が軌道に乗っている人”に見えているのかもしれないと思うと、皮肉すぎて涙が出そうだ。
ペットボトルを手にした高校生らが通り過ぎていく。
その姿に、クリスマスの時、マーレに炭酸水を買ってやったことを思い出した。
浮かれて柄でもないことをしてしまったがそれは彼にも違和感として伝わったようで、奢ってもらういわれなどないと言わんばかりの態度で、その炭酸水を通りすがりの子供に譲っていた。
あの頃から俺が良かれと思ってすることは、彼にとっての”不要”でしかなかった。
『――僕はきみに責任を取ってほしいなんて1度も言ったことはないのに』
俺は消えた”ノクト”の代わり。それ以上の価値はない。
あの言葉は許してほしいと願う俺の心が言わせたものだと思っていたが……許しではなく、強い拒絶にも取れる。
”責任を取る権利すらない”と、そう言っているようにも聞こえる。
実家より慣れてしまった家に着き、自分なら絶対に選びそうにないメルヘン味すらある郵便受けから郵便を取り出す。
その中のひとつ、俺宛ての郵便物に目を止め……差出人を確認して俺は小さく溜息を吐いた。
※どれだけ遠くても2万km以下、とは地球の裏側までの距離を指しています。
(地球の外周は約4万km)
ちなみに日本の裏側とされるブラジルまでは約1万7000kmです。