秋・1
陽射しが弱くなって来ると冬が近い、と思う。
地球の公転と地軸の傾きで季節ごとに太陽光が届く割合が変わることは小学生のうちから知ってはいたが、気にしたことはなかった。自宅警備員になってからは太陽を拝むことなく1日が終わることもざらだった。
気がつくようになったのはあの世界に行ってからだ。今の体は光合成などできないけれど、無性に陽光が欲しくなる時がある。
あれから熱はあっさり引いた。
総合感冒薬の解熱成分がいい仕事をしてくれたらしい。保健所のお世話になることにでもなったら「ウイルスは死滅していなかった!」なんて見出しでトップニュースを飾ることになったかもしれないから、ただの熱でよかったと言うべきだろう。
彼に伝染すだけではなく、マスコミに押しかけられて受験に差し障りが出ることも、俺たちの関係を面白おかしくネタにされる可能性もあったのだから。
あの時俺の前に現れたマーレは、やはり夢だったのだろう。
以来、姿を現すことはない。
彼の体を借りて訴えかけて来ることもない。
「今日は遅くなります」
いつもと同じ口調でそう言い残し、彼は家を出て行く。
海風に簡単に煽られているリュックに、学園祭の季節か、なんて思う。
彼のクラスは定番中の定番とも言える喫茶店をやるらしい。
昨今は学園祭の出し物と言えどもメイド喫茶、執事喫茶だけではなく男装喫茶、女装喫茶とよりニッチな性癖にシフトしつつあるけれど、彼のクラスはどうなのだろう。
出迎えの一声が「いらっしゃいませ」じゃなくて「お帰りなさい」だとか。ウェイター姿なのか。まさかメイド服は着ていないだろうが。
尋ねても曖昧に誤魔化して教えてくれなかったのが気になる。
が、それは兎も角。
彼にしてみればメインは終了後。生徒会役員は打ち上げや後夜祭以降に学校に居残ろうとする学生を追い出さないといけないので、帰るのが最後になってしまうのだとか。
それも貴重な思い出ではあるけれど、まるで雑用係だなと……監督生だからと意味不明に雑用を押し付けられていたマーレを思い出す。
学園祭は父兄や他校の学生にも門戸が開かれている。
学校公認の下、敷地内に足を踏み入れることができる貴重な機会……とは言え、娘や息子から来るなと念押しされているのか、父兄らしき姿は少ない。目につくのは他高生ばかりで、だから大人は浮いてしまう。
自分は彼の父兄ではないし、そうして浮くのも嫌だからと遠慮していたが、思えば今日は彼の学生生活が垣間見れる最後の機会ではないだろうか。
ウズ、と湧いて来るものに1度は気がつかないふりをしたものの、これが最後となると抑えることができない。
彼は学校でどうしているのか。
どんな顔で話をしているのか。
俺がいたはずの場所には今、誰がいるのか。
だが俺は彼の父兄ではない。生計を同じくしていると主張する手もあるが、言い換えればただの居候、もしくはヒモ状態の男を学校側が父兄と認識するかどうか。
昨今の凶悪犯罪などを鑑みるに、たとえ学園祭であろうとも、いや学園祭みたいな羽目を外しやすい日だからこそ誰でもwelcomeではないだろう。父兄、そして同い年の学生がギリギリ妥協ライン……って、そうだ!
閃いた。
いや、気がついた。
そんな面倒をしなくとも、俺は彼の同級生でもある”能登亜生璃”の兄じゃないか紛れもなく!
今日ばかりは妹でいてくれて嬉しく思うぞ妹よ!
そうなれば、思い立ったが吉日。
掃除もそこそこに俺は服を着替えて家を出た。ユニ〇ロだから奇異の目で見られることはないはずだ。
彼の通う高校は徒歩で30分ほどのところにある。
隣接している中学とは外見がよく似ていて、一見すると巨大な学園のよう。けれども、どちらもただの公立だ。私学ではない。
アイボリーのカーディガンとグレーの上着が入り混じる学校は、ラ・エリツィーノで通ったあの学校を彷彿とさせる。学生に戻ったような錯覚すら覚える。
でも俺の隣には誰もいない。こんな時、恋愛ものなら背後から「ノクト」と声がして、でも振り返ったらいない……みたいな展開が待っているものだけれども、その声すらかからない。
そうこうしている間に学校に着き、受付で入校証を受け取ろうとした矢先のことだった。
「どう言うことよ!」
という声と共に、顔面にグーパンチが炸裂した。
このめり込み具合は確かに妹。拳を顔で受け止めるのは3年ぶりだが全然変わっていない。
嫌いな奴は気配でわかると言うけれど、何処かで見張っていたとしか言いようのない早さじゃないか妹よ。もしかして「今日は会えるといいなァ、お兄ちゃんに♡」なんて思いながら正門を見張っていたのかい?
なんて遠のく意識で煽りつつ、視界に広がるのは冬の気配を隠した薄青――マーレがいつも見上げていたサンドベージュではない、高すぎると馬が太るらしい、ちゃんとした秋の空の色。
BGMは「能登の兄貴?」「なんで兄貴にグーパン!?」などという戸惑いの声。
そうだぞ亜生璃。
お前が何もアクションを起こさなければ俺は”誰かの父兄”で済んだのに、わざわざ殴りにくるから”能登亜生璃の兄”で確定されてしまったじゃないか。
お前がいつも馬鹿にする”変文字T”じゃなくて一張羅のユニク〇を着て来た俺に感謝するがいい。
そんな呪いの言葉を紡ぎつつ、俺は意識を手放……すにはグーパンチの威力が弱かった。
俺に高熱をもたらした3年間の健康的な生活は、回復と同時に新たなスキル”グーパン程度では倒れない丈夫な体”を与えていったようだ。
って、3食食べて、適度な運動(家事と買い出し)をし、夜更かしせずに寝、さらには「お兄さん」と慕ってくれる美少年とのコミュニケーションで心まで満たされれば、自堕落な頃より健康になるのは至極当たり前なのだけれども。
不死鳥の如く(要するに倒れないだけ)身を起こした俺の腕を、亜生璃が取る。
「怪我はない? お兄ちゃん♡」ではなく「ちょっとこっち来なさいよ!」と人気のないほうに引っ張られていく俺を、ギャラリーの皆様は見守っているだけで誰も助けてはくれない。
それどころか「体育館裏じゃないから大丈夫」みたいな目をしているのは何故だ。
まるで海でヴィヴィと一触即発バトルモードに入った時にチャルマが向けた、「ヴィヴィなら大丈夫」と全幅の信頼を寄せる視線……当事者からすれば過去も今もどのへんが大丈夫なのかさっぱりなのだが、まぁ、それは置いといて。
「あの、どう言うことって、何が」
「何しに来た」、ではなく「どう言うこと」とは?
俺はおそるおそる亜生璃に呼びかける。
「帰れ」と言われたのに未だにあの家に居座っていることを言っているのなら、お前にも一因はあるぞ妹よ。顔を合わせる度にキモキモ言って来る血の繋がった妹よりも、「お兄さん」と好意的な目を向けてくれる赤の他人との生活のほうがすこぶる快適だからと言わざるを得ない! と言うのは冗談だが、熱が引いたと言ってもまだ数日の病み上がりの身に、それは酷と言うものだろう!
そんな心の声が聞こえたのだろうか。亜生璃は足を止め、ギロリと振り返る。
3年前にも思ったが、こいつは絶対に俺の心が読めるに違いない。
だがしかし。
「しらばっくれんじゃないわ。凪が海外行くって言い出したの、どう考えたってお兄が何かやった以外にないでしょ!?」
言うことは違った。
いや、どちらにしても彼絡みであることは間違いないのだが、ってそうではなくて。
「海外!?」
今更も今更だが、”凪”は彼の名前だ。苗字も海っぽくて、安直なネーミングだと呆れたことを覚えている。
父親が釣りキチだったりすると高確率で付けられる名前、凪。彼の父親の趣味がそうかはしらないが、海の近くに家を建てるくらいなのだから可能性は高い……と、無駄なミニ知識をひけらかしつつ。
海外って何だ?
夏休みも終わってあとは受験まで一直線のこの時期に、余裕ブチかまして海外旅行でもあるまいに。
「言ったよね? あの家を出ろって。迷惑かけるなって。
いい!? 凪はね、高校だってホントは東京の進学校に行くはずだったの! それを急にやめて地元の公立行くって言い出して。お兄が凪の家に入り浸ってからだよ!? お兄がいるから凪は東京に行くのやめたのに、それで今度は海外に行くって、お兄、何処まで他人の人生無茶苦茶にする気!?」
聞いていません。とは言えないが言いたい。
東京の私学に行くはずだったなんて今初めて聞いたぞ俺は。
けれど、考えてみれば偏差値も並でしかない地元の公立より私学に行ったほうが大学進学には有利だろうし、彼の頭なら行けるはずだ。
大学にしても、国公立受験コースにいると言うからそれで安心していた。彼は進路のことなど何も言わないし、ただの居候が聞くものでもないと思って黙っていた。
彼は俺と違って頭もいい。金にも不自由していない。
順風満帆に大学に行って、就職して、結婚して……と言う”人並みの幸せ”が確約されている人種だし、それは国内にとどまらず海外でも有効だろう。
けれど何故、今?
大学はどうするんだ? 受験までには戻ってくるのか? それとも――
あのエアメールはやはりそうなのか?
両親が「向こうに家を建てたから親子水入らずで暮らしましょう」と言って来たのか、それともあの時に湧き上がった疑念のとおり、クルーツォが仕掛けて来たのか。
少なくとも俺には、彼が突然海外に行きたがることに心当たりなど、
『幸せにはしてくれないんですか?』
――戻って来ないつもりなのか?
まさか。
俺に振られたから、傷心のあまり海外に逃避行!?
いや待て。あいつ、そんな繊細なタマだったか!?
「……その顔。やっぱり何かしたわねこの変態中年!! 凪に手ェ出したらどうなるか、」
亜生璃が指をボキリと鳴らす。
ここで空気を読まずに「指を鳴らすと関節が太くなるんだぞ」なんて言った日には、形状もとどめないほどに殴られることは必至だし、俺も妹の指の太さなんぞに興味はないから言わないが。
「出してない! 出すわけないだろう!!」
出さなかったから、俺の前から消えるのか?
でも、
「出せるわけがない……」
「こんな小汚い中年を凪に押し付けたあたしにも責任はあるけどさぁ! でも帰って来いって言ったよね? こんなところまでホイホイ来る体力があって、何で戻って来ないわけ!? あ、でもうちに帰って来ても、お兄の部屋もうないから玄関かベランダで寝てもらうことになるけど」
実の兄を無断で他人に譲るな、とか、俺の部屋はどうした!? とか聞きたいことは幾らでもあるけれど、どちらにしろこのままでは駄目だ。
俺が居座っているせいで彼は彼女ができても家に連れて来られない。
塾がある日は塾が終わった時間に、塾がない日は放課後に、彼はきっちり定時で帰って来る。
土日だって遊びにいかないし、誰かが遊びに来ることもない。
俺は彼が幸せになるのを見届けるどころか、邪魔し続けて来たんだ。”前世で一緒に暮らしていた”という呪いの言葉で縛りつけて。
『――僕はきみに責任を取ってほしいなんて1度も言ったことはないのに』
わかってる! これは俺のエゴだ。
お前と同じ顔をした奴の面倒をみるふりをして、俺が満足しているだけだってことは。
彼がお前じゃないってことは。
だから、だから責めないでくれマーレ。
「あ、先生! んじゃね、そう言うことだから!」
俺を後悔の海に投げ出したまま、言いたいことを言い尽くした亜生璃はさっさと踵を返す。
喜々として走り去る彼女の先には、俺には見せない屈託ない笑顔で話している彼と、浅黒い肌の青年の姿。
「……ク……ルーツォ……!?」
何故あいつが? 先生と呼ばれたところからして、中学の時に教育実習に来ていたという”石油王の息子”だろうか。
中学に教育実習に来ていた奴が高校の教師に収まっているはずはないけれど、あれは他人の空似などではなく本人だろう。亜生璃と愛美ちゃんが懐いているのが証拠。
だが、それよりも。
クルーツォ。
チャルマ。
ヴィヴィ。
そしてマーレ。
あの世界で俺の周りにいた奴らが、俺が欠けていることに気付きもしないで笑っていた。
あの中に、俺の場所は端からなかった。