夏・3
それから何日かは平穏に過ぎた。身構えていた俺が呆気にとられたくらい、何もなかった。
忘れたのか、忘れたかったのか。
15歳のマーレも年齢のわりに妙に冷めたところがあったけれど、それに似ている。頭が切れるから先が読めると言うか、勝手に先を見越して勝手に結論を出して、だから無駄な足掻きをしない。
あの顔で迫られて平穏を保てる自信がないから、何ごともなく振る舞ってくれるのは有難い。
少しばかり惜しい――一世一代のモテ期をもう少し堪能したくもあったけれど、もし一線を越えてしまったら、満足や充実よりも後悔しか残らないのはわかっている。
の、だが。
「水と薬、此処に置いておきますね。あと、お昼は冷蔵庫に入れてあるのでチンして食べて下さい。夜は帰って来てから作ります」
向こうが忘れたふりをしているからって、これじゃ俺が構ってくれって言っているみたいじゃないか!
俺は朦朧とする意識の中、枕元に薬を並べている彼を見上げる。
平穏に過ぎた数日後、のさらに後。
何もないと安堵した俺を嘲笑うかのようにいきなり高熱が出、俺は寝込む羽目になってしまった。
使わない頭を使ったせいで知恵熱でも出たのかと思っていたが、彼曰く、台風が来ているせいで気圧がおかしいし、暑い日が続いたから夏バテ気味なのだろうとのこと。
言われてみればTVで毎日、老人が熱中症で搬送されたなんてニュースが流れていた。よもや自分がその老人枠に分類されるとは思っていなかったが……長年、自宅警備員だった俺がいきなり早起きして家事やって、と言うのは予想以上に負荷がかかっていたらしい。
「洗濯物は帰って来てから洗いますのでそのままで」
「気にすんな。受験生は勉強してろ」
「駄目です。寝ててください」
この甲斐甲斐しさは、勝手に居付いている怪しいオッサンではなく、同級生から兄を預かっているという認識なのだろうか。それとも”前世で一緒に暮らしていた”間柄だからだろうか。
ずっと独り暮らしだったから誰かの看病をするのが物珍しいのか、それとも世話好きなだけか。委員長だの生徒会だのをやっているくらいだから後者は得意分野かもしれない。
だがそれに甘えるわけにはいかない。
今週末には全国模試がある。彼が通っている塾も模試対策で特別カリキュラムを組んでいて……要するに今週はいつもより帰宅が1時間遅くなる予定だった。
彼ならそんなものに出なくともそれなりの点数は叩き出しそうではあるが、それでもやはりこの時期、居候のオッサンの晩飯を作るために塾を休むと言うのは頂けない。
「飯も、カップ麺とか適当に食うから」
「熱出して倒れてる人はカップ麺なんか受け付けません」
何をやっているのだ俺は。
いい歳した大人が15も下の子供に、それも血が繋がっているわけでもない他所様のご子息に世話を焼かせるなんて。
自己嫌悪が甚だしい。
「それじゃ行ってきますけど、本当に寝ててくださいね」
「わかったわかった」
「絶対ですよ」
そう言って出て行った彼の足音が遠くなっていくのを病床で聞く。
玄関を開ける音、閉める音。それを最後に静寂が訪れると、後は時計が時を刻む音しか聞こえて来ない。
今頃彼は海岸沿いの一本道を歩いているのだろうか。俺の世話で出るのが遅くなったから、きっと速足で。それから並木を通り越して、十字路を右に曲がって、商店街を過ぎて。
そんな光景をひとしきり思い浮かべて時計を見れば、まだ5分と経っていない。
俺は天井を見上げて息を吐く。
「……生命の花、か」
思えばあの世界では風邪に代表されるような、所謂病気とは無縁だった。
チャルマの入院も実際のところは成長を促進させようとしただけで病気ではないし、木化もそうだ。
そもそも外界から完全に遮断された世界。悪さをするようなウイルスや病原菌などいない。
なおかつ日々の健康はセルエタで管理され、腕のいい薬局店員と薬師が揃って栄養剤だ予防薬だと先手を打って来るから病気になどなりようがない。
そしてその栄養剤や予防薬に入っていたのが”生命の花”だ。
こんな胡散臭いものを飲むくらいなら、その分光合成する! と言い捨ててとうとう飲まなかったあの世界の薬は、何にでも効く”生命の花”が原材料。そしてその花は――。
「……マーレ……」
あの花が咲く理由を知って、それでも「それがあれば今頃は全回復しているのだろうに」なんて都合のいいことを思うのは、
「やっぱ自業自得ってやつなのかな……」
身勝手な自分らしい考えなのかもしれない。
「おーい、お兄。死んでるー?」
暫く眠っていたらしい。
目を覚ますと、視界に逆さまになった妹の顔があった。
顔半分がマスクで隠れている。さすがに今はほとんど見かけないが、3年前の一時期は行き交う誰もがマスクをしていた。あの疫病のせいで。
が、その前に何故、亜生璃が此処にいるのだろう。
「亜生ちゃん、死んでたら返事できないよー?」
「んじゃ返事がないから死んでるってことでいい?」
「目、開けてるよ?」
「でも返事してないじゃん」
亜生璃から視線をずらせば、愛美ちゃんもいる。同じようにマスクをしている。
「何で……?」
「お兄が熱出して倒れたって言うから来てやったんでしょうが」
腕を組んで仁王立ちしたまま俺を見下ろす亜生璃は本当にヴィヴィによく似ている。多分に弱っているからだろうけれど、何とかしてくれそう、みたいな根拠のない安心を感じる。
亜生璃曰く、いつも定時に登校する彼が遅刻ギリギリだったのを不審に思って問い詰め、そして塾がある彼の代わりに明〇のブリッ〇パッ〇1個で看病を引き受けたのだそうだ。
どうやって問い詰めたのかがとても気になる。何よりもすぐに手が出る亜生璃のこと、暴力に訴えていなければいいのだが。
「お兄さん、ご飯食べられますか? 玉子粥作りましたけど」
そして無駄に偉そうな亜生璃の横で愛美ちゃんが天使だ。
湯気の立つ土鍋を制服のまま持って微笑む姿は幼な妻的な、と言うか、ちょっといけないシチュエーションを想像してしまいそうではあるけれど……つい気が弛んでそんな目を向けてしまったのだろうか。亜生璃が「笑顔で接してくれたからって、気があるなんて思いやがったら即! 絞める!」とばかりに睨みをきかせている。
「念のために保健所に電話したんだけど、熱が4日以上続いたらもう1回連絡くれ、だって。もう患者もいないんだから検査くらいしてくれたっていいのに」
粥を茶碗によそう愛美ちゃんの横で、亜生璃は退屈そうに部屋を物色している。
もともと使っていない部屋だし、僅か3年では私物もそれほど増えていないから見られて困るようなものは置いていない。パソコンを勝手に弄られるのは困るけれど。
が、それで合点がいった。
物色のことではない。亜生璃と愛美ちゃんがマスクをしている意味。これは3年前に爆発的に流行して、夏にパタリと姿を消したあのウイルス性疾患を警戒しているのだ。
突然消えて3年が過ぎ、世間ではすっかり忘れ去られているように見えるけれど、突然消えたせいで未だにワクチンもない。そこへきて高熱が出たと言うのだから警戒して当たり前。
ブリ〇クパ〇クひとつで看病を買って出たのも、”愚兄が他所様のご子息に迷惑をかけている”ことへの尻拭い的な気持ちからに違いない。
「お兄、言いたかないけど此処にいないで。迷惑だから」
苛立たしげな言葉の端々からも、それは伝わってくる。
「伝染った後遺症で受験に失敗でもしたら、どう責任取るつもり!?」
もしこれがただの風邪や熱中症ではなかったら。
あの疫病が消えていなかったら。
もし彼に伝染してしまったら。
『――ありがとう。ええと……能登、さん』
俺は、また俺の手であいつを死なせていたのかもしれなくて――。
「……馬鹿だな。僕はきみに責任を取ってほしいなんて1度も言ったことはないのに」
懐かしい声に目を開けると、枕元に少年が座っている。
彼よりもずっと幼い顔立ちをした……ああ、これは。
「マー……レ」
夢かと思って周囲を見回すも、朝からいた部屋だ。夜の帳が下り、すっかり暗くなって彼の顔もはっきりとは見えないが、それでもあの世界で1年過ごした学生寮だったりはしない。
なのにマーレがいる。これを夢と言わずして何と言おう。
今さっきまでいた亜生璃や愛美ちゃんがいないのも、これが夢だからだ。
「僕はただのデータだよ? きみの世界にいけるはずがない」
過去を引き摺って他人に迷惑をかける俺を、俺の潜在意識が咎めているのだろうか。マーレの姿を借りて諫めているのだろうか。
「知ってる? 世界には同じ顔をした人間が3人はいるんだ。きみとノクトのようにね。だからきみが僕だと思っている彼もそんなひとりかもしれない」
「違う。彼は海にいたんだ。お前が夢で見たって言うのとまるっきり一緒の海に。彼とお前は魂の何処かで繋がってる。俺はそう思う」
しかしマーレは首を横に振る。
「どうして今になって僕に執着するのさ。きみにとっての僕は煩わしいルームメイトで、レトに遭うための鍵でしかなかったはずでしょ? ああ、ゲームの主人公だから特別な思い入れでもある?」
「違う! 俺は、」
「僕の最期は必然でしかなかった。きみのせいじゃない。クルーツォやレトのせいでもない。だからもう、」
忘れて、と音を立てずに口が動く。
「マーレ、違うんだ、俺は!」
生きていてほしかった。
あんな別れ方をするとわかっていたらもっと優しくできた。反発もしなかったし、ちゃんと話も聞いた。
「俺は、」
手を伸ばして。両肩を掴んで。
そうしないと、夢の中ですら彼は消えてしまいそうで。
だったら何だ? と、もうひとりの俺が頭の中で囁く。
罪悪感を、謝罪を、いい歳をして15も下の子供に執着する理由にしているだけじゃないのか?
償うふりをして、自分を満足させているだけじゃないのか?
顔が似ているだけの赤の他人を巻き込んで。それは彼のためでもマーレのためでもないじゃないか、と。
「俺は、」
「……お兄さん?」
マーレの口が不思議そうな声を発する。
その声に、改めて目の前の少年を見る。
彼だ。マーレではない。
帰って来たばかりなのか、制服を――グレーの上下と赤いベストという”レトの学徒”のいで立ちではない、すぐ近くにある公立高校の制服を着ている。青白い月明りの中で、白いシャツが殊更白く浮き上がって見える。
「今日は能登たちが来てくれて助かりました。薬は飲みました?」
空になった土鍋と茶碗を片付けながら、彼は目も合わせずにそんなことを聞いて来る。
突然両肩を掴まれたであろうことについては何も言わない。
「あ、いや、まだ……」
「駄目ですよ。ちゃんと飲んで下さいね」
あれは夢だったのか?
何処までが夢だったのか。
暗かったから、マーレと見間違えたのか?
いや。
あの言葉は彼が言ったものではない。
彼はマーレの記憶を持たない。
それじゃあ、あれは。
「でも朝よりは元気そうです。熱は下がったみたいですね」
呆然とする俺の前に水の入ったコップと1回分の薬を乗せた盆を置き、彼は宥めるような笑みを向ける。
俺が此処に転がり込んでから何度も見せる、”目上に対して”の笑みを。
『僕はきみに責任を取ってほしいなんて1度も言ったことはないのに』
あれは俺の願望なのだろうか。
『言いたかないけど此処にいないで。迷惑だから』
亜生璃に言われるまでもなく、俺は俺が此処にいるべきではないと、此処にいたって迷惑をかけるだけだとわかっている。
1ミリも彼のためになどならない、と。