夏・2
彼が学校に行っている間、俺は家政夫よろしく掃除をし、庭の草木に水を撒く。
冷蔵庫の食材を確認し、夕食の献立を考え、足りなければ買いに行く。
適当にありあわせのもので昼を済ませたら夕方までシナリオを練ったりプログラムを組んだりし、涼しくなったら洗濯物と郵便を取り込み、夕食を作る。
帰ってきた彼と夕食を済ませ、学校での出来事を2言3言聞き出し、あとはそれぞれ好きな時間に入浴し、就寝。そんな生活が3年間続いている。
”引き籠ってゲームを作っていた30歳”の頃からすれば見違えるほど充実した毎日を送っていると思う。実際、決まった時間に起きて3食きちんと食べ、決まった時間に寝る”健康的な生活”のおかげで以前よりずっと調子がいい。
けれど。
「お兄さんは何時まで此処にいるんですか?」
俺の作った回鍋肉を咀嚼しながら、もう何十回目だかわからない質問を、今日も彼は投げかけて来る。
あの頃の彼はものを食べるということに興味を持っていたようだが(あの世界の栄養は全てドリンクで摂取することになっていたので固形物を口にする習慣がなかった)、その顔で興味どころか躊躇いもなく固形物を口に入れる彼に、俺は違和感が拭えないでいる。
だがこの世界ではこれが普通だ。
「これが肉……!」と感動するのは余程貧しくて肉が買えなかったか、宗教上などの理由で肉が食卓に出て来なかったかのどちらかでしかない。
「あー……嫌か?」
「嫌、ではないですが」
何度言っても彼は敬語を解かない。
さらにはノクトと呼べと言っているのに徹底して「お兄さん」のままだ。
「ノクト」と呼んだ日には「マーレ」と返って来るのがわかっているから(何度か、ついそう呼んでしまった)、いい歳したオッサンと何処ぞのソーシャルゲームのハンドルネームみたいな名で呼び合うつもりなどない、という意思の表れなのだろう。
喋りながらも、みるみるうちに回鍋肉と米が減っていく。
いい食べっぷりだ。さすがは男子高校生。ここまで清々しく減っていくと料理人冥利に尽きるけれども、まぁ、それは置いといて。
「もしかして友達でも呼びたいのか? 呼んでいいぞ」
「いいんですか?」
子供が「家に大人にいてほしくない」と言い出すのは大抵、友達絡みのことが多い。俺も妹の亜生璃がどんな友達と付き合っているのかが気になって、やれ菓子だジュースだと差し入れの体を取りながら覗きに行ったものだ。
その度に「ウザい」「キモい」と殴られ、とうとう妹の友達でもある愛美ちゃんからは「お兄さん、Mですか?」なんて間違った認識をされるに至り……いや、この思い出は余計だった。兎も角、交友関係が広がることに俺が反対する理由など何処にもない。
「遠慮するほどのことでもないだろ? 俺、別に煩くても気にしないし、菓子とかジュースとか持って邪魔しに行ったりもしないぞ。安心しろ」
この場合の大人は、あくまで壁もしくは空気に徹するのが正解。亜生璃で散々このシチュエーションでの対応を学んだ俺には楽勝だ。
しかし彼は少し拗ねたように口を尖らせた。
何だそれちょっとかわいい。じゃなかった、どうもそういう返事が欲しかったわけではないらしい。
友達を呼びたい。
でも俺にはいてほしくない。
それはどんな友達だ? 俺に見せられない……まさか人間じゃないとか。いや。
「ああ」
「何が、ああ、ですか」
「あ、いや」
これは女――彼女だ。
「そうかそうかマーレもそんな歳かぁ。そりゃあオッサンがいたら邪魔だよな。何時呼ぶんだ? そんときゃ俺はネカフェにでも泊まるから」
あの堅物の監督生に彼女が! なんて茶化すところではない。
当時は15歳だった彼も、もう18。彼女のひとりやふたり作るどころか、この国では結婚すらできる年齢だ。家の中では彼女持ちの雰囲気すら出していないけれど、受験生だし、30過ぎて彼女のひとりもいない俺に遠慮しているところもあるだろう。
わかる。わかるぞ。俺は「受験生なのに恋愛にうつつをぬかして」なんて言わないからな!
「安心しろ! 誰が反対しようとも俺は全力で応援する!」
そう笑顔で言い切った。俺は彼の幸せを第一に考えているのだから当然。100点満点の回答だろう。
しかし。
「泊・ま・り・で・友達を呼んでもいいってことですか?」
何故だ? 保護者面した大人の理解を得たというのに喜んでいるように見えないのは。目が据わっているように見えるのは。
判断を間違えたか?
今の男子高校生の間では「家に友達を呼ぶ」は何かの隠語だったりするのだろうか。俺の頃なら徹夜でマリカー。優等生ならベタに受験勉強、だと思っていたのだが。
友達。
彼女。
女。
……もしや、わざわざ女友達と限定する(していません)ところからして……エッチなことをするつもりなのか!? あのマーレが!?
どうしよう。動揺が止まらない。
自慢ではないが彼女なし歴=年齢。彼女を家に呼んで何をするのか想像がつかない。いや、つくけれども、親に隠れて読み漁ったエロ本の影響か、どれもこれもがいかがわしい。
「え、えっと、やっぱ」
「駄目ですか?」
「いや、駄目とは……此処はお前ん家なわけだし……」
その女は一線超えても大丈夫なのか? とはとても聞けない。
聞けないけれど、俺が高校生だった頃も”処女と童貞は夏の間に捨てる”のがステイタスみたいに言われていた(その言葉に何人が乗ったのかは不明だが)。
最近は女のほうが積極的なところがあるし、そうでなくとも中学で委員長、高校では生徒会。確か塾でも国公立大志望コースにいたはずだ。そんな優良株が体ひとつで手に入るなら、って……いや、学生の内からそんなことを考える女ってむしろ危険じゃないのか!?
「じゃあいいんですか?」
そうでなくともこいつは居座っているオッサンに合鍵渡してくるくらい危機感がないのに!
「だ、駄目だ! 泊まりは! と言うか、」
しどろもどろに焦る俺を前に、彼は箸を置く。
きちんと両手を膝の上に揃えて居住まいを正して、それで俺を直視してくる。
「前から思ってたんですけど、お兄さんはどうして此処にいるんですか?」
「あ、えっと、お前が……幸せになるのを、だな」
「僕が幸せになるのを見届けたい、とは前に伺いました。でもそれってお兄さんが此処にいる必要はあるんですか? お兄さんの家はそう遠くないところにあるんだし、能登からいくらでも話は聞けるでしょう? それじゃ駄目なんですか?」
「あー……」
何故今日はこんなにも痛いところを突いて来るのだろう。
いや、もともと顔に出なかっただけで、見知らぬオッサンが居座ることも、何時の間にやら家族同然の顔で家事やら何やらやっているのも不快だったのかもしれない。少しずつ蓄積されてきた不満が、たった今、ゲージを振り切っただけなのかもしれない。
「ええと」
「お兄さんは僕の何ですか? 僕が彼女を連れて来ても、その彼女をこの家に泊めても、それでもいいんですか? その間ネカフェに行くってことは僕のことを見守れないわけですけど、そこはいいんですか? そもそもお兄さんが幸せにはしてくれないんですか?」
「いや、でも……あ? えっと…………………………………………………………今、なん、」
ちょっと待て。どさくさに紛れて何て言った?
だがしかし、俺の言葉が終わらないうちに彼は荒々しく立ち上がった。
手早く自分の皿を下げ、無言のまま部屋を出て行く。こんな時でも後片付けを忘れないなんて何処まで優等生なんだか、なんて感心している場合ではない。
何て言った?
俺が?
『何時まで此処にいるんですか?』
は「さっさと出ていけ」ではなくて、「ずっと此処にいるんですよね?」だったとでもいうのか!? わかりにくすぎるだろ!! ってそうじゃない!!!!
「……や、ないだろ。こんな15も離れたオッサンを捕まえて」
きっと再会した時に口走った「前世で一緒に暮らしていた」を親密な仲だったと誤解して、現世でも俺がそういう仲になりたがっていると解釈したに違いない。でも自分には記憶がないから引け目を感じて。
それなら勝手に居座る中年男を警察に突き出さないのも、同居を受け入れてしまっているのも納得がいく。
だが駄目だ。あいつだけは駄目だ。
キラキラした青春の思い出? なんて手垢がついて全然綺麗に見えない言葉だけれども、俺の中の唯一のそれを、俺が汚してどうする。
「ないだろ」
今更、「学生寮で相部屋だっただけ」なんて言えない。
もしかして毎日3食餌付けし続けたせいで胃袋を掴んでしまったとか……いや、ない。この30年、台所に立ったこともない奴の腕でそんなミラクルは起きない。
はは、と笑った顔が卑屈に歪む。
生まれてこのかた女に縁がなかった俺の、何処に気に入る要素があると言うんだ。あの頃だって、俺が何をしても頑なにルームメイトの線を越えようとはしなかったじゃないか。
窓硝子に映るのは、クソダサいTシャツの30男。
こんな日に何故デカデカと”自宅警備員”なんて書かれたTシャツを選んだ、12時間前の俺ーー!!!!
「だってお前……最後までクルーツォだったじゃねぇか……」
今だって奴が現れれば、きっと彼は俺に何を言ったかなんて綺麗さっぱり忘れてしまうだろう。それくらい、奴とマーレの結びつきは強い。
奴はアンドロイドだったが、だからと言って現世にいないとは言えない。
現にそれらしい奴はいた。3年前、妹の学校に来ていたという教育実習生が確かアラブ出身だとか何とか……妹と同じ中学出身の彼なら面識を持っているはずだ。
実習期間を終えて何処に行ったかは知らないが――。
そう言えば、と数日前に届いたエアメールを思い出す。
てっきり両親からの定期連絡だと思っていたが……いや、まさかそんな都合のいい話があるか。
頭の中に沸いた疑念を振り切るように、俺は首を振った。