夏・1
「行ってきます、お兄さん」
そう言って出ていく後ろ姿を、俺はただ見送る。
海岸に沿って弧を描く一本道は背景が空の青と海の蒼に埋め尽くされていて、その中で風を孕んだシャツに身を包んだ彼は殊更に白くて。なのに、その白は目を離した隙に空と海の青に溶けてしまいそうで。
だから彼の姿が見えなくなるまで目で追ってしまう。
俺はあの隣を歩くことができない。
共に学ぶことも、同い年の親しさで話をすることもない。
どんな理不尽な我が儘を突きつけてみても、ムキになって突っかかって来るどころか困ったような笑みを浮かべてその我が儘を受け入れてくれるのは、彼が俺を幼馴染みなどではない――”目上”と認識しているからだ。
彼にとっての俺はただの”同級生の兄”。
今こうして此処にいることすら彼が疑問に思っているであろうことも知っていて、こんな我が儘を通すしかできない俺は本当に馬鹿だと思う。
現世での出会いは3年前に遡る。
突如人類を襲った未知のウイルスが、突如として世界から消えた3年前の夏。すぐそこの海岸で俺は彼に出会った。
ああ、出会ったという言い方には語弊があるかもしれない。
彼がいると、あの時の俺は確信していた。俺は彼に会うために此処に来た。
そして当然のようにいた彼に有頂天になって抱きついてあの頃のことをいろいろ喋りまくって、自分ひとりでどうにかしようとするところや最後まで俺を置いて行ったことなどなど際限なく湧き上がる文句をひとしきり並べ立てて……何も返して来ない彼にふと我に返って見れば、理解不能と顔にありありと書いた彼が腕の中で固まっていたというわけで。
そう。彼は覚えていない。
前世か来世か夢なのか、それともただの異世界か、そんな世界の自分のことを。その世界に入り込んだ俺のことも。
再会した時にその片方が記憶をなくしている、なんてシチュエーションは恋愛系の定石だが、まさか自分自身に降りかかってくるとは思わなかった。
いや、恋愛要素は何処にもない……つもりではいたのだけれども。
改めて見てみればあの頃の知り合いが山のようにいる現世で、あの頃のことを覚えているのは俺だけで。
まぁ前世の記憶がある人間なんて滅多にいるものではないけれど、そう考えると能登大地の記憶に凝り固まって引き籠った俺を”前世の記憶がいきなり蘇った設定”で接してくれた彼らの許容量の大きさには頭が下がるわけで。
そして結局俺はノクトではなかったから思い出すはずもなかったのだけれど……そう考えると彼も顔がそっくりなだけの別人だという可能性もあるわけで、そうなると余計に思い出さないことを責めるわけにはいかなくて。
「だから……責められないんだよなぁ」
今ならわかる。
”ノクト”の顔をしながら”ノクト”の記憶を思い出さない俺を、彼がどんな想いで見ていたのか。どんな想いで接してきたのか。
兎も角、15歳のくせに悲しみか怒りか諦めかもつかないその感情を全く見せなかった彼のことを思えば、30代後半の俺にできないはずがない。
そもそもこうして共同生活しているだけでも、彼にしてみれば最大限譲歩してくれていることなのだ。
俺はただの”同級生のお兄さん”。
その同級生たる妹に俺の素性を確認したとは言え、3年前のあの日以前には面識どころか存在すら知らなかった、自分とは倍も歳の離れたオッサンが、何だかんだと家に居座っているのに警察に突き出しもしない。
「前世で一緒に暮らしていた」とは伝えたが、どう解釈してくれたのか。
字面のとおりなら夫婦か恋人、もしくは親子。
再会時に抱きついて来た挙句「生きてたんだな」だの「よかった」だのと言われれば、前世でかなり親密な関係だったにもかかわらず不幸な別れ方をしたらしいと察してくれていることは間違いない。
だから警察沙汰にもなっていないのだろうが、あまりに素直に信じすぎるから逆に心配になってくる。
そうでなくても高校生、いや出会った当時は中学生のひとり暮らし。
義務教育課程の子供がひとり暮らしなんて民生委員か児童相談所あたりで問題にならなかったのか? と思ったのだけれども、どうも親は生きていて、戸籍も此処にあって、ただ単に双方がそれぞれに仕事で海外を飛び回っているだけ……という微妙な抜け穴が重なった結果だそうで。
しかもそんな生活が長かったせいで本人はひとり暮らしを異常だと思っていない、と来た。
生活費も授業料も親の口座から勝手に引き落とされるから金で困ることはないし、本人も家事全般は難なくこなす。
せめて世間の目がもう少し彼に向いていれば彼も自分が置かれている状況の異常さに気がついたかもしれないけれど、都会と田舎が絶妙に混ざり合った地域ならではの”他人に干渉する度合いが中途半端に低い”せいもあって、誰からも気付かれないまま済んでしまったのがいけない。
しかしだ。
15歳の子供がひとり暮らしだなんて、もし何かあったらどうするんだ。
海外生活の長い親の影響か、妙に小洒落た一軒家。アンティーク風の門扉は無駄に金持ち感を醸し出しているわりに入り込みやすいし、鬱蒼とした木に囲まれた庭は中で何が起きようとも外からは見えづらい。
しかもこのあたりは海水浴場なんてものがあるせいで。見知らぬ”外からの人間”の出入りも多い。
そんなところに危機感が異様に低い子供がひとり。
心配のあまり押しかけて、押しかけたら帰りづらくなってしまって、何だかんだと誤魔化しながら3年居座っている俺も俺だけれども、「自分が登校してしまうと日中に家を空けられないから帰れないのでは」と、妙な気をきかせて合鍵を渡して来た彼を前にしたら、家に帰るなんて選択肢は吹き飛んでしまった。
危険すぎる。
これで今まで生きて来たのだから彼にしてみれば俺がいようがいまいが大丈夫なんだろうけれど、俺の心臓が持たない。
彼には幸せになってもらわなければ。
目を離した隙に空き巣に襲われたなんてもっての外。前世があまりに不幸で理不尽(だと俺は思っている)すぎたから、現世で彼が幸せに生きていることを見届けなければ、俺が罪悪感で生きていけない。
前世でも現世でも”前世”に縛られて生きる俺を、
「……ごめんな、マーレ」
彼が知ったら、「馬鹿馬鹿しい、そんなこと頼んでない」と一蹴するのだろうけれど。