遺影
第147回フリーワンライ企画参加作品です。
事情により不参加となりました笑
お題は
触れた指先、届かぬ思い
線香と○○
赤い印
ホルマリン漬け
滅んだはずだったのに
すべて使用。制限時間8分オーバーでした。
母方の生家、祖父母の家の一室、線香と黒電話。
ついぞこの前までは淡く漂い曖昧な風情に広げられた空間、閑とした、古く褪せたセピアに透かしたような懐かしいような、なぜだか不快に居心地の悪いような情景、こないだまで身近であったはずの現在の時間感覚とは比べものにならぬほどの、ゆったりとした、少し寂しげな昭和の……
廊下を進みゆく、板張りが軋む、振動で黒電話がチン、と鳴った。奥の一室からむせ返るほどの濃い線香に煙る空気が流れこちらへと。
歩くたびみし、みし、板ずれは止むことはなく、不思議にも真横まで動いた黒電話の鳴る音はしなかった。
部屋は畳張りの小さな仏の間で。
しかし異様にもその部屋は、廊下の面を除いて他の三方は永遠ほどに広がって遮るものはない。ただし、視界を奥へ向けるほどに、暗い霧のようなものが覆って先を望むことはできなかった。
仏壇の向かいには巨大な円柱型の水槽に、ホルマリン漬けにされた祖父と祖母が二つ並べられている。静かに目を閉じ、浮ぶ。
淡く鮮烈なブルーの水溶液、小柄な体躯とはいえ、あたかも立っているように浮んだふたりをまるのまま飲みこんだ二つの円柱は、低い和室の天井に届くほどで、巨大であった。
ぶくぶくと細かな泡が止めどなく底から上方へと浮びあがってふたつの死した老体を過ぎていく。
ちょうど仏の間の四畳半のスペースの境界には、赤い印による隔たりがあった。
呪いの封印のような雰囲気で、廊下の面以外の三辺を赤いラインがビニールテープを貼られたように区切られていた。
この異世界へと追いやられたのは現実世界で計れば三日前。運の悪いことに記憶が曖昧でそれ以前のことがはっきりとまで鮮明に思いだせないのだった。
ぎりぎり、その直前までの記憶と因縁だけははっきりと覚えていた。その日、私はある文献を借りるために街の図書館へと寄っていた。ずっと借りることのできなかったその本は、係員も行方を把握できなくなるほど、どこかの誰かの手元に渡った末、消えてしまっていた。どこの書店でも手に入れることのできない古い書籍であって、ダメ元で予約を入れていたところ、二年以上経ったある日、突然図書館へと返還されたのだという。
それはある意味いわくつきの文献だった。私が生まれる前に初版が擦られたその書籍に著された内容は、当時センセーションを起こすくらいの危険なものだった。そこには、この国に実在するある村が、ごっそり滅び、空き地になってしまう、というもので、作者は、フィクションの、物語として作られてある、と序文に書き記して始められているのだけれど、それを常識的に読む限り、とくに後年の、部外者として読んでいる限りでは、単なる資料としての文章と、写真や図解からなるもので、とてもそれが作者の言い分どおりの物語とは読んでいて思えないような代物だった。
しかも、この文献のいけないところは、その滅びるという村の名前を、実名で書いてしまったのである。
その書籍は当時のベストセラーになり、しかし発禁処分を受けることとなる。村の関係者により、全国に散らばったその書籍が高値の取り引きにより集められ、焼き払われてしまったのだ。
しかし好事家もいるもので、いまだにそのいくつかは存在していたのである。私がその文献に興味をしめしたのは、単なる好奇心だけではなかった。なぜなら。
その村は文献の示した通りの時刻に、実際に滅び、ごっそりと空っぽになってしまったのだから、そして、その村こそ、母方の生家のある村であったのだ。
事件により、文献は活かされた。その前代未聞の異変事の、重要な解読資料として、国の中枢へと寄せられたのである。
私はその日図書館で借りたその場で没頭して読み通してしまった、しかし、不幸にもその内容の、特に、村の滅びた理由について、まるっきり記憶を失ってしまったのだ。
図書館を出た私。
「滅んだはずだったのに……」
驚いた。そこには、幼い頃毎年のように夏休みに訪れていたその、滅びた村の風景があった。
そこでめまいを感じて、気を失っていた。
目を覚まし、私はすでに祖父母の家にあった。廊下から身を起こした。あるはずのない村や、記憶の廊下に驚いてはいたが、それが故か、私は逸早くその場を離れたくてしかたがない心地だった。
しかし、開かない、ガラス戸の玄関、意気消沈し眺め落とした玄関の境界には、あの、赤いラインが。
そういういきさつだった。
意味もなく何度も往復した。初めて祖父母の浮かべられた水槽を見た時にはこの上なく驚き、死体以外誰もいない部屋で大声をあげさえもしたが、不思議なことに見慣れてしまった。
時は流れた、古い柱時計もあり、玄関からさす光や闇もあるから、これで三日経つ、ということだけは理解していた。
腹も減った。幸い大便をもよおすこともなくて、小便だけは不謹慎ではあるが玄関に流していた。
しかし、出る分だけで、入れる分はない。喉は張付くほどに。
赤いラインを当然跨ごうとした、しかしそれができずに、異世界を区切った絶対的な境界線であることは次第に理解して、もう諦める以外になかった。
線香は不思議なことに、一旦燃えつきても、にょきにょきと竹の子かつくしのように瞬く間に生えて、燃え始めるのだった。意味もなく銅を鳴らして、手を合わせること数えきれぬほど。合わせるべき対象は、皮肉にも真後ろにいるというのに……
そして、力尽き、ぶくぶくと生気に満ちた泡の次々生まれゆく巨大な水槽を、ブルーを、そして穏やかに目を閉じた二つの遺影を眺めるだけだった。
朦朧としている。私は呪いの書を開き、呪いに閉じられてしまったのだろう。この封印をとく鍵は、きっとあの文献にかくされているに違いない、しかし、悲しいことに、はじめから曖昧だった記憶喪失者の記憶の先が、ますます、その曖昧な霧の濃度を増していくのだ。このまま死んでいくのかな。
夢を見ているか、幻覚であるか、あまりに鮮明な映像だった、村、氷が融けていくように、否、まるで、ドライアイスが溶けてでもいくように、蒸発していく、村、変わらぬ日常の有り様で広がる風景、人々、私だけが、彼らの、村の、行く末を知っている……手を伸ばしても、救えぬことなどわかっている、それでも、幻想の、滅びゆく風景へと手を伸ばして、なにかを、知らせようと、そして運命を……
触れた、指先は、まるで、ジオラマのような村の風景へと……触れた指先、届かぬ思い、しかし、私の思惑など、運命の、巨大なエネルギーを凌駕しうる強さは秘めてはいなかった、ましてや、死を目前とした……
そして、幻想は完全に消えてしまっていた。鮮烈なブルーの水溶液に浮かんだ祖父母が、一瞬、目を開いて、私に、ふたつの懐かしい顔が、微笑んだような気がした。
私は、村が蒸発していった、あの様とまったく同じありさまで、自分の体躯が、隈なく、蒸発していくのを感じ、次にはそれを、眺めているのだった。




