第十七章 格の違い 05
呆然と視線を落とし、自分の腹部へと目をやるじいさん。
まるで腹部から生えているように伸びる、血塗られながらも涼しげな刃紋を帯びた白刃。
困惑に目を見開き、刃を伝って滴り落ちる鮮血を両の眼へと映すじいさんに、オレは『背後』から声をかける。
「とりあえずコロナへの傷の借り、返えさせてもらったぞ……でっ、どうだ、じいさん? 多少なりとも、殺気は感じられたか?」
「ば、馬鹿な……殺気など、微塵もありはしな……かはっ!?」
逆流する血を口から吐き出し、崩れる様に片膝を着いたじいさんの背後から、その無防備に晒された首筋へと長船康光の切っ先を当てた。
状況が把握し切れず、己の身に何が起きたのかさえも理解できていない、じいさん……
流れ出る血を押し止める様に口と腹部を押さえ、苦しげな表情で顔を上げると、目の前に立つオレ――もう一人のオレに困惑の目を向ける。
「ああ、それか……」
その視線を追う様に、オレはもう一人の自分へと目を向け、口元へ笑みを浮べた。
「そいつは、式神……タダの紙人形だ」
「!?」
オレが空いている左手の指を『パチンッ』と鳴らすと同時に、先程までじいさんと対峙していたオレは、青白い光を帯びながら消えていき、そして最後には人の形に切られた呪符がじいさんの膝元へと舞い落ちた。
じいさんは紙切れに戻った呪符へ呆然と視線を落と、その項垂れる様な姿勢を変える事なく、言葉を絞り出す様に口を開いた。
「いつじゃ……? いつ、入れ替わりおった……?」
「ん? ああ、入れ替わったのは、じいさんが後ろから襲って来た時だよ。じいさんの攻撃を受け止めるのに、後ろへ振り返りながら入れ替わった」
「フッ……フフフ…………それは、なんとも滑稽な話じゃな……。それではワシは、ずっと紙人形を相手に、勝ちを誇っておったという事か……とんだマヌケ者ではないか、フフフ……」
「ああ。そしてその間オレは、マヌケにも無防備に晒された背後に、ずっと立っていたって事だ」
自虐的に笑うじいさん。
そして、そんなじいさんに無慈悲な言葉を浴びせるオレ……
死体蹴りにも似た無情なセリフに、じいさんは返す言葉すらも見つからずにいた。
しかし……
「う、嘘だっ!」
そんなじいさんに代わって、事の顛末を見守っていた伯爵さまから物言いが入る。
「レヴォーグの後ろに立っていただとっ!? デタラメを言うなっ!!」
額にびっしょりと冷や汗を浮かべ、錯乱気味に声を張り上げる伯爵……
まあ、そう思うのは当然だわな。
式神の後ろにいた伯爵――じいさんと対面の位置にいた伯爵からは、短身痩躯なじいさんの後ろが丸見えなのだから。
とはいえ……
「なあ、伯爵……じいさんがオレの背後から襲いかかろうとした時、アンタは一瞬だが口元に笑みを浮べた。それは、気配を消したじいさんがオレの背後に迫っているのが見えたからだな?」
「そ、それが、何だと言うのだ……?」
「さっき言ったろ? じいさんの気配の消し方は、暗殺者としては駆け出しレベルだって。いいか? 本当に気配を消すっていうのな、たとえ目にその姿が映っていたとしても、それを人として認識させないもんなんだよ」
「なっ!?」
驚愕に目を見開き言葉を失う伯爵に対し、オレは口角を上げながら、更に言葉を綴った。
「言っとくけど、この程度の事、一条橋家の人間なら誰でも――今年十四歳になった妹だってやってのけるぞ」
実際オレは気配を消した姉さんに待ち伏せをされ、背後から殺気もなく心臓を一突きされて殺された訳だし。
「き、貴様……一体何者なのだ……? ただの料理人ではないのか……?」
顔面を蒼白にして、怯えた目を向けながら問う、レビンの父君。
何者か……か。
「情報収集不足だったな、伯爵。レビンはオレが何者なのかを知ってたぞ」
「レ、レビンが……?」
眉を顰め、怪訝そうな目を向ける伯爵に、オレは一度目を伏せてから、射抜く様な視線を返した。
「元、日本政府、内閣調査室特別諜報部、嘱託執行人。一条橋静刀」
「な、ないかく……? しょくた……?」
カッコつけて名乗っては見たものの、恐らく初めて聞くであろう単語の連続に、伯爵は戸惑いを隠せずにいた。
なんか、いまいち締まらないけど……まっ、しゃーないか。
「早い話しが、日本って国家直属のお抱え暗殺人って事だよ」
「こっ、国家の直属……だと?」
「ああ。レビンやシルビアからどこまで聞いてるか知らんけど、文化レベルで言えばこの世界より500年は先に行ってる国のな」
「………………」
驚愕に目を見開き呆然と膝から崩れ落ちる伯爵……
たかだか、他所から流れて来た雇われ料理人の小僧と侮り、喧嘩を売ったはいいが、その正体を知って完全に言葉を失う伯爵さまの図である。
「フッ……フフ……フフフフフ……」
そんな、茫然自失の伯爵さまに代わり、オレの足元で同じ様に膝を着いているじいさんが、自嘲する様に低い声で笑った。
「なるほど……ワシとお主では、端から格が違ったという事か……」
「そうだな……じいさんの組織がいつから在るのか。じいさんがどれだけの年月をかけ、技を磨いたのか――正直、知ったこっちゃないし興味もない。ただな、一条橋家は千年以上も前から時の権力者を陰で支え、暗殺を司って来た家だ。わりーがオレから見れば、アンタらのやっている事なんて子供のお遊戯と大して変わんねぇよ」
まっ、子供のお遊戯と侮って足元を掬われたオレも、平和ボケした大間抜けだったけどな……
「ほっほっほっ……ほざきよるわ。しかし、返す言葉がないのが、痛い所じゃのう……」
血溜まりの中に両膝を着き、苦しげに笑うじいさん。
腹部を貫通した刀傷。とめどなく流れる鮮血。輸血という概念すらないこの世界では、万に一つも助かる見込みはないであろう。
「さて、じいさん……正直、その傷は致命傷。放って置いても長くはないだろうが、老人が苦しむ姿を見て喜ぶ趣味はないからな。今、楽にしてやるよ」
「それはありがたい……お主の様な手練に頸を刎ねられるとは、冥府へのいい土産が出来たわい」
「言ってろ……」
オレが刀を上段に構え直すと、じいさんは被っていたフードを下ろし、無防備にうなじを晒した。
実際にやる事などないと思いながらも、執行人としての立場上覚えた介錯のやり方。まさか、異世界でやる事になるとはな……
内心で苦笑いを浮かべながら、少しだけ目を細めて狙いを定める。
『狙う場所は、第三頚椎と第四頚椎の継ぎ目。そして、首の皮一枚を残す様に……』
そう口の中だけで呟き、オレは上段に構えていた刀を一気に振り下ろした。