第十七章 格の違い 01
「この服も、久しぶりだな……」
一度、桜花亭に戻ったオレは濃い藍色の仕事着に着替えを済ませ、薄っすらと積もった雪道を静かに歩いていた。
ただ、ここで言う仕事着とは料理人が着る様な作務衣ではなく、その形状は忍び装束に近い。
そう、これはもう一つの方――裏の仕事用の装束であり、コチラの世界に来てからは、初めて袖を通した仕事着である。
『ただ、姿は確認出来ていませんが、父上の周りにはアイサイツの首領の影が見え隠れしております。当然、その技量は末端の者達とは比べらようはずもなく。努々ご油断なさりませんように』
このレビンの言を信じるなら、向かう先にいるのは暗殺組織の首領。
コチラの世界の暗殺組織がどの程度のレベルなのかは知らないが、トップともなれば先程の素人崩れより腕が立つのは確かだろう。
となれば、当然にして備えは必要。ましてや本職の暗殺者同士で対峙するのであれば、手を抜く事は礼儀に反する。
それに、この装束には特殊な呪術が掛けてあるのだ。
もしオレが死んだ場合――いや、実際に死ななくてもオレ自身が死を望んだ場合には、その痕跡を血の一滴、髪の毛一本残さずにこの世から綺麗に消し去ってくれるという、証拠隠滅の為の呪術が……
もし、オレがドジを踏んで死んだとしても、最大の物的証拠である死体がなければステラやアルトさんにまで塁が及ぶ事はないだろう。
物的証拠もなく、中途半端な証言だけでステラ達にも罪を問おうとすれば、姫さま達が黙っていまい。
いや、そもそもカルーラ伯爵の目的は、オレという存在の排除なのだ。それが叶えば、無駄に薮をつついて蛇を出すようなバカはしないだろう。
後顧の憂いも、迷いや躊躇いもなく、一定の調子を崩さずに歩みを進めるオレ。
そんなオレの前に、ようやくこの街で一番大きな屋敷の正門が現れた。
が、しかし――
「おいおい…………」
オレは目の前にある門の状態に眉間へ皺を寄せ、少しばかり警戒レベルを上げた。
何でこんな時間に、正門が全開なんだよ……
そう、目の前に現れた門は鍵か開いているどころか、鉄柵みたいな門自体が全開で開いているのだ。
この街一番の大きな屋敷であり領主の本邸である屋敷の門が、こんな深夜に開いているなど不自然極まりない。
ましてや今日は、シルビアを始め多数のVIPが宿泊しているはず。なのに、その門を守る警備すらいないのだ。
ふとっ、オレの頭にレビンからの言葉が過った――
『今宵、我が屋敷の警備は、全て私の手の者に交代させており、お義兄さまのなさる事には一切の手出し無用と伝えてあります』
さて、コレがレビンの計らいなのか、それとも敵の罠なのか……?
「まっ、どっちでもいいか……」
そんな呟きを漏らしながら、オレは歩調を変える事なく淡々と豪華な造りの門をくぐって行った。
コレがレビンの計らいならありがたく受け取るだけだし、罠ならば食い破るだけ。そして、食い破れなければ、屍を晒す事なく消滅して死ぬだけの話だ。
薄っすらと雪化粧をした、手入れの良く行き届いた庭。
オレは新雪に足跡を残しながら、真っ直ぐに正面の大きな扉を目指した。
「ん?」
扉の手前、三段程の低い石段に足を掛けると同時に、音もなくゆっくりと開く両開きの扉……
オレは懐から取り出した一枚の呪符を左手に持ち、警戒のレベルを上げながらその扉をくぐって行った。
「お待ちしておりました、シズト様」
半照明の薄暗いロビー。そこでオレを出迎えたのは、スカートの裾を摘んで仰々しく頭を下げる一人のメイドさん。
年の頃は二十代半ばと言ったところか?
その洗練された所作や立ち振る舞い。そして、その気配はアキバ辺りでチラシを配っている、なんちゃってメイドさんとは別次元――いやっ!
「………………」
オレは、無言で手にしていた呪符へと霊力を通した。
即座に刀へと――長船康光へと姿を変える呪符。そのまま一気に間合いを詰めると、オレはその二尺二寸ある刀身の尖端をメイドの喉元へ突き付けた。
確かに、なんちゃってメイドの気配とは別次元である。しかし、コチラの世界で何度か見た事のある、貴族へ仕えるメイドの気配とも全く違っているのだ。
そして、その気配はオレの良く知る気配。
そう、裏の世界の人間、特有の気配……暗殺や諜報を生業とする者の気配だ。
「失礼しました。シズト様は、貴族扱いを嫌うとレビン様から聞いておりましたものでして。やはり、イチジョウバシ卿とお呼びするべきでしたか?」
「不要だ。むしろ『卿』はやめてくれ」
「かしこまりました」
剣先を突き付けられているにも関わらず、顔色一つ変える事なく、再び仰々しく頭を下げるメイドさん。
オレは剣を突き出した姿勢を変ずに、その整った顔を睨み付けながら問いかける。
「それで……あんた、レビンの手の者か?」
「はい。レビン様付きのメイド長、セレナと申します。以後、お見知りおき下さい」
セレナと名乗ったメイドさんは、身体の前で軽く手を組み、ニコやかな笑みを浮かべながら言葉を綴っていく。
「それで、シズト様? 出来ましたら、剣を収めて頂けないでしょうか?」
「そっちが手の中の物を捨てて、殺気を収めたらな……」
下腹部辺りで組まれた手……
オレは、その軽く握られた右手の甲へと視線を落とした。
お互いに身動きが取れず、緊張感に包まれた静寂が流れる……
「……」
「……」
「…………」
「…………」
「………………」
「ふうぅ~…………」
そして、その静寂の時を破ったのは、メイドさんの長いため息だった。