第十六章 一本の髪の毛よりも…… 02
「すまんが、泣きぼくろよ……ワシはコレより修道院へ戻らねばならんでな。お主は、桜花亭に戻って、コロナの荷物を纏めておいてくれんか?」
真っ白の花びらが舞う様な雪の中。純白のマントが夜の闇へと消えるのを見届けたラーシュアは、傍らにいたアルトへと言葉を投げ掛けた。
「承知しました」
「件の日記帳とやらも、忘れんようにな」
「心得ております――」
軽く頭を下げ、踵を返して歩き出すアルト。
しかし、その歩みは、ものの数歩で止まってしまった……
深々と降る雪の中、その隻眼に困惑の色を浮べながらも、意を決した様に漆黒の和ゴス服へと振り返った。
「ラーシュアさん……わたしには、どうしても腑に落ちない事があるのですが、少々お聞きしてもよろしいでしょうか?」
「その顔を見るに、あまり楽しい話題ではなさそうじゃな……まっ、ワシが答えられる事ならばな」
少々おどけるように、肩を竦めて答えるラーシュア。
アルトは、そんなラーシュアを正面に見据えながら、その艶っぽい唇を開いていく。
「そも、今回の一件。ご主人様の動きが、あまりにも緩慢過ぎます。自分の命を狙われていると分かっていても鷹揚に構え、危機感を持っているようにも見えませんでした」
「………………」
「敵は、小娘を騙して自分を殺そうと考えている。逆に言えば、自分が無事な内は小娘も無事――そんな思いもあったのでしょう。そういう意味では、あの小娘が真実を知ってしまったのは想定外。ましてや、ご主人様ほどの手練であれば、『暗殺者が素人の盗み聴きにも気が付かずに、計画を話し合う』などいう失敗、あまりにも無能過ぎて逆に思い付きもしないのかもしれません」
「言いたい放題じゃな……」
思わずそんな言葉を漏らしながら、苦笑いを浮かべるラーシュア。
とはいえ、ラーシュアには反論しようにもフォローもする材料が見つからないし、そもそもそんな事をする義理もない。
対するアルトも、ラーシュアが思わず口を衝いた言葉など気にも止めず、少々感情を昂ぶらせながら話を続けて行く。
「元とはいえ、軍属だった者――それも一軍の将がタラレバなど言いたくはありませんが、それでも……それでも、ご主人様が後手後手に回らずにいたら……危機感を持って先手先手と動いていれば――」
「みなまで言わずともよい。言いたい事は、分かった」
アルトの話を遮り、最後の言葉を言わせない様に口を挟むラーシュア――いや、言わせないのではなく、あえて自分の口で言う為に口を挟んだのである。
なぜなら……
「お主の言う通りじゃろう。主が先手を打っておれば、この様な結果には……コロナが死す事は、なかったかもしれんな……」
そう、自分と部下の命を静刀に救われたアルト。その事に恩義を感じ、敬愛の念すらも持つ彼女が、コロナの死の原因が静刀にあると口にするのは辛く、そして抵抗があるだろう。
そして、それを口にさせるのは酷と思ったラーシュアが、アルトに代わって口にしたのである。
しかし、誰もが無意識の内に避けていた現実をラーシュアが言語として形にした事により、二人を包む空気が一気に重くなり静寂が場を支配した。
「………………慢心」
そんな静寂に抗うよう、アルトはポツリと言葉を漏らす。
「慢心?」
「はい――確かにご主人様の知識や洞察力、何よりその技量は宮廷魔道士だったわたしの目から見ても、信じられないほどに高い。然るに、己が命を狙われていても危機感を持たず鷹揚に構えていたのは、向かって来ればいつでも返り討ちに出来るという『慢心』があったからではないですか?」
「慢心……か。それが原因であるなら、話は簡単なのじゃがな……」
アルトが立てた推論に、苦笑いを浮かべるラーシュア。
その困った様な笑いに、自分の推測を否定されたアルトは眉間にシワを寄せて目を細めた。
「簡単……ですか?」
「ああ、簡単じゃ。慢心が原因であるなら、ニ、三発ぶん殴って、目を覚まさせればよい。上には上がいるのじゃとな。しかし、いくら主がアホでも、自分が世界最強だなどと、イタい事を考えるほど厨二病ではあるまいよ」
「では、原因は別にあると?」
「ああ――」
アルトの問いに肯定の相槌を返すと、ラーシュアは躊躇う様に一拍置いてから、絞り出す様に言葉を綴った。
「主はな……己の命に頓着がないのじゃ……いや、己だけではない。特に以前の主は、親姉弟を含め、全ての命に不頓着じゃった」
「………………」
命に頓着がない……
ラーシュアの言葉は、命に執着する事も、生死を気にかける事すらもないと言っているのだ。それも、自分の命だけではなく、親姉弟の命まで……
アルトは、その言に思わず息を飲んだ。
「万山重からず、君命重し。一髪軽からず、我が命軽し――」
「い、今の詩は……?」
「平安の世――およそ千年前から主の家に伝わる家訓でな。『万の山々より主君の命令は重く、それを為す我が命は一本の髪の毛より軽い』――主は、幼少の頃より毎日の様に説かれておったわ」
「い、一本の髪の毛よりって……」
「そんな主じゃ。親姉弟が目の前で危機に瀕しておっても、己の任務に支障をきたす様であらば、顔色一つ変えずに見捨てておったろうし。逆に自分の命が危機に瀕しても、主は助けなど求めずに漫然と己の死を受け入れたじゃろう」
「………………」
ラーシュアの話す、自分の知らない静刀の有り様に、アルトは言葉を失い、呆然と立ち竦んだ。
「じゃが、ありがたい事に異世界に来て、ステラ、姫さま、そしてお主等と出会い、主は命の重さを知った――そういう意味では、ワシもお主等に感謝しておるのじゃよ」
「そ、そんな……わたしなど……」
「今回の件も、始めから明確にコロナの命が狙われておれば――いや、コロナじゃのうて、仮にそれがお主や姫さまの命だったとしても、主は万難を排し、即座に敵を屠っておったじゃろう。それほどまでに、主の中でお主等の命は重くなっておる。じゃがな――」
ラーシュアはそこで話を区切ると、雪が舞い降る天を仰いだ。
雪が落ちては溶けて消える、その白く幼い顔に悲壮な色を浮かべるラーシュア。それでも、漆黒の衣を纏った幼女は拳を握り締め、掠れた声を絞り出した。
「じゃが……主の中で己が命はまだ、一本の髪の毛よりも軽いままなのじゃ……」