第二部
「司書さんに見つからないかとひやひやしました」
姉さんは大人に見つからないように、いたずらをする子どもみたいな調子でいった。鼻歌を歌いながら靴下を履いている。
「それにしても――、」
夕方の図書室。飴色の西陽が照らす。柔らかな空気に満ちていた。
「先輩はとんだ変態ですね。私が言えた事ではないけど」
適度に甘い、良く通る声。
僕は何もいわない。自分が頭の回線が間違って接続された変態だと知っていたから。
姉さんは上履きを履き終え机から跳び降り、振り向くと
「早くしないと司書さんが来てしまうから、急ぎましょう」といった。
二人して本の除籍作業に取り掛かる。姉さんが除籍の判を押し、貸出期限表を破って捨てる。僕は除籍される本の名前と価格をパソコンの表に打ち込んだ。
キーボードを打ち込むカタカタという音だけが響いた。
あの行為は週に一度程度のペースで続けられていた。学校でしたのは久し振りだ。
加虐欲と被虐欲を満たすだけで、性行為をする訳じゃない。かえってそういうのは汚らしいものに思えた。
行為は一時凌ぎにはなったけれど、心の虚を満たす事は無い。
それともセックスしたら満たされるのか?
分からない。姉さんは僕に鞭打つだけで満足のようだし、お互いに望んでないなら無理に提案することもないだろう。
茫然とそんな事を思って取り組んだ。
一時間くらいかけてだいたい三十冊程度の処理が終わる。こうして除籍になった本は、図書館の入り口の本棚に無造作に入れられて、ただで生徒に配布される。本の山の内から目をつけていた三冊を抜いて鞄に入れた。図書委員の役得って奴だ。面倒な作業をやらされるのだから、これくらいは目を瞑ってもらっても良い筈だ。
「先輩何入れたんですか?」
「乱歩と谷崎」
僕がそういうと、姉さんは首を傾げた。肩にかかるくらいの長さの髪がさらさらと流れる。
タイミングよく司書さんがお菓子とお茶を持ってきてくれた。
乾菓子を食べながら世間話に興ずる。
会話は主にふくよかな中年の司書さんと姉さんの間で交わされる。僕は時折曖昧に頷いたり、振られてくる他愛のない問い掛けに答えるだけだ。姉さんは楽しそうに笑って司書さんと話している。理知的な眼差しではきはき答えている。健全な、感じの良い少女だ。
さっきまで僕を足蹴にしていたとは思えないくらいに。
会話が終わって帰り道。
僕は姉さんの自転車を押す。姉さんと僕の鞄をカゴに入れてゆったりと話しながら歩いた。
姉さんは僕と話すときでさえ笑ってくれる。
姉さんの表情は、山の天気のようにくるくる変わり、見ているだけで面白い。
「先輩聞いてます?」
じぃっと僕の顔を覗き込む。
「見惚れてて聞いてなかった」
なんとなしに正直に答えた。
「何ですか、いきなり」
姉さんは呆れたような表情で、だけど何処か嬉しげだった。すっと先に進んでいった。僕はその後ろ姿を追う。
僕にはほんとに勿体ないひとだと思う。何で僕なんかと。
まだ辺りは赤く染まったまま。最近ますます日の落ちる時間が遅くなってきている。
もうすぐ夏になる。気の早い蝉がジークジーク鳴いていた。
朝起きて、姉さんを駅まで向かいに行くことから僕の一日は始まる。
最初は家まで向かいに行こうとしたのだけれど両親に囃し立てられるから恥ずかしいって姉さんが固辞するものだから駅での待ち合わせとなった。
「おはよう。姉さん」
「おはようございます。先輩」
姉さんは僕のことを先輩と呼ぶ。他人行儀な気がして嫌だ。
「先輩なんて呼ばないで呼び捨てでさ」
「…………それはちょっと」
姉さんは困り顔になる。眉が八の字になって切れ長の目が垂れがちになる。
「姉さんが嫌なら」
学校へ向かって歩き出す。
このやりとりは、いつも繰り返している。大概のことは許してくれる姉さんだけど、ふたりきり以外での呼び方は頑なに変えさせてくれなかった。
呼び捨てにされたって良いのに。
ただ一年先に生まれただけなのに、先輩なんて言われるほど立派な人間じゃない。
「自分で出来ます…………」
姉さんが頬を赤らめて周囲を気にする。視線が泳いでせわしなく体を震わす。身の置き所がない様子。
「いいから」
姉さんを廊下と昇降口の間の大きな段差に座らせて、焦げ茶色のローファーを履かせる。姉さんの脚は小さい。褐色のふくらはぎに黒い靴下が似合っている。
「子供じゃないんだから自分でやります」
「僕がやりたいんだ。…………駄目かな」
「…………………」
姉さんは眉を斜めに曲げて困り顔。もっと我儘言ったら、どんな顔をするのかな。試したくなる。姉さんは口では嫌というけれど、頼みこんだらどんなことでも許してくれそうだ。
姉さんは渋々僕に靴を履かされたあと、足早に前庭を抜けて校門を出る。僕は姉さんの荷物を持って追いかけた。
姉さんは校門が出たあと無言で、商店街が近くなったあたりでやっと口を開いた。
「…………私たちが陰でなんて噂されているか知ってます?」
「仲がいいって?」
「ええ、ほんとに仲がいいって」
姉さんは僕に向き直り厭味ったらしい毒を含む口調で言う。
「そんなに照れなくても良いのに」
「照れてないっ!」
大声を出して、僕の顔を見るとすっと怒気が抜けて、はあと大きくため息をついた。
「もう何でもないです…………」
「もっと僕をさ、召使いや下僕みたいに扱ってくれていいのに」
姉さんは半ばあきれ顔で僕を見る。
「せめて二人だけのときにしませんか?」
「みんなにも見せ付けたい」
「ド変態っ!」
姉さんは罵って走って駅の方へ行った。僕もそれを笑いながら追いかけた。