はじまり
◇ ◇ ◇
そこにあるのは死への渇望だった。
例えば一歳年下の『姉さん』の足許に跪いているときに、僕の脳裡に過ぎるのは次に与えられる快感への期待や、瞳に映る姉さんの艶かしい太ももではなかった。背筋がゾクゾクするような悦びを与えてくれた姉さんの台詞も、今となってはただ虚しく響くのみである。
姉さんに促されて足を舐める。指先から踵、脹脛に到るまで。丁寧に、そして丹念に舌を這わせた。靴下で蒸れた匂いが鼻腔を満たし舌は汗の酸味を覚える。姉さんの顔を窺うと、頬は微かに上気してサディスティックな微笑を浮かべていた。うっすら日に焼けた健康的な肌。大きい瞳。細く長い眉。すっと通った鼻筋。血よりも赤い唇。うっすらと化粧をしていて思わず見惚れてしまう。
姉さんは休んでしまった僕を見咎めて、鹿のようなしなやかな足で僕の頭を踏み付けた。許しを乞うが姉さんは無言で足に掛かる体重を強めた。額は冷たいタイル張りの床に着き痛みが走る。興が削がれるから抵抗はしない。
かつては背徳的で屈辱的な快感を覚えることの出来た今の状態も、表面には出さないが今となってはただただ虚しく、満足し切れない僕がいた。
刺して欲しい――と願い始めたのはいつからだったか。
刃物を見る度に、姉さんに刺殺された自分を夢想する。体にはどれほどの痛みが走るのだろう? その苦痛は快楽に成り得るのか。姉さんは何を思うのだろうか? 僕の穢らわしい血を浴びて、いつものようなサディスティックに微笑むのか。
自分でも異常だと思う。だけど、叶う筈の無い願望は意識の表面に浮いては沈み僕を苛んだ。僕は姉さんに殺されたい。自分の矮小で何の意味を為さない、無駄の一言で済まされてしまうような人生に終止符を打たれたかった。
異常な願望は姉さんとの甘美な時を虚構へと変えてしまって、寂しい。
死は僕にとって決して忌むべき存在では無く、むしろ一度しか味わうことの出来ない甘美な誘惑だ。死は睡眠の兄弟だと言うけれど、死に逝くときも寝るときと同じように落ちんだろうか。どんな感覚なんだろう。もし存在するのであれば黄泉の国に堕ちるのだろうな、なんて呆然と思う。
妣が国、素敵だ。
でも、何も無いんだろうなとも思う。
虚無。
思考も感覚も失われる。
理解は出来ないが、僕は欲していた。
僕らの年頃にとって死とは最も無縁な物であるという。だけど、僕は違った。親戚がやたらと多くて幼い頃から焼香の匂いを嗅ぐのは常だったし、死へと向かう者を見るのも多かった。平生を装っているが絶望に打ち拉がれている者、意識不明になってもなお話しかけると涙を流す者。例を出すと枚挙に暇がないが病床に臥す彼らは皆生に恋焦がれていた。
そんなにも死ぬのが怖いのか。僕には不思議だった。死とは現世の全ての理からの解放、忌むべきものではなくむしろ祝福すべき旅立ち――いや、回帰か――そうではないのか。
僕は死を常に意識してきた。彼らとは対照的に死に恋焦がれているんだろう。
死ねるのなら若いうちに死にたいと思う。老人の死は、近い将来約束されている事なので余り感動はないが、若者の死は文学的で美しい。何より老いるのを待ち切れ無かった。
ただ、願望が成就すると心残りなのは姉さんだ。殺されれば僕は名実ともに姉さんのモノになる。姉さんはそれだけで満足してくれるだろうか。それだけが気掛だった。希望的予想に過ぎないけれど微笑んでくれる気がする。その微笑を見ながら死ねたらどれほど、良いことか。
不意に頭に掛かる重みが弱まる。見上げると、姉さんの褐色の首筋に一筋の汗が垂れていた。
今、刺して欲しいと言ったら姉さんはどんな表情を浮かべるのかな。
僕の心には虚がある。
そこにあるのは死への渇望だった。
◇ ◇ ◇