第三章 決意 上
城へ戻ると、城門で日輪山小鈴が待っていた。聞けば、真棟と海老間永謙・唐塩稙久・星刈安常の三人の家老は既に中郭御殿の評定の間で使者との話し合いを始めていて、真愛の帰りを待っているという。貴政を加えれば桃園家の四人の家老が全て集まることになるので、灰積家の使者の用件の重大さが分かる。部屋へいったん下がった真愛は、来客に失礼のないよう鴉用の手袋をはずして正装し、涙の跡の残る顔を直して髪を整えると、輝翼丸を金色の止まり木に移して餌を与えてから、急いで部屋を出た。
評定の間は家臣たちを集めて軍議をしたり、儀式を行ったり、重要な客人を迎えたりする時に使う大広間だ。小鈴の案内でその前まで来ると、閉じられた襖の中から押し問答が聞こえてきた。片方は真棟の声で焦りが感じられる。もう一方は余裕に満ち、嫌味なほど自信にあふれた中年男性の太い声だった。
「ぜひとも、二龍逢城へ援軍を出していただきたい」
「いや、お断りいたす。以前も申し上げた通り、義兄と戦いたくないのだ。どうかご容赦願いたい」
「そこを押してお頼みしたいのです。義弟の真棟公が城攻めに加わったとなれば、強情な泉代扶成めも観念するやも知れませぬ。こちらは四倍の大軍、やつらに勝ち目がないことは明白であるのに降伏せず、なかなかしぶとくて手を焼いております。ここは音に聞こえた真棟公の武略と桃園勢の武勇がぜひとも必要なのですよ」
「ふんっ、どうせ我等を城攻めで消耗させて弱らせ、泉代家の次に滅ぼそうというのだろう」
貴政は悔しげにつぶやいたが、すぐにしかつめらしい表情を作ると、真愛に頷いて、襖を開いた。
「遅れました。失礼いたします」
廊下から声をかけた真愛は立ったまま頭を下げた。
「真愛、ようやく来たか。こちらへ来い」
祖父に呼ばれて真愛は奥へ進んだ。貴政も広間に入って永謙の隣にあぐらをかいた。話し合いの様子が気になって付いてきた煕幸はやはり場違いだったと思い、下がろうとしたが、「煕幸殿にもいていただきたい」と真棟に言われてやむなく中に入り、貴政に手招きされて横に腰を下ろした。
真愛は向かい合って座る家老たちの後ろを回って祖父の右へ向かった。ところが、真棟の正面に座っていた使者が立ち上がって近付き、進路をさえぎった。仕方なく足を止めた真愛の顔を、大柄ででっぷりと太った使者は上からじろじろと眺めた。
「あなたが真愛様ですか。なるほど、少女と見紛うばかりの美少年でいらっしゃいますな」
感心したように言ってぶしつけな視線で今度は全身を見回している。
「祖父の隣へ行きたいのですが」
困惑する真愛の言葉を無視し、使者は円い顔を興奮に紅潮させて「私はあなたとお話ししたかったのです」と言った。
「我々は以前からあなたに興味がありました。真崇公が亡くなられた途端、落とし胤が現れたのですからな。皆驚きました」
使者は早口でまくし立てた。
「しかも、誰もが見とれるほどの美貌で薙刀の達人、家臣の多くがかなわなかったとうかがっております。存在が秘されていたことも考えれば不思議ですな。家老の家でお育ちになったそうですが、なぜ堂々と庶子と認めなかったのでしょうな」
「真崇様を暗殺しておいて、よくもいけしゃあしゃあと言うものだ。養子を送り込もうとしたら真愛様が現れたので計画が狂って慌てたのだろうな。お前たちの思惑通りにすんなりと事が運ぶと思ったら大間違いだぞ」
煕幸の横で貴政が低い声でつぶやいた。それが聞こえているのかいないのか、使者は真愛を味方に付けようと熱弁を振るっていた。
「真愛様は山賊退治でもご活躍だったとか。ご城下で随分と評判になっておいでのようですな。あなたの武勇をもってすれば、二龍逢城を落とすことなどたやすいでしょう。これはあなたの武名をさらに上げ、桃園家の武威を周辺国に示す絶好の機会ですぞ。ぜひ我々にお力をお貸しいただきたい。あなたが戦うとおっしゃれば、皆も賛同するでしょう。さあ、真棟様を説得するのを手伝ってくだされ」
真愛は呆れと不快さがまじり合った表情だったが、礼儀を失わぬよう辛抱強く聞いていた。そして、相手の言葉の洪水が一段落すると、ちらりと祖父を見て、使者に言った。
「申し訳ありませんが、それはできません。参陣しないことは祖父や家老たちと一緒に話し合って決めましたので、他の人の考えが変わらない限り、桃園家が出陣することはありません。それに、僕自身も城攻めに加わることには反対です」
「どうしてもお力添えをいただけませんかな?」
中年の使者は懇願するような口調で言った。
「はい。僕からみんなを説得するつもりはありません」
少女は使者の妙に粘っこくいやらしい視線をしっかりと見返して、きっぱりと答えた。
「そうですか。では、仕方ありませんな」
使者はいかにも残念そうな顔をした。
「武勇に秀でた真愛様は真棟公とはまた違ったお考えをお持ちではないかと期待していたのですが、私の見込み違いでした。説得は諦めましょう。ここはいったん退散し、出直すしかなさそうですな」
煕幸の隣で安堵の溜め息が聞こえたので横目で見上げると、気が付いた貴政は急いで表情を引き締めた。
使者は大げさな身振りと言葉で嘆いていたが、真愛に目を戻すと、礼儀正しい態度に戻った。
「そういえば、まだ名乗っておりませんでしたな。私は灰積家の家老、小枯野猶門と申します」
貴政に問うようなまなざしを向けると、小声で教えてくれた。
「灰積家の筆頭家老だ。多くの敵を屠ってきた猛将で、軍師の緑塚貞述と共に将邦の両腕と言われている。本人と配下の武者は灰積家中でもとりわけ残酷だと悪名が高い」
その説明で煕幸は以前聞いたこの男の蛮行を思い出したが、それほどの地位の人物がわざわざ来たのだからそれなりの目的があるはずだと気が付き、あっさりと引き下がったのはおかしいと理由を考え始めた。
一方、名乗った猶門は真愛に丁寧に初対面の挨拶をすると、「以後、お見知りおきください」と言って左手を差し出した。その意味が分からずに真愛が戸惑うと、猶門は笑って言った。
「これは海の向こうの大陸にある大恵寧帝国の挨拶ですよ。握手と言いまして、互いの手を握るのです」
と胸の前で自分の両手を握り合わせてみせる。
「私は恵国の文化に興味がありましてね。よく握手をするのです」
「なるほど、握手ですか。聞いたことがあります」
真愛は納得して自分も左腕を伸ばした。大封主家の筆頭家老とはいえ家臣身分の猶門が封主家世子と対等に握手とは不遜だ。そう思った煕幸は、次の瞬間相手のねらいを悟った。
「握手? まずい! 応じちゃだめだ!」
猶門はにやりとすると腕をさっと伸ばして少女の手を奪うように握り、ぐいと引き寄せた。よろめいた真愛がなんとか踏みとどまって体を起こすと、その間に右手を自分の懐に差し込んだ猶門は湿った布のようなものを取り出し、真愛の袖をぐっとたくし上げて左腕を強くこすった。
「痛い! 何をするのですか!」
思わず叫んだ真愛は腕を取り戻そうとしたが、猶門はぎゅっと握って離さず、腕を見つめて大声を上げた。
「おお、本当にあったとは!」
驚きに満ちた声にはっとした真愛が腕を見ると、白粉がはがれて赤くなった肌に鴉のあざがはっきりと見えていた。
「これは紛れもなく高桐家のあざ。真愛様、あなたは苔岩公の孫娘、狼神の巫女姫ですな!」
猶門は勝ち誇ったように言った。
「ち、違います!」
真愛は右手であざを隠そうとしたが、その腕を猶門はつかまえて怒鳴り付けた。
「往生際が悪いですぞ! いまさら言い訳できると思うのですか!」
真愛は蒼白になって相手の顔を見上げたまま動けなくなった。
「では、真棟公、もう一度お返事をうかがいましょうか」
突き飛ばすように真愛の腕を放した猶門は言った。
「桃園家には、ぜひ二龍逢城攻略に兵を出していただきたい。もちろん、お断りになればあざの噂は吼狼国中に広まるでしょうな。そうなれば、龍営が討伐に動くことは確実、もしかしたら我が灰積家や首の国の諸侯に命令が下るかも知れませぬ。その場合、桃園家は滅ぶことになるでしょう。ですが、当家はそれほど無慈悲ではありませぬ。当家の戦に積極的に協力していただけるのでしたら、この件は龍営には黙っておきましょう」
「くっ……!」
真棟はもし視線で人が殺せるのならそれはこういう目つきだろうというような憎しみに満ちた形相で相手をにらんだが、すぐに目を伏せ、諦めと無力感と悔しさのまじり合った声で言った。
「分かった。出兵する。城攻めを手伝おう。以後の戦にも参陣する」
「素直でよろしいですな。では、桃園家九千三百人のうち、九千の兵を率いて明日から四日以内に二龍逢城へ来ていただきたい。城へ突入する先陣をお任せいたしましょう。今後、あなた方には当家の全ての戦に出ていただき、常に先陣の栄誉をお与えします。もし三日たっても出陣の知らせがない場合は、そのあざの存在を公表いたしますぞ」
「最も犠牲が多く出る役目を俺たちに押し付ける気か!」
貴政が叫び、立ち上がって刀を抜いた。
「大殿様、こいつを殺してしまいましょう。使者が着かなかったことにすればよいのです。別室で待っている伴の者たちも殺せば証拠は残らないでしょう!」
「それは無理だよ」
座ったまま煕幸は首を振った。
「なぜだ! 真愛様のあざを見たのはこいつだけだ。こいつの口さえ封じれば証拠はない!」
「灰積家もそれは分かっているよ。あざのことは将邦や軍師の緑塚貞述も知っているはずだ。この人が戻らなければ殺されたってことだから、事実だったと悟るだろう。それに、あざを実際に見たかどうかはあまり重要じゃないんだ。突然現れた美貌の世子が実は女であざを隠していたという話はいかにもありそうだし、いったん世間に広まってしまえば訂正のしようがない。左腕を見せろと言われたらそれまでだ。将邦は龍営の命令という大義名分を得て、堂々と攻め込んでくると思うよ」
「この小僧の言う通り、私が死ねば二龍逢城を攻めている軍勢は見伏国へ向かってくることになっております。それでも殺すのですかな」
「畜生! どうしようもないのか!」
貴政は歯ぎしりしたが、刀を握った手を下ろした。
「では、二龍逢城でお待ちしておりますぞ」
使者はあざけるような高笑いを残して、評定の間を出て行った。
「真愛さん、大丈夫?」
煕幸は立ち上がって少女に近付いた。猶門が手を離す際に突き飛ばされて倒れ、木の床に両手を突いてうなだれていた真愛は、下を向いたままかすれた声でつぶやいた。
「私のせいでまた人が死ぬんですね」
少女の目には涙があふれていた。
「城攻めで、その先の戦で、これからたくさんの武者が傷付き倒れるでしょう。泉代家を滅ぼせば灰積家はますます勢い付き、諸国の民は一層苦しむことになります。山賊退治をしたり、灰積家の戦に協力したりして必死で生き残りを図ってきたおじい様たちの苦労も、全て無駄になりました。でも、もし逆らったら、この見伏国が戦場になります。そして、それは全て私のせいなのですね!」
「真愛さん……」
煕幸はかける言葉がなかった。少女の目から大粒のしずくが次々と床にこぼれ落ちていく。
「私は本当に死神の巫女です。私によくしてくれる人たちは、みんな私にかかわったせいで死んでしまいます。私は生きているだけで大勢を殺し、不幸に追いやるんです!」
「そんなことを言うものではない!」
真棟が叱った。
「多くの者がお前を守るために命をかけようとしておるのだ。それに感謝せよ。お前が弱気になってどうする」
「感謝したって死んだ人は生き返りません。私はその人たちに、またその人たちを愛する人たちに、恨まれ憎まれるんです。私は呪われています。このあざは天命を受けている印ではありません。私と私によくしてくれる人たちを不幸に落とす災厄の刻印なんです! こんなあざ、消してしまいたいのに!」
叫ぶと、少女は部屋を走って出て行った。貴政が呼び止めようとすると、襖の陰で聞いていたらしい小鈴が現れて首を振り、真棟に一礼して少女のあとを追っていった。
「真愛様のお気持ちはよく分かる。だが、それは違うんだ」
少女の方へ伸ばしかけた手を胸の前で悔しげに握って貴政がつぶやいた。
「悪いのは真愛様ではない。俺たちなんだ。真愛様に運命に負けてほしくない」
「そうだな。あれには酷なことだが、あの子を失うわけにはいかんのだ」
真棟がつぶやくと、家老たちが頷いた。永謙以外の二人はあざのことも少女だということも知らなかったらしく愕然としていたが、真棟の言葉に深く同意する表情だった。
「軍師殿」
真愛たちが消えていった廊下を強張った顔でじっと見つめていた煕幸に貴政が歩み寄った。
「君は真愛様に信頼されている。君が行って元気付けて差し上げてほしい。私ではだめだろうが、君の言葉なら届くかも知れない」
「いいえ」
煕幸は肩から力を抜き、首を振った。
「僕には他に行くところがある。僕の役目は真愛さんを慰めることじゃない」
煕幸が振り向いて決意に満ちた表情で答えると、貴政は驚いた顔をしたが、頬をややゆるめた。喜んでいるらしい。
「君がそう言ってくれるとはうれしいことだ」
「わしらにできることが何かあるか」
真棟が尋ねた。
「お金を少々頂きたいと思います」
「よかろう。好きなだけ渡そう」
真棟が頷くと、貴政が懐から財布を取り出した。
「私が立て替えておきましょう。泰綱の葬儀に見舞金を持って行ったら七穂殿に突き返されてしまいましてね。これで足りるか」
と小判を五枚見せると、煕幸はそれをつかんで言った。
「充分です。では、ちょっと出てきます」
煕幸は真棟にお辞儀して、足早に評議の間を立ち去った。真棟はその背を見送っていたが、振り返って家老たちに言った。
「さあ、我々も出陣の準備について話し合おう。猶予は三日しかないからな」
四人の家老は頷き、襖を閉めると再び真棟の前で向かい合って座り、動員可能な武者の数や兵糧の準備などについて検討を始めた。
その夜、評定の間から自室へ駆け戻ったあと散々泣いて泣いて泣き疲れてようやく泣き止んだ真愛は、小鈴が敷いてくれた布団の中で湿った枕に顔をうずめて、激しい感情を爆発させたあとの倦怠感にぐったりしていた。そこに、桃園家や親しい人々の苦しみの原因になりながら自分では何もできない罪悪感が加わって、気持ちは底の底まで沈んでいた。
「私はなんて無力なのかしら。そして、なんて迷惑な存在なのかしら」
口に出してつぶやいてみたらまた悲しみがぶり返してきて涙がにじんだ。もうこれ以上涙は出ないと思うほど泣いたのにまだ出てくることに驚いたが、同時に、いくら泣いても問題は解決せず、この悲しみややり切れなさは消えてくれないことも分かっていた。
「私には本当に何もできないのかしら」
私のために多くの人たちが命をかけようとしているのに、何もしないでただ守られているわけにはいかない。全ては私のせいなのだから。
そう思った真愛は、嘆くばかりでなく、自分がみんなにしてあげられることを探そうと考えて、一つだけ、それこそ自分にしかできないことがあることに気が付いた。桃園家が灰積家の言いなりにならざるを得ないのは真愛がいるからだ。ならば、自分がいなくなればよい。灰積家がいくら真愛のあざのことを言い立てても、本人という証拠がなければ意味がない。真棟や家臣たちは、真愛が巫女姫だったとは猶門が暴くまで知らなかったし、行方不明だからもはや当家とは関係がないと言い張ることができるだろう。
「そのためには私が死ぬのが一番だけど、それはできないわ」
五郎ちゃんが守ってくれたこの命を簡単には捨てられない。どうしようもなくなったら仕方がないけど、今は死ぬより逃げることを選ぶべきね。
桃園家とこの国の人々を救うために、他によい方法はないように思えたのだ。
五郎の死で、真愛は自分がいかに周囲の人々に大切にされていたかを悟り、感謝するようになった。この城でも人々の温かさと期待を日々感じ、常に感謝を返す気持ちを持って振る舞ってきた。だから、逃亡という裏切るようなまねをすることはつらかったが、彼等を守るために自分にできる最大のことをしようと思った。
みんなは私がいなくなったと知ったら悲しむかしら。それとも、ほっとするのかしら。
真愛はそれが気になった。
やさしかったおじい様におばあ様、鳶瀬家のおじいちゃん、貴兄様と俊政さん、七穂と八重さんと小鈴さん、永謙さん、みんなにもう会えなくなってしまう。
それに、煕幸さんとも。
真愛は自分と同じように刻印を持つあの少年にだけは打ち明けたいという誘惑にかられた。煕幸は旅慣れているから道連れになってくれれば頼りになるだろうし、捕吏の目からのがれる知恵と、生きていく方法も伝授してもらえそうだった。真愛は小さな農村で育った田舎者だが一応は上級武家の姫君であり、それなりに裕福で衣食に不自由のない暮らしをしてきたから、働いてお金を稼ぎながら逃亡を続けるような生活が自分にできるか不安だったのだ。
真愛は随分迷ったが、結局煕幸に告げることは断念した。
「やっぱりやめた方がいいわね。煕幸さんから貴兄様たちに伝わってしまうかも知れないもの」
ただでさえ懸賞金のかかっている煕幸を巻き込むわけにはいかないし、彼はやさしいので、目を血走らせた貴政や俊政や真棟に迫られたら真愛の逃げた経路を話してしまうかも知れない。それに、もし煕幸が捕まえるのに協力したら真愛は逃げ切れる自信がなかったので、反対された時のことを考えると、手がかりを与えるのは危険だった。
今夜のうちにできるだけ遠くまで行ってあとを追えなくするしかないと真愛は思った。厩から気分転換に乗りたいと言って馬を持ち出し、走れるところまで走ろう。馬が疲れたら売り払ってお金を手に入れて、その先は船に乗ろう。首の国は半島なので、周囲を海に囲まれているから漁村が多い。頼めば乗せてくれる人がいるはずだった。村から連れてきた愛馬と別れるのはつらいが仕方がなかった。
真愛は布団から起き上がると、小鈴が消していった行灯に火を入れ、押し入れや長持ちを開いて持っていく荷物をまとめ始めた。真っ先に取り出したのは女物の着物だ。城へ来る時に、万一必要な時のためにいくつか持ってきたのだ。町の門を抜けたところでこれに着替えれば、誰も領主の跡継ぎとは気付かないだろう。かんざしや飾り櫛といった小物も持っていたので、路銀の足しになるかもと、着物と一緒に包んだ。
荷物の準備ができると、真愛はこっそり部屋を抜け出して履物を取りに玄関へ行った。左右の袂に片方ずつ草履を入れて戻ってくると、途中で七穂に出会った。出陣の噂が城下に広まっているらしく、気になって八重と一緒に登城してきたそうだ。真愛の赤い目を見て心配するので、「夕食を食べなかったからお腹が減ってしまって」と誤魔化すと、厨房でおにぎりを作ってくれた。部屋まで付いてきそうで断るのに苦労したが、草履を持っていることには気付かれずにすんだようだった。
部屋に戻った真愛は、布団を畳み、部屋を可能な限り片付けると、紙に「探さないでください」と書いて文机の上に置いた。薙刀を持ち、その鞘と同じく金色の止まり木から鴉を呼んで肩に止まらせると、最後にもう一度室内を見回した。
この部屋に来てまだ三ヶ月だが、思い出は多かった。次々に頭に浮かんでくるそれらを振り払うように真愛はくるりと背を向けると、行灯を消し、庭に面した雨戸を開いた。
外は既に真っ暗だった。幸い空は晴れていて、無数の星が見えている。天の中心で桜座の六つの星が一際目立って輝いていた。真愛は草履を履き、音を立てないようにそっと雨戸を閉め、さあ出かけようと振り向いた瞬間、目の前に予想外の人物が立っているのを見て息を飲んだ。
「どこへ行くんだ」
煕幸は尋ねた。真愛が答えられずに黙っていると、煕幸は全てを分かっている顔で確認した。
「この城を逃げ出すつもりだったんだね」
行動を読まれていた、と真愛は思った。焦りと絶望の大波が同時に押し寄せてきたが、すぐに、この人は私の逃亡を予想していたのだから、私の気持ちも分かるはずだと考えた。
「お願いです。行かせてください。もう、こうするしかないんです」
真愛はささやき声で懇願した。大声を出すと他の人に気付かれる。だが、煕幸はそんなことにはかまわなかった。
「だめだ。行かせられない。いや、行かせたくない!」
煕幸は行く手をさえぎるように両腕を広げて大きな声で言った。
「それは逃げだ。君は現実と戦わず、自分を助けてくれる人たちを置いて逃げ出そうとしている。それは絶対にだめだよ!」
「でも、私はこの国にいない方がいいんです。それがみんなのためなんです!」
言い返すと、自分の言葉にひどく胸が痛み、再び涙が浮かんできた。
「このあざを持つ私は見伏国に不幸と死をもたらす存在です。私は生まれてこない方がよかったんです。大切な人たちをこれ以上困らせたくないんです!」
「だから逃げるのか」
煕幸は真愛の悲痛な声にも動揺しなかった。
「逃げてどこへ行くつもりなんだ。あてがあるのかい」
「ありません。ですけれど、もうここにはいられません。首の国からずっと離れたどこか遠くに行きます。誰も私を知らないところに行けば、もし私が捕まってもみんなに迷惑をかけずにすみますから」
涙は目からどんどんあふれ出し、頬を熱く濡らしてこぼれ落ちていった。
「これが私がみんなにしてあげられる一番のことなんです! 他によい方法はないではありませんか! 行かせてください!」
真愛の声は次第に大きくなった。静かにしないといけないことは分かっていたが、自分を抑え切れなかった。散々泣いて涙と共に流し去ったはずの悔しさ、悲しさ、虚しさが、胸を押し潰しそうなほどあふれかえってどうしようもなかった。
だが、真愛の必死の訴えを聞いた煕幸は、月明かりの中で大きく首を振った。
「それは違う。君にはもっと他にできることがあるよ」
「他にまだ方法が……? それはどんなことですか」
煕幸の言葉があまりにも分かり切った当たり前のことを言うような口調だったので、真愛がつい尋ねると、少年はあっさりと言った。
「簡単なことだよ。君が灰積将邦を倒せばいい」
真愛は耳を疑った。
「そんなこと、出来るはずがありません!」
思わず叫んだが、煕幸が動じないのを見てさらに驚いた。
「本気で言っているのですか」
「もちろん本気だ。君なら将邦を倒せる」
「どうやってですか! それができるのなら、おじい様や貴兄様たちはこれまでも今回も灰積家の言いなりになる必要はなかったのですよ! 私になんて、なおさら不可能です!」
言い返しながら、真愛は再び絶望しそうになった。煕幸の言う通り将邦を倒せれば一番よいに決まっているが、困難だからこそ、悔しいけれど真愛が逃げるしかなかったのだ。泉代家から援軍要請の使者として扶成の孫の鎮成が来た時は、真愛も手を付いて頭を下げる祖父にならって、世子になって以来随分と世話になったはとこに謝ったのだ。
「確かに君の力だけでは無理だ」
煕幸は真愛の言葉を肯定したが、すぐにこう続けた。
「でも、君には仲間がいる」
「桃園家の力は到底灰積家には及びません! だから、おじい様たちは猶門の脅しに屈したのではありませんか!」
真愛はとうとう腹を立てたが、煕幸は微笑みを浮かべて言った。
「君は狼神の巫女姫だろう。真澄大社の天書の内容を覚えていないのか」
「もちろん知っています。吼狼国の民で知らない人はいないでしょう」
「ならば分かるはずだ。巫女姫は一人で基銀を倒すと書いてあったかい」
「それは違います。桜の大軍師様の助けを得て……」
そこまで言って、真愛は気が付いた。
「もしかして、あなたが力を貸してくれるというのですか」
それには答えず、煕幸は歩み寄ってきた。
「これを見てくれ」
煕幸は襟を開いて胸元を見せた。真愛はいきなり男性に肌を見せられてこんな時だというのに赤面したが、恐る恐る相手の胸を見て、大きく目を見開いた。
「これは、刺青……?」
三日前に見た時は胸の中央に六つのほくろがあるだけだったが、今はその一つ一つの星が濃い桃色の線で囲まれていた。中央の大きな星を小さな円が包み、その周囲の五つの星を取り巻く大きな楕円は天辺がへっこんでいて、根本の方から先端が円く膨らんだ細いおしべが三本ずつ、花びらの内側へ伸びている。よく見ると、五つの楕円と中央の円は、淡い月明かりの下でも、ほのかな紅色に染められていることが分かった。
「もしかして、逆沢鉄庵先生ですか」
真愛は胸に開いた桜の花を見つめながら尋ねた。
「うん。さっき思い付いて彫ってもらった。急な依頼だったけど、君のためだと言ったらすぐにやってくれたよ。施術料もただでいいって。真棟様にもらったお金を渡そうとしたけど受け取ってくれなかった。君と僕の門出への御祝儀だそうだ」
「君と僕……」
煕幸は大きく頷くと、右手を挙げ、左手を胸の花に当てて言った。
「僕こと桜満煕幸は、桜の大軍師として、狼神の巫女姫桃園真愛を全力で助けることを、この胸の桜の紋章に誓う」
煕幸の声は静かだったが、それが逆に決意の固さを感じさせた。
「胸の刺青は覚悟を忘れないために入れた。もうこの誓いは僕の体に刻まれてしまったから取り消せない」
「私の、ために……?」
真愛は口を両手で押さえて声を震わせた。その手がたちまち新たな涙で濡れていく。
「もちろん、それもある。でも、君だけのためじゃない。これは僕のためでもあるんだ」
煕幸の声はやさしさにあふれていた。
「君はそのあざが呪いだって言ったよね。その気持ちはよく分かる。僕も最近まで自分のほくろをそう思っていた。母さんに無理矢理付けられた偽物で、多くの人をだまし、僕自身や周囲の人々を不幸にするものだってね」
煕幸は自分の胸を見下ろした。
「でも、僕が姉さんや父さんと出会えたのはこれのおかげだ。君と巡り会えたのも」
真愛は目を見張った。
「山賊退治の時、出会ったばかりの僕を君が信じてくれたのは、君にそのあざがあったからだ。そして、僕もこのほくろがあるから君を信じられる。もし天の定めた運命があるのだとすれば、君と僕が出会ったことこそそれだと思う」
少年の表情はおだやかで、本当にもう迷いはないのだと真愛は感じた。
「それに、僕は泰綱さんに約束した。君を助けるって。君も約束しただろう」
真愛ははっとして頷き、泰綱に申し訳ないと恥じ入った。情けないことに、自分の罪の重さを嘆くばかりで、彼が最後に言い残した言葉を今の今まで忘れていたのだ。真愛は思い出したその言葉を、深い思いを込めて大切に口にした。
「決して歩むことをやめるな、と言われました」
「そう、それだよ。その通りだと僕も思う」
煕幸は満天の星を見上げて遠い目をした。つられて夜空を仰ぐと、桜座の六つの星が二人の頭上に輝いていた。
「少し前まで、僕は自分のせいで父さんを殺され姉さんがさらわれたことで自暴自棄になっていた。復讐と救出を誓いながらも、心の底ではできっこないと思い、絶望や苦しい思いを言い訳にして吼狼国の厳しい現実から目を背け、ただ逃げ回るばかりだった。でも、君に出会い、僕を刻印があるからではなく行動から信じてくれた君の期待に応えたくて必死で頭を絞り、一緒に山賊退治をし、とうとうやり切った時に、僕は気が付いた。運命なんてなかったんだ。ほくろはきっかけにすぎなくて、全ての出来事は僕自身の行動の結果だったんだよ。父さんや姉さんはたった六つのほくろだけで相手を決め付けるほど愚かな人たちではなかった。僕自身を見て期待し可愛がってくれたんだ。同じように僕に降りかかる不幸も結局は自分の責任で、ほくろや他の誰かのせいにしても解決せず、それに対処することができるのも僕だけなんだと分かった時、その能力が自分にあることに気が付いた」
煕幸は自分の頭を指で示した。
「僕にはこの頭脳がある。といっても、他人より特別にすぐれているわけじゃない。正直、山賊退治の時はあまり自信がなかったし、実を言えば今もさほどあるわけではないけれど、少しは手ごたえがあって結果的にはうまく行って、それで分かった。頭というのは必死で絞ればそれなりの答えが出てくるものなんだ。僕は今まで本気で考えたことがなかったんだよ。覚悟が足りなかったんだと思う。だから、これからは常に真剣に考える。軍師は多くの武者の命を左右する立場なんだから当然のことだけどね」
煕幸は決意を籠めて言うと、真顔で続けた。
「一方、君には魅力がある。君は可愛いんだ」
「魅力? 可愛い?」
真愛は頬が急に熱くなるのを感じた。
「そうだ。君はまわりの人々に好かれている。周囲を明るくし、みんなが君のために頑張ろうという気持ちになる。それが君の武器なんだ」
そういう意味なのね……、と真愛はほっとしたような、でもかなり残念なような気持ちだった。
「泰綱さんや五郎左衛門さんがよい例だ。泰綱さんは桃園家の武者の代表、五郎左衛門さんは君が治めいつくしむべき民の代表だ。その二人が命を投げ出して守ってくれたのは、あざがあるからではなく、君自身を信じ、大切に思っていたからだよね。二人の命の重さは、君への期待の重さなんだ。だから、二人に感謝し、その死を無駄にしたくないなら、その期待に応えるべきだ。もう取り返しがつかないことを嘆いてつぶれてしまってどうする。泰綱さんが刻印は本物だと言い残したのは、君に現実から目を逸らすな、自分自身を信じろと言いたかったんだと思う。君は二人の死を魂の糧にしなくてはいけない。戦っていく君を、その思いがよく分かる僕が全力で助けるから」
煕幸は友情と信頼を感じさせる声で言った。
「君はきっといい大将になると思う。僕が軍師として助けるに足るね」
「本気で言っているんですか。こんな私の可能性を信じるというのですか」
煕幸は頷いた。
「僕自身の可能性もね。僕には君が、君には僕がいる。狼神の巫女姫と桜の大軍師は二人で一組なんだ。僕たちが力を合わせれば、天下に平和を足り戻すことも、きっとできるよ」
煕幸は少し照れくさそうだったが声は確信に満ちていた。
「それに、僕たちは二人切りじゃないよ。貴政さんや七穂さんや永謙さんたちという仲間がいる。真棟公もそうだ。そういう人たちと力を合わせれば、きっと将邦にだって勝てる」
煕幸は真愛に向かって右手を真っ直ぐに伸ばした。
「僕は姉さんを取り戻す。そのために、僕は君を助けて戦うと決めた。君がこの国の人々を救いたいと望むのなら、それに力を貸そう。だから、君も僕に協力してほしい。そして、二人で高桐基銀を倒そう!」
真愛は微笑む少年を見つめて息を飲んだ。これほどの信頼を向けられて、どうして感動せずにいられよう。この人は信じられる、その手を取れと体中が訴えている。それはまさに運命のささやきだった。真愛は今すぐ「はい!」と答えて少年に抱き付きたいという衝動にかられた。肩の上で全てを分かった顔の白い鴉が、主人を促すように、かあ、と鳴いた。
だが、真愛はためらった。それが大勢の人々にかかわる決断だったからだ。桃園家の九千三百人を巻き込むことが許されるのだろうか。そもそも彼等を説得して立ち上がらせることが自分にできるのだろうか。その迷いが体を固めてしまう。
真愛が伸ばされた手を前に動けないでいると、突然、背後から興奮した大声が響いた。
「よく言った!」
同時に、がたん、と音がして今閉じたばかりの雨戸が開き、貴政が飛び出してきた。
「貴兄様!」
真愛が慌てて後ろを見ると、俊政、七穂と八重と小鈴、さらには真棟と永謙と他の二人の家老までいた。
「みんな……、全部聞いていたんですか!」
真愛は真っ赤になったが、貴政は足が汚れるのを無視して庭に降りると、少女に歩み寄って、その足元に片膝を突いた。
「真愛様、いえ、真愛様。我々に出陣のご命令をお下しください」
動揺している真愛の顔をじっと見上げて、貴政は真剣な、胸に染み入るような口調で言った。
「あなたは死神の巫女などではありません。俺たちの、この吼狼国の民の希望なんです。灰積家の勢いはとどまるところを知らず、鷲松家にすら止めることができませんでした。我等には将邦の家臣となるか、滅びるかの二つしか道が残されていないように思われました。そんな時、真愛様がこの城に戻ってこられました。大殿様に刻印の存在をお話すると、真愛様のお人柄をお確かめになった大殿様は、あなたをなんとしても守ろうと決意なさいました。灰積家を倒すには、もはや真愛様の刻印の下に諸侯を糾合し、当家の皆の心を一つにして決戦を挑むしかないからです。真棟様と泰綱と俺はそのわずかな可能性を信じると決め、この三ヶ月屈辱に耐えて灰積家の戦に出兵し、山賊の討伐をするなど上辺では命令に従いながら、いずれは巫女姫様を旗印に挙兵しようと密かに準備しておりました」
貴政の目は涙に潤んでいた。
「そこへ、桜の大軍師様が降臨されました。その実力は先日ご覧になった通りです。その軍師様が今は戦うべきだとおっしゃいました。これで立ち上がらずにいられましょうか。我々はこの時を待っていたのです。若く美しい真愛様が、武勇とお人柄でたちまち家臣たちの支持を得てしまわれた時、俺はこの方に命を捧げようと決めました。泰綱も真愛様を信じ、お助けして戦いたいと心から望んでいました。だからこそ、あなたを守れと私に言い残したのです」
貴政は少女に深々と頭を下げた。
「あなたの刻印は本物です。いえ、本物にしなくてはなりません。時は満ちました。我等の覚悟は決まっております。今度は私が命をかけてあなたをお守りし、必ずや勝利をもぎとって参りましょう!」
七穂も膝を突き、泣きながら言った。
「私は兄様に真愛様のお世話を頼まれました。だから、どこまでも付いていきます! 私も戦場に連れて行ってください!」
俊政も涙をぼろぼろこぼしていた。
「俺も、五郎左衛門さんや泰綱さんに負けないくらい真愛姉様が大好きです。全力で戦い、必ずお守りします!」
「わしらも同じ気持ちです」
永謙が言い、二人の家老が大きく頷いて頬をぬぐった。
「もちろん、わしにも異存はないぞ。先程までその相談を家老たちとしていたのだ」
真棟まで涙ぐんでいた。
煕幸は真愛に手を伸ばしたまま一歩近付いた。
「守ってもらうばかりなのはつらいことだ。それを僕はよく知っている。そして、君もまわりの人たちを守りたいのなら、自分から動くしかないんだ。さあ、僕と、みんなと一緒に戦いを始めよう」
真愛が一人一人の顔を順番に見渡すと、全員が頷き返した。真愛は遂に覚悟を決め、またあふれ始めた涙に震える声で、思い切り大きく返事をした。
「はいっ! 私も戦います! もう嘆くばかり、守られるばかりはお終いにします! あなたは私に大軍師様の実力を見せてくださいました。だから、今度は私が巫女姫として、このあざが本物だと証明します。精一杯頑張りますので、よろしくお願いします!」
深々と頭を下げながら真愛は思った。この人に付いて行こう。この人たちと共に歩んでいこう。私はこの人たちと自分自身を信じたい。だから、逃げるのはやめて、前に向かって歩み出そう。
息を飲んで答えを待っていた仲間たちが歓声を上げた。もうみんな涙で顔がぐちょぐちょだが、とてもうれしそうだった。肩の上の鴉も喜びを表すように、かあ、と鳴いた。ただ一人煕幸だけは泣いていなかったが、やはり感動したのかぼんやりした顔をしていた。その表情を見つめながら、この人は本当に私の運命の相方なのかも知れないと、真愛は感じていた。
そうだったらうれしい。この人とこれからずっと一緒にいられるんだわ。
真愛は煕幸がまだ伸ばしたままの手を取ろうと両腕を伸ばしたが、自分の気持ちを自覚して急に恥ずかしくなり、指先が触れる直前で手を止めて、先程とは違う意味でためらっていると、煕幸がゆらりと揺れて倒れかかってきた。
「えっ? えっ! えええっ!」
突然抱き付かれて真愛はびっくりした。もしかしてこの人も私を、と考えるとうれしかったが、まだ好ましく思い始めたばかりで、抱き合うのはいくらなんでも気が早すぎる。慌てて離れようとしたが、煕幸はどんどんのしかかってくる。間近に迫る少年のやや幼く見える整った顔にどきどきしながら、押し返そうと相手の胸に手をかけた時、真愛は煕幸の呼吸が随分と早く熱いことに気が付いた。そういえば、両肩に乗せてきた腕には力が感じられないし、顔も赤い気がする。
「もしかして、熱が?」
煕幸は小さく頷いた。
「施術後は発熱することがあると鉄庵さんが言っていた。一晩眠れば収まるらしい。でも、夕食を食べてないし、施術台の上でずっと将邦を倒す作戦を考えていたから、もう疲れて立っていられない」
「ちょ、ちょっと、しっかりしてください」
少年の全身の体重を預けられて、真愛はさすがによろめいた。
「軍師殿、作戦を思い付かれたのか!」
立ち上がった貴政が、期待で声を上ずらせた。
「大丈夫、きっと勝てる。君ならできると思う。君にしかできない作戦なんだ……」
そうつぶやくと、煕幸は完全に気を失った。
「私のために、必死で作戦を考えてくれたんですね。ありがとう……」
真愛は少年の体がずり落ちないように支えながら、片方の手を少年の胸の印に当てた。目をつぶると、伝わってくる心臓の鼓動が愛おしく、不思議な喜びが胸にあふれてくる。
「真愛様、そろそろよろしいですか。軍師殿を部屋へ運びたいのですが」
貴政に遠慮がちに言われて真愛ははっとし、慌てて少年から離れて真っ赤になった。