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第二章 過去 下

 五郎ちゃんの家は鳶瀬のおじいちゃんの屋敷の隣にありました。領主であるおじいちゃんと村長は付き合いが深かったので、年の近い私たちは一緒に育ったようなもので、幼い頃から仲が良く、まわりからは姉弟(きょうだい)のように思われていました。互いに遠慮のない、言いたいことが言える関係だったと思います。

 輝翼丸をくれたのも五郎ちゃんです。四年前、ふとした拍子に、私は都で拾われた子で血のつながった両親や兄弟がいない、貴兄様はやさしいけど滅多に会えないし、お姉さんが二人いる五郎ちゃんがうらやましい、ともらしたら、数日後、山の中で見付けたからお前にやる、と言ってまだ飛べない幼鳥だった輝翼丸を連れてきました。本当は珍しいので自分で飼いたかったようですが、私に譲ってくれたのです。五郎ちゃんは輝翼丸をとても可愛がっていましたし、輝翼丸もよく懐いていて、いつも私たちと行動を共にしていました。村の猟師さんに鴉の食べ物が木の実だと聞いたので、よく二人と一羽で一緒に山へ取りにいったものです。


 そんな平和な日々が突然終わったのは、半年前、夏の猛烈な暑さがようやく収まり、秋の訪れを感じられるようになった頃のことでした。

 その日、お転婆な私は家で薙刀の稽古をしたあと冷たい水に入りたくなり、五郎ちゃんを誘って村のはずれの小川へ涼みに行きました。二人で散々川の浅瀬を走り回って遊び、疲れて河原の草に寝ころびました。

 やがて起き上がった私は水際に行き、帯をゆるめて肩を出し、濡らした手拭いで体を拭き始めました。と、背後で輝翼丸の鳴き声が聞こえ、しいっ、とひそめた声が注意しているので何だろうと振り向くと、五郎ちゃんとまともに目が合い、すぐに相手が慌てた様子で横を向いたので、ずっと見られていたことに気が付きました。私はびっくりして急いで肌を隠しましたが、五郎ちゃんに不思議な優越感を感じて、ついからかってやりたくなりました。


「目つきがいやらしいわよ。この助平(すけべ)


 私がにやりとして言うと、五郎ちゃんは赤い顔で、ふん、と腕を組んで言い返しました。


「そっちこそ年頃の娘なんだから、もっと警戒心を持てよな!」

「警戒心? 誰に? 五郎ちゃんに?」


 私が笑うと、五郎ちゃんはむっとした顔をしました。


「そういう態度、むかつくな。お前、俺を男と思ってないだろ。弟みたいに考えてるよな」

「そりゃあそうよ。村のみんなも私たちはそういう関係だと思っているんじゃない?」


 私が当然のように答えると、五郎ちゃんは深い深い溜め息を吐きました。


「これだから張り合いがないんだよなあ」

「張り合い? 何の?」


 私が聞き返すと、五郎ちゃんは少しためらってから、いきなりまじめな声で尋ねました。


「お前さ、将来はどうするんだ?」

「将来って?」


 話の流れをつかめない私に、五郎ちゃんはいらだったようにさらに問いました。


「いつまでこの村にいるつもりかと聞いてるんだ」

「私はここを出る気はないけど? おじいちゃんはどこかに嫁がせようと思っているだろうけど、まだ先だと思うわ」

「そうじゃなくてさ。お前、本当にそれでいいのか。結婚もいいけど、もっと重要な、するべきことがあるんじゃないのか」


 そう言って左腕を見たので、私は反射的に右手で腕を隠しながら問い返しました。


「このあざのこと?」

「そうだよ。お前には大切な使命があるじゃないか」

「このあざが偽物なのは知っているでしょう。おじいちゃんも、それは隠しておけって注意するだけで、滅多に話題にもしないわ。そもそも、芽鞘村でこれがあることを知っているのは村長の三衛門(さんえもん)さんと五郎ちゃんだけだし」


 あざが鴉の形になって以降、おじいちゃんは人に見せてはいけないと厳しく言うようになったので、いつも白粉(おしろい)を塗って隠していましたが、一緒に泥んこになって遊んだ五郎ちゃんだけは存在を知っていたのです。


「俺はそのあざ、本物だと思うけどな。高桐基銀をこのまま放っておいていいのか。お前なら倒せるかも知れないんだぞ」


 いつになく真剣な口調を(いぶか)しく思いながら、私は首を振りました。


「そんなの私には無理よ。印は偽物なのよ」

「あんなに薙刀がうまくて強いじゃないか」

「総狼将家に戦を挑むなんて非現実的だわ。そりゃあ、私の家は武家だけど、家老にすぎないのよ。仮に私が戦おうと思っても、桃園家は灰積家に従っているから反対されるわ。それどころか、最悪の場合殺されるか、都へ連れて行かれて磔にされてしまうかも知れないんだもの、とても言い出せないわ。それに、私はそんなことには興味がないの。育ったこの村が好きだから、ずっとここにいるわ」

「それじゃあ、吼狼国の民はどうなるんだよ!」


 五郎ちゃんはいきなり叫びました。


「お前はそれでよくても、苦しんでいる国中の人々は救われないままだぞ! 心は痛まないのかよ!」

「よくはないけど……っていうか、急にどうしたの?」


 さすがに驚いて尋ねると、五郎ちゃんは草に寝っ転がって空を見上げながら、いつも帯に差している愛用の脇差に手をかけて言いました。


「俺、武家になりたいんだ」


 遠いまなざしから、それが五郎ちゃんがずっと温めていた夢だということが分かりました。


「師匠に剣術を習ううちに、そう思うようになった」


 五郎ちゃんは私と一緒に鳶瀬のおじいちゃんに手ほどきを受けていました。


「俺はお前が好きだ。だから、お前が基銀を倒す戦いを始めたら、武家になってそばに仕えて手伝いたい」

「す、好きって、いきなり何を! ……じょ、冗談だよね?」


 口ではそう言いましたが、私は五郎ちゃんは本気だと悟っていました。そして「そうだったんだ!」という驚きと、「なるほど……」と納得する気持ち、「自分にもこんな芝居のような出来事が起こるなんて!」という興奮と、もっと情熱的な言葉や行動への恐れと期待、さらに、「でも、私は五郎ちゃんをそうした対象として見られないだろう」という確信めいた予測と罪悪感があり、それらがまじり合って、自分でも顔に出たことがはっきり分かるくらい動揺してしまいました。


「やっぱりそういう反応なんだな」


 どんな顔をしたらよいか困っている私を見て、五郎ちゃんはがっかりした表情になりました。分かってはいたけれど、目にするとやはり悲しい、と顔に書いてありました。


「まあ、身分が違うから、結婚は諦めてたけど……」

「け、結婚?」


 相手の口から飛び出した言葉で、小さな農村ののんびりした暮らしに満足していてこの時まで全く現実感のなかった問題が実は決して遠いものではなかったこと、自分がそういう年齢なのだということを、私は初めて切迫感を持って自覚しました。

 五郎ちゃんはまた、はあ、と溜め息を吐きました。


「お前、本当に全くその気がなかったんだな。俺は一番身近な男で、この村で最もそうなる可能性がありそうな相手だってのにさ。ははは、やっぱり俺の片想いだったか」


 五郎ちゃんはわざとばかな自分を笑い飛ばすような言い方をしましたが、言葉の底に深い悲しみが沈んでいるのを感じて、私はひどく申し訳ない気分になりました。五郎ちゃんはそれを察したようでしたが、元気な口調を変えませんでした。


「でもさ、武家になるのは諦めないぜ。俺は武者頭(むしゃがしら)になってお前を補佐するんだ。名前も考えた。山鳩(やまばと)守勇(もりとし)っていうんだ」


 五郎ちゃんは同情を求めていないと分かったので、私も調子を合わせることにしました。


「も、もりとしって何よ。あなたには五郎左衛門という立派な名前があるじゃない。ご先祖様が何かの戦で手柄を立てて当時の領主にほめられて村長に任じられて、それから代々名前に衛門を付けるようになったんでしょう。由緒ある名前を捨てるつもりなの?」

「捨てはしないよ。それも俺の名前だからな。でも、ちょっと田舎臭くて嫌なんだ。それに、新しい名前にはちゃんと意味があるんだぜ」

「どんな意味よ」

「お前を命をかけて守るという誓いだ」

「えっ……?」


 まるで書物で読んだ昔物語の中の伝説の勇士のようなことを言うので、私はおかしいのが半分、でも、どきりとしたのも半分でした。


「俺はお前を守りたい。お前と吼狼国の民を守って戦う勇気を俺は持ちたいんだ。だから、守ると勇気で守勇にした」

「五郎ちゃんが私を守る……」


 子供だとばかり考えていた相手から思いがけない言葉を聞いて、私は不覚にも感動してしまいました。そこには多分、男の子とはこういうものなのだという新鮮な驚きと、それに今まで気付かなかった鈍感な自分への後ろめたさと同時に、彼の純粋で熱い思いの対象が自分だったことへの否定できない喜びもまじっていたと思います。

 私は絶句しましたが、五郎ちゃんがそんな私の顔をじっと見ていることに気が付くと急に恥ずかしくなって、慌てて誤魔化そうとしました。


「い、いつの間に、いっぱしの男性のような口を利くようになったのね」

「ふん、俺はもう十四だぞ。これくらい当たり前だ」


 私の上ずった声に引きずられたように、五郎ちゃんも顔を真っ赤にしていかにも照れくさそうに言いました。


「まあ、武家になるのは、まだまだ先の話だろうけどな。天命を受けた本人がこれじゃあ、当分挙兵は無理そうだし」


 と呆れたような目を向けてきたので、私もわざとお姉さんぶった態度で応じました。


「だから、天命は受けてないってば。それに、そっちこそ、あの剣の腕で武者頭になれると思っているの。私にすら勝てないようじゃ、補佐役が主君に守られることになるわよ」

「うっ……、畜生、悔しいがそれを言われると言い返せないぜ」

「ふふふ、万が一戦うことになった時のために今から精進なさい」

「俺は本気だぞ」

「そうそう、本気なのよね。私が今度みっちり剣の稽古をつけてあげるわ」

「……ったく、本当に張り合いがないな」


 五郎ちゃんは火照った頬を冷ますように深い息を吐いて首をぶるぶると振ると、勢いよく体を起こして立ち上がりました。


「そろそろ帰ろうぜ」

「そうね。もう充分涼んだわ」


 随分と長く話し込んでいたらしく、いつの間にか遠くの空が赤くなっていました。私は帯を締め直すと、五郎ちゃんと一緒に村の方へ戻ってきました。

 鳶瀬家と村長の屋敷は村の裏の山の真下にあるので、川からは村の反対側になります。村に入った私たちは、川から引かれた細い水路に沿って歩いていきました。

 と、五郎ちゃんが急に足を止めました。


「おかしい。誰もいない」

「えっ?」


 頭の中で先程の会話を反芻(はんすう)していた私は、顔を上げて辺りを見回しました。すると、確かに、もう夕食時だというのにどの家からも煮炊きの煙が上がっていません。家の庭先や通りで遊ぶ子供の姿も全く見えませんでした。


「どうしたのかしら」

「とにかく家へ急ごう」


 いやな予感に足を早めた私たちは、村の中央の広場まで来て立ちすくみました。そこに二十人ほどの鎧武者がいたのです。


「この人たちは何?」


 私が驚くと、五郎ちゃんが声を震わせて言いました。


「こいつら、灰積軍だ」

「えっ、まさか!」


 慌てて武者たちの胸や背や旗指物に描かれた家紋を見ると、正面を向いた頭蓋骨を図案化したものでした。将邦が龍営の武将として諸国の封主家の討伐で多数の敵の武者を(ほふ)ったことを基銀にほめられて与えられた高名な家紋です。そして、灰積家の武者たちは、戦場となった土地での狼藉(ろうぜき)でも悪名が高かったのです。


片籠国(かたかごのくに)から来たんだ。灰積家は岩夏(いわなつ)家の領内を荒らして圧力をかけているから」

「でも、この村は桃園家領よ」

「ここは見伏国のはずれだろう? よく知らずに国境を越えてきたのかも知れない」


 ひそひそ声で話していると、弓を持った武者の一人が私たちに気が付いて言いました。


「おい、女がいるぜ」


 すると、二十人が一斉に振り向いて、じろりと私を見ました。その瞬間、私は彼等の悪意と情欲を全身で感じ、激しい悪寒に襲われました。逃げなければ、と思いましたが、体が動きませんでした。

 と、五郎ちゃんが私の腕をつかんで引っ張りました。


「逃げるぞ。走れ!」


 その怯えて差し迫った声で私は自分を取り戻し、頷くと身をひるがえして走り始めました。輝翼丸が肩から高く舞い上がって飛び始め、同時に、背後で「捕まえろ!」という叫び声がして、足音が追いかけてきました。

 振り返ると、四人が走って付いてきます。私は必死で逃げましたが、背後に迫る巨大な恐怖に震え上がって滅茶苦茶な走り方をしたので、いつもなら何でもない距離で息が上がって足が重くなってきました。先程川端で締め直した帯も呼吸を苦しくし、足を邪魔していました。普段は動きやすさ優先でやや着崩していたのに、五郎ちゃんを意識して必要以上にきつく締めていたのです。

 遂に、私は足をもつれさせ、激しく転んでしまいました。隣を走っていた五郎ちゃんが慌てて引き返してきて、私のそばに駆け寄ると手を伸ばしました。


「つかまれ! やつら、もうそこまで来てるぞ」


 私はその手を握って体を起こし、立ち上がろうとして足首の痛みに顔をしかめました。どうやら捻挫したようでした。私は後ろを振り返り、武者たちが近付いてくるのを見て絶望しました。


「もう走れない。先に行って」

「ばか、何言ってんだ。さっさと立て。あいつらは鎧を着てる。重くて速く走れないしすぐに疲れるはずだ。もう少しで逃げ切れるんだ」

「でも、足が……。私はここで舌をかみ切って死ぬから、五郎ちゃんは逃げて」

「本当にばかだな。舌を切っただけでは人はすぐには死なないんだ。やつらにおもちゃにされる間は生きていることになるんだぞ」

「じゃあ、どうすればいいの」

「俺が負ぶってやる」

「無理よ。そんな体力残ってないくせに。息が苦しそうじゃない。私を置いて逃げて」

「そんなことできるか」


 五郎ちゃんは無理に私の腕を引いて立たせ、歩かせようとしましたが、私はすぐに転びそうになり、慌てて支えてもらう始末でした。歩けないことはないものの、走るのは到底無理で、肩を貸してもらって少しずつ進むのがやっとでした。


「女、観念しろ。もう逃げられんぞ!」


 武者たちの薄笑いのまじった下卑た声がもうすぐそこまで来ていました。


「やっぱり置いて逃げて」

「それは絶対にいやだ」

「どうしてよ!」

「俺はお前を守りたいって言ったろう!」

「その気持ちはうれしいけど、今は逃げてよ!」

「だめだ!」


 言い合いをしながら子供の歩みよりも遅い速度で一歩ずつ足を引きずって進んでいると、遠くから私たちの名を叫ぶ声が聞こえてきました。


「二人とも、無事か!」


 駆け付けてきたのは馬にまたがったおじいちゃんでした。空を光りながら飛ぶ輝翼丸を見付けて私たちの居場所を知ったようでした。


「こんなところにおったか。すぐに馬に乗れ!」


 おじいちゃんは一目で私の状態を悟り、馬上で眉をひそめました。


「じゃが、二人は乗せられぬ。この馬はそれほど強くないのじゃ」


 それは鳶瀬家の屋敷の馬ではなく、村人の誰かが飼っている農耕馬でした。私たちがいないことに気が付いて、近くの家から馬を借りて探しに来てくれたのです。


「分かりました。お預けします。俺は走って逃げます」


 五郎ちゃんはすぐに頷き、おじいちゃんと協力して私を馬上に押し上げました。


「さあ、戻るぞ」


 そう言って、おじいちゃんが馬首を返そうとすると、ひゅん、と音がして矢が馬の前を通り過ぎました。続いてもう一本、今度はおじいちゃんの後ろに乗った私の背中すれすれを飛んでいきました。


「逃がすな。馬を射ろ! 女には当てるなよ!」


 四人のうち一人の武者たちが立ち止まり、弓を構えていました。他の三人は抜刀して走ってきます。


「急ごう」


 おじいちゃんは馬を駆け出させようとしましたが、矢に驚いた馬はなかなか進みません。その間に一人の敵兵が前に回り込みました。他の二人は五郎ちゃんやおじいちゃんに刀を向けながら横から私の足を引っ張ろうとするので、私は痛む足を必死で動かして手をよけました。


「しまった。囲まれたか」


 おじいちゃんは右手で刀、左手で手綱を握って馬をなだめながら武者たちを見回しましたが、抜けられる隙間はありませんでした。すると、五郎ちゃんが「任せろ!」と叫んで腰の脇差しを抜き、目の前の武者に斬りかかりました。


「五郎ちゃん、無茶よ!」

「俺だって師匠に剣術を習ってるんだ!」


 私は悲鳴を上げましたが、五郎ちゃんは大声で叫びながら無茶苦茶に斬り付けて、勢いで相手を下がらせて道を空けました。


「今だ!」

「五郎、よくやった!」


 おじいちゃんは急いで馬を走らせようとしました。

 が、その時、厚い布が切り裂かれる不愉快な音がして、「がはっ!」と五郎ちゃんがうめきました。仲間の武者の苦戦に加勢に向かった一人が背後から刀を振るったのです。

 がくりと膝を突いた五郎ちゃんは、第二撃はかろうじて転がってよけましたが、急いで立ち上がろうとしてふらつきました。背中の傷から血がどんどんあふれてきます。五郎ちゃんは荒い呼吸を繰り返しながら重そうに刀を構え直し、再び前方の武者に勢いよく斬りかかって叫びました。


「師匠、行ってください! 俺がやつらを引き付けます!」

「五郎ちゃん、無茶よ! 逃げて!」


 私は叫びましたが、五郎ちゃんは首を振りました。


「早く! あまりもちません!」

「しかし……」


 おじいちゃんはためらいました。すると、五郎ちゃんは私の顔を目に刻むようにじっと見つめてさらに言いました。


「彼女を頼みます! 俺はその人を守りたいんです! 大好きなんです!」


 おじいちゃんは目を見張りました。


「ちいっ、うるさい小僧だ。さっさと黙らせろ!」


 包囲の輪を縮めようとした武者たちを、何度も切られながら短刀をぶんぶん振り回して押し返すと、五郎ちゃんは二人の武者と馬の間に立ちふさがりました。おじいちゃんは五郎ちゃんの背の傷を見て苦しげに顔を歪ませましたが、前に回ろうとした三人目の武者に刀を振るって下がらせ、馬の腹を蹴りました。


「五郎、すまぬ!」

「おじいちゃん、まさか置いていくの?」


 私は驚いて馬を止めさせようとしました。ですが、おじいちゃんは一層馬を(あお)りました。


「どうか生きていてくれ! そなたのことは忘れぬぞ!」


 おじいちゃんは不可能と悟った口調で叫び、姿勢を低くしてさらに加速しました。


「待って、おじいちゃん、五郎ちゃんを助けて! 一緒に馬に乗せて!」


 私は叫びましたが、おじいちゃんは首を振りました。背後で絶叫が聞こえました。


「お前は生きろ! 吼狼国を頼む!」

「五郎ちゃん!」


 必死でおじいちゃんの背中にしがみついたまま振り返る私の目に、怒り狂った灰積家の武者たちに囲まれた五郎ちゃんの姿が見えました。

 そのまま私は裏の山の洞穴(ほらあな)まで連れて行かれ、そこに隠れていた村人たちに合流しました。馬に駆け寄ってきた村長に私が事情を話し、今すぐ助けにいってほしいと訴えると、おじさんは愕然とした顔をしましたが、悔しげに首を振り、うなだれました。おじいちゃんは「すまぬ」とだけ言って私を馬から下ろし、まだ救出を訴える私のみぞおちに一撃を加えました。

「本当にすまぬ。ご子息を助けられなかった。じゃが、この村にやって来た武者は百以上、到底追い払える数ではない。うっかり手を出せばこちらが皆殺しにされかねん。一人のために大勢を危険にさらすわけにはいかんのじゃ。せめて当家の武者が村におればこんなことにはならなかったものを」

 薄れていく意識の中、村長に深く(こうべ)を垂れるおじいちゃんの姿が見えました。



「翌日、様子を見に行った人がもう武者はいないというので村へ戻ってみると、辺りはひどい荒らされようでした。家畜のにわとりや馬や牛が遊びで殺されたらしく道にたくさん倒れていて、無事なものも小屋から出されて辺りをうろついていました。火を付けられて全焼した家は十軒に上り、すっかり炭になってつぶれた藁葺(わらぶ)き屋根があちらこちらでまだくすぶっていました」


 真愛は語りながら涙をぼろぼろとこぼし続けたので、この工房の主人の老人から受け取った古い手拭いはもうびしょびしょだった。


「疲れもあって一晩眠った私は、即席の担架に乗せられて村へ戻ってきました。すると、広場の方で悲鳴と泣き声が聞こえました。まだ一縷(いちる)の望みを持っていた私は、これ以上大きくなりっこないと思っていた不安がさらに膨らんでいくのを感じながら、もどかしい思いで担架に揺られていきました。そして、角の家を回って広場に入った途端、絶叫し、衝撃のあまり失神しました。半裸の五郎ちゃんは村で一番大きい木に縛り付けられ、全身に矢を浴びて死んでいました。明らかに、両腕と両足は折れていました。恐らく、抵抗しようとしたのを手足を使えなくしてから木に縛り、矢の的にしたのでしょう」


 煕幸は言葉が出なかった。あまりにひどすぎる。灰積家の悪行はいくつも耳にしていたが、それはまだ口にすることができる程度のものだったと分かった。本当にひどいことは、人は見聞きしても語らないのだ。


「そのあと、私はしばらく寝込みました。五郎ちゃんの葬儀には参列しておじさまとおばさまに土下座して謝りましたが、むしろ私の方が慰められました。男の子は五郎ちゃんだけだったので、お姉さんの片方が婿を取って村長を継ぐことになると聞かされましたが、ご両親がたった一人の男の子をどれだけ可愛がっていたかを知っていたので、申し訳ないという思いが増すばかりでした」


 その時の光景が目に浮かんでいるらしく、真愛は心底悲しそうな顔をしていた。


「それから三ヶ月、私は本当に抜け殻のようになっていました。五郎ちゃんが命をかけて守ってくれたので自殺はしませんでしたが、一緒にいた五郎ちゃんが死んだのに自分だけが生き残り、今も食べて寝て話していることが許せませんでした。あの時私が川に涼みに行こうと誘わなければと何度悔やんだことでしょう。私はほとんど部屋から出ずに一日中ぼうっとしていましたが、そうするとあの日の光景が目に浮かんで私を苦しめました。かといって、学問や薙刀の修練をする気にもなれず、大好きだった馬は見たくもありませんでした。笑うことも楽しむことも、私には許されないと思いました。すっかり自分が嫌いになり、生きる喜びも未来への希望も失っていました。そんな時です。桃園家から戻ってこないかと言われたのは」


 鳶瀬家の養女だと信じていた真愛は、自分の素性を聞かされて愕然としたという。


「最初は絶対に無理だと断りました。こんな私にはとても封主家の跡継ぎなど務まらないと思いましたし、それまでの十五年の日々が全て嘘に見え、平和な生活がみるみる崩れていくような気がしました。桃園家が灰積家に従っているのもいやでした。すると、鳶瀬のおじいちゃんが貴兄様や泰綱さんと一緒に部屋に来て、見伏国の民を守るために受けてほしいと、私の前に手を付いて頭を下げました」


 煕幸は息を飲んで聞いていた。


「おじいちゃんは私にこう問いました。『お前は灰積家の武者たちが憎いか』と。私が『もちろんです。この手で殺してやりたいほどです』と答えると、おじいちゃんは、『気持ちはわしもよく分かるが、それは間違っておる』と言いました。『どこが間違っているというのですか』と尋ねると、『憎む相手がじゃ』と言うのです」


 少女の隣では鴉が羽の手入れをしている。土間からは薬研(やげん)で何かをすってまぜ合わせる音が聞こえていた。


「私はおかしいと思いました。あんな人間とは思えぬ所業をする者たちを憎むのでなければ誰を憎めというのでしょう。そう尋ねると、おじいちゃんはこう言いました」


『灰積家の武者たちの狼藉はひどいものじゃ。あやつらはわざと民を痛め付け、苦しめて楽しんでおる。なぜそんな異常なことがあやつらには平気でできるのか。それはな、灰積将邦(まさくに)が許しておるからじゃ。

 人は弱い生き物で、自分を悪者と思うことに耐えられぬ。じゃから、弱い人間ほどすぐに自分の行為を正当化して安心したがる。悪事や怠惰(たいだ)や卑劣な振る舞いに理由を付けて自分は悪くないと言い張り、相手が悪い、周囲が悪い、他に方法がなかったなどと言い訳をして、責任を回避しようとする。責任が自分にないのなら、どんなことをしても気がとがめることはなく、あとで自分がまずい立場に立たされることもないからのう。ゆえに、上が腐敗すれば、それに連なる多くの者の綱紀(こうき)がゆるむ。上がしているのだから自分もしてよいはずだ、上が許したのだから自分の責任ではない、と考えるからじゃ。逆に言えば、そういう連中は上に立つ者がするなと言えばせぬ。少なくとも、大っぴらにはできなくなる。信じがたいことかも知れぬが、灰積家の武者たちも主君が変わればあんなまねはしなくなるじゃろう。


 ところが、将邦は武者たちの狼藉を罰するどころかむしろ奨励(しょうれい)しておる。武者たちが、ひいては将邦が恐れられるほど、民は言うことを聞くからじゃ。上の命令という言い訳を得た武者たちは自分にかけた縛りを解き放ち、普通の人間にはできぬようなひどいことを平気でするようになったのじゃ。その将邦も、都の龍営が地位を認めておるからこそ勝手ができる。

 つまり、首の国の民に平穏な暮らしを取り戻すには、灰積将邦を、ひいては都の高桐基銀(もとかね)を倒さねばならぬ。そして、それには巫女姫が必要じゃ。わしは予言など信じぬが、その影響力は否定できぬ。お前のそのあざを見れば、多くの者が助力を申し出てくるじゃろう。それは大きな力になる。お前は多くの者をまとめる象徴になれるのじゃ』


「おじいちゃんは、『自分を責め続け、あれは仕方がなかった、自分は悪くない、と言い訳しないお前には人の上に立つのに最低限必要な資質がある』と言いました。『地位が高くなるほど責任は重くなる。それを受け止める覚悟がないものは上に立ってはならぬ。上が責任回避にばかり必死じゃと、下の者たちが苦労と苦痛を押し付けられることになる。お前ならそういうまねはすまい。また、お前は民の暮らしをよく知っておる。じゃから、わしはお前に桃園家に戻って(まつりごと)に関わってもらいたいのじゃ』と」


 鳶瀬家の先々代の当主の達政(みちまさ)は真棟の若い頃を支えた重臣で武術の達人と聞いていたが、真愛の話を聞いて、煕幸も会ってみたいと思った。

 祖父の言葉に考え込んだ真愛に、続いて貴政が悔しげな顔で言った。


『将邦は首の国を完全に支配下に置くつもりです。この五年で鷲松(わしまつ)家を打ち破り、四国を攻め滅ぼし、三国を脅して屈服させましたが、次は恐らく、桃園家か泉代(いずしろ)家をねらってくるでしょう。両家は単独では灰積家に敵し得ませんが、代々の婚姻で絆が深く、合わせた貫高は六十六万貫と五十四万貫の鷲松家より大きいので、放っておくには危険すぎると思うに違いありません。きっと、両方か、少なくとも片方は滅ぼそうとします。そんな情勢の中、真崇(さねたか)様が子を残さずに亡くなられました。事故死とされていますが、灰積家による暗殺の可能性もあります』


 貴政は畳に額をこすり付けて懇願したそうだ。


『まずいことに、今、当家には跡継ぎがおりません。となれば、灰積家はきっと息のかかった者を養子として送り込んでくるでしょう。受ければ当家は灰積家に乗っ取られ、断れば戦でこの見伏国が戦場になります。それを防ぐために真愛様をお迎えしたいのです。婿を押し付けられぬように男のふりをしていただくことになりますが、どうか民のためにご協力ください』


「泰綱さんも、何があっても私を守ると言ってくれました。『命をかけてあなたを助け、お守りするのが私の仕事だ』と。でも、あんなことになるなんて……」


 真愛は悩んだが、見伏国に灰積家の武者を入れないために決断した。もう民に被害を出したくなかったし、自分にもこの国の人々のためにできることが何かあるかも知れないと思ったのだ。吼狼国の民を頼むと言った五郎の言葉も背中を押した。

 そうして、男装という条件ものみ、叔父の真崇(さねたか)が結婚する前に侍女に産ませた男の子ということにされて城へ登った。そこで七穂や八重や小鈴にやさしくしてもらい、初めて会った真棟(さねむね)と祖母の早苗(さなえ)にも可愛がられて封主家の世子の勉強と武術の鍛錬に励むうちに、次第に明るさを取り戻していったらしい。

 そういう体験があったのなら、処刑が嫌いなのも、山賊の所業に怒って退治を買って出たのも、流血や人の死を可能な限り避けようとするのも理解できるが、一つだけ分からないことがあった。


「君の母は真棟公の娘だと聞いているけど、父親は一体誰なんだい?」


 煕幸は尋ねた。


「生まれた時から薄いあざがあったと言っていたから、高桐家の血を引いている本物の巫女姫なんだよね。ということは、君の父は苔岩(たいがん)公の二人の息子のどちらかということになる。だけど、基銀(もとかね)は今年三十歳だから十三歳の時の子という計算になるし、基銀の兄で以前の近衛(このえ)上狼将(じょうろうしょう)、つまり高桐家の世子だった澄基(すみもと)公は、独身のまま政争に巻き込まれて十九歳で殺されたはずだ」


 苔岩と号した基尊(もとたか)には多数の妾がいたが、生まれた子女三十二人のうち三十人が娘だった。従って、真愛の父になれるのは二人しかいないのだが、どちらもあり得ないように思われるのだ。


「澄基公は聡明な上にとてもおだやかな人柄で、もし生きていれば基銀にかわって総狼将になって善政を()いたに違いないと死を惜しまれている人物だけど、かなりきまじめで無欲だったと言われている。好色な苔岩公や基銀とは違い、愛妾や落胤がいたという話は聞いたことがないよ」

「私は澄基公の娘です。そうおじい様から聞いています」


 城に連れて行かれた真愛は、娘にそっくりだと喜び涙ぐむ本当の祖父と祖母に母のことをいろいろと尋ねたそうだ。


「母が父と出会ったのは玉都(ぎょくと)の南にある真澄池(ますみいけ)だったそうです。母は泉代家の世子の成紹(なりつぐ)様と結婚が決まっていましたが、嫁いだら旅はできなくなるからその前に都見物に行きたいとねだり、渋るおじい様から許可をもぎ取って上京しました。春始節(しゅんしせつ)の日、十八歳になった母は桜祭(さくらまつり)に参加して真澄大社(ますみたいしゃ)の巫女の舞に感動し、数万本の満開の桜に囲まれた池のほとりで一人舞っていました。それを、諸封主や公家たちの挨拶攻勢から逃げてきた父が見て、一目惚れしたのです」

「そこにいるのは誰?」


 かなりはっきりした性格だった真弓(まゆみ)姫は、木の陰に隠れて自分を眺めている澄基に気が付くと厳しい声を投げた。

 警護役の武者たちに刀を向けられて恐る恐る姿を見せた澄基は、一緒に祭を見て回ろうと姫を誘いたいと思ったが、全身が心臓になったようにどきどきして言葉が出なかった。読書好きでこういう時にふさわしい古今東西の有名な詩句をたくさん知っているはずなのに、頭が真っ白になって立ち尽くしてしまったのだ。すると、顔を見れば丸分かりの気持ちを緊張で言い出せない相手に呆れて、真弓姫は去ろうとした。

 慌てた澄基は引き止めたい一心で勇気を振り絞って叫んだ。


「あなたはまるで風に舞い踊る桜の花の精のような方だ!」


 似合わぬ気取った言葉に一層恥ずかしくなって体が震え出しそうな澄基に、足を止めて振り返った真弓姫は言った。


「あなたの方こそ、顔の色が満開の桜の花みたいよ。今にも破裂して風に散りそうね」


 澄基は無我夢中で言い返した。


「あなたのためなら散ってもいい! この数万本の桜のどれよりも鮮やかに散ってみせる! でも、それはこの思いを伝えてからだ! そのあとでなら、激しい春風のような容赦のない言葉で散り果てることになったとしても、私は後悔しない!」


 二人は思わず互いの顔をじっと見つめ合った。と、真弓姫がこらえかねたように吹き出した。つられて強張った笑顔になった澄基は死刑判決を待つような心境だったが、真弓姫はしばらく笑ったあとで、微笑みを浮かべて言った。


「私は桜ではなくて、桃なの。その思い、ぜひ聞かせていただきたいわ」


 そして、二人は歩み寄って名乗り合い、一緒に桜祭の出店を見て歩いた。

 それから二人は急速に親しくなり、密かに逢瀬(おうせ)を重ねた。澄基は真弓姫に求婚し、承諾の返事を得ると、父を説得するので少し待ってほしいと言った。当時、龍営では二つの派閥が争っていて、双方が澄基に一族の娘をめあわせようとしていたのだ。苔岩は始め息子の告白に驚き、高桐家の世子にあるまじき軽挙と怒ったが、やがて、政争に無関係で、都から最も遠い首の国地方の中規模封主家の娘と結婚させれば事態を収拾できると考え、結婚を認めて裏で準備を開始した。

 だが、いつになく浮かれた様子の兄に理由を尋ねた十三歳の基銀は、自分が総狼将となるために兄を蹴落とそうと、他言しないという約束を破って片方の陣営に情報を流した。澄基と真弓姫は逢瀬の現場を襲われ、殺されそうになった姫をかばって澄基は死に、大怪我を負った姫は密かに都を脱出して故郷へ向かった。追っ手に怯えながらの逃避行は苦難の連続で、複数の家臣が姫を守って倒れ、その中には貴政の父と、日輪山(ひわやま)小鈴(こすず)の父も含まれていたという。


 二ヶ月後、国へ戻ってきた真弓姫は、父に妊娠していることを告げた。真棟は驚き、これを知られれば桃園家が都の政争に巻き込まれ、姫に刺客が送り込まれるかも知れないと考えて、娘を隠し、密かに出産させた。だが、目の前で恋人を殺された心痛と厳しい旅で体を壊していた真弓姫は、娘を生むとすぐに亡くなった。葬儀のあと、幼い孫娘は鳶瀬家に預けられ、貴政の父が都で拾って連れてきた子とされて、芽鞘村の領地に隠棲した達政の手で育てられることになった。


「都から帰ってきた母は、子を宿しているというのにやせ細っていてすぐに寝付いたそうですが、看病をしてくれた鳶瀬家の祖父母や貴兄様に、父の話を繰り返ししたそうです。『いかに二人が深く愛し合っていたかは、まだ九歳だった私にも分かりました』と貴兄様は言っていました」


 真愛は自分の心臓に両手を重ねた。


「私の名前は、本当は『まかな』と読むんです。昔の言葉で『とても(いと)おしい』という意味だそうです。父と私への母の思いが籠められた名前だと思います。お城に上がった時、おじい様が男性風に『さねちか』と読めばよいとおっしゃいました」

「いい名前だね。君にぴったりだと思う」


 煕幸が心から言うと、少女は本当にうれしそうに微笑んだ。溜め込んでいた思いを全部話してすっきりしたらしい。少しは元気が出たようだと煕幸はほっとし、自分もうれしくなってつい口が軽くなった。


「君はやっぱり笑顔の方が可愛いね。そっちの方がずっといいよ」

「えっ?」


 少女は驚き、急に頬を染めた。


「な、何を言うんですか!」


 煕幸は自分の言葉の意味に気が付いて慌てた。


「い、いや、その、思ったことがそのまま口から出ちゃっただけで」

「お、思ったこと、ですか?」


 少女は耳まで真っ赤になってうつむいている。


「ええと、まあ、その通りなんだけど……」


 いまさら言い訳するのも見苦しいので正直に認めると、真愛(まかな)は小さくつぶやいた。


「うれしいです……」

「えっ?」


 今度は煕幸が驚いた。


「い、いえ、何でもありません」

「そ、そう……」


 それ以上何を言っていいのか分からず、互いに黙り込んでしまった。

 と、そこへ横から声がかかって二人は跳び上がった。


「そろそろいいかい、お二人さん」


 いかつい顔の老人が土間から座敷をのぞいていた。


「いい雰囲気のところ悪いんだが、嬢ちゃんに迎えが来てるぜ」

「迎えだって?」


 慌てて立ち上がって土間を見渡すと、壁の陰に貴政と俊政がいた。


「いつからいたんですか!」

「結構前からだ」


 貴政は素っ気ない口調で言った。


「私は真愛(さねちか)様付きの家老を命じられている。泰綱にも必ずお守りすると約束した。気落ちされて町をふらふらなさっていると聞いて放置はできん。三人の町娘が心配して知らせにきてくれたのだ」


 真愛は恥ずかしさに顔を上げられないでいる。

 一方、貴政の従弟(いとこ)の少年は涙ぐんでいた。


「感動しました。もちろん知っている話ですけど、真愛(まかな)姉様の口から聞くとやっぱり悲しいです。五郎左衛門さんは僕と同い年なのでなおさらです」


 九歳で父を亡くして鳶瀬家の当主となった貴政を助けたのは、叔父で俊政の父の政彰(まさあき)だった。当時二十歳だった政彰は貴政と同居し、以後十七年、協力して家を守ってきた。だから、俊政は貴政を本当の兄のように思っているし、芽鞘村へ出かける時もよく同行したので、真愛とも子供の頃から親しいそうだ。


「お元気になられたようで安心しました」


 貴政は少女を見てかすかに微笑んだが、すぐに厳しい顔になった。


「大殿様がお呼びです。すぐにお城へお戻りください」

「何かあったのですか」


 真愛が尋ねると、貴政は声に隠しきれない怒りをにじませた。


「先程灰積家から使者が参りました。強い調子で二龍逢(ふたつあい)城攻めへの出陣を命じ、真愛様に面会を求めてきたそうです。その場には私も来るようにと言われています」

「要求通り山賊を討伐したのになぜ……。それに、私ですか?」


 真愛の尋ねる視線に、煕幸は分からないと首を振った。


「とにかく、お急ぎください」


 真愛は頷いて立ち上がった。草履を履いて土間に下りる。茶の礼を言って出て行こうとすると、老人が少女を呼び止めて、小さな布の袋を手渡した。


「また作っておいたぜ」

「ありがとうございます」


 真愛は礼を言って頭を下げた。何だろうと思ったのが顔に出たのか、少女は左腕を指さした。


(はまぐり)の貝殻に入れた白粉(おしろい)です。逆沢(さかざわ)鉄庵(てつあん)さんは薬屋さんなんです。鳶瀬のおじいちゃんの古い知り合いで、子供の頃から時々家に来て、私の肌の色に合わせた白粉を作ってくれているんです。腕がかぶれた時も治療してくれたんですよ」

「本職は彫り師だけどな」


 老人が言った。


「彫り師って、刺青(いれずみ)のですか」

「そうだ。まあ、こんな小さな町だと依頼は滅多にないがな」

「鉄庵殿はその世界では高名な方だそうだ。遠い町からわざわざ施術(せじゅつ)を受けに来る者もいるほどだ」


 貴政が説明した。ということは、壁に貼ってあった神雲山(かみくもやま)や狼や鴉の絵は、刺青の模様の見本だったらしい。


「灰積家の話が気になります。急ぎましょう」


 貴政に急かされ、煕幸と真愛はもう一度礼を言って外へ出た。

 いつの間にか、遠くの空がもう赤くなり始めていた。

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