第一章 邂逅 は
その日の宵、すっかり暗くなった河原で、義狼団の下っ端の無頼漢半七郎は、討伐隊の野営地のそばの大きな杉の木の前に、藁縄で厳重に縛られて転がされていた。身動きができないわけではないが、手は後ろに回されているし、縄の一端が頭より高い杉の枝に結び付けられているので逃げられない。
すぐそばでは監視役の三人の武者が焚き火を囲んでいる。疲れているのか先程から黙ったままだが、当然ながら眠る気配はなく、焼けていく魚をじっと見つめて座り込んでいた。
半七郎は今日の夕刻捕まった。武者たちの交わしていた言葉によると、明日には桃園家の目元城へ移送されて牢獄に放り込まれるらしい。
「畜生、ついてねえぜ。こんなはずじゃなかったのにな」
半七郎は悔しげにこぼし、鼠のような顔を歪めて己の不運を呪った。
半七郎は名前の通り、もともとは近くの国の貧しい農民の七男だったが、子供の頃からその暮らしが大嫌いで、逃げ出したいといつも思っていた。家を継ぐのは長男一人だから、七番目ともなるともはや兄弟というよりお抱えの働き手で使用人と変わらない。毎日畑仕事に駆り出され、へとへとになるまで働かされて、夜は死んだように眠るだけ。運良く養子の話でもない限り、このまま嫁ももらえずに一生こき使われる。もう少し豊かな家に生まれれば違ったのだろうが、食べていくのでかつかつの生活では末っ子の未来は暗かった。
そんな時、村に現れたのが朽葉万之助だった。元漁師だというこの三十過ぎ大男は、腕っ節が強くて図々しく、酒癖が悪くて女好きで、喧嘩っ早くすぐに暴れるので、他の村人にとってはただの迷惑な無法者で早く村から出て行ってほしいだけだったが、半七郎にはその傲慢さと放縦さがとても自由で楽しそうな生き方に見えた。この男に付いていけば今まで知らなかった快楽に手が届くかも知れないと思った半七郎は、村長からもぎ取った金を懐に村を去ろうとする万之助のあとを追いかけ、子分にしてほしいと頼み込んだ。それ以来二年、半七郎は影のように付き従い、万之助が義狼団に入ると自分も加わって、相変わらず腰巾着をしていた。
だが、義狼団は義賊を名乗るだけあって民への狼藉を禁じていた。頭領の山吹善晃は無法を嫌い、敵である龍営の軍勢やその協力者以外から金品を強奪することを許さず、規則を破った者には厳しい罰を与えた。善晃はまだ二十三歳だがもとは主持ちの武家だったというだけあって腕が立ち、剛力無双の万之助も頭が上がらなかった。半七郎は不満だったが、万之助が肝っ玉の太さと喧嘩巧者ぶりを見込まれて第三位の地位を与えられると、その第一の子分として周囲の仲間に威張り散らすことで鬱憤を晴らしていた。
そこへ、首の国への出陣が決まった。この冬、義狼団は背の国で龍営派の封主家の倉や彼等と癒着の深い商人たちの屋敷を襲って金品を奪っていたが、灰積家の横暴を聞いた善晃が、孤立して絶望的な籠城を続けている泉代家を救援すると決めたのだ。善晃はそれまでに集めた金で武器と兵糧を買い入れ、見伏国へやってきてこの山にねぐらを作ると、仲間の三分の二を率いて出て行った。あとを任された万之助は、灰積家の本拠地八岐国と泉代家の垂氷国の間に位置し、吼狼国八大街道の一つである遠国街道が通るこの国で、灰積家や味方する封主たちの軍勢へ運ばれる兵糧を奪うことになっていた。
だが、善晃がいなくなると万之助は本性を現し、兵糧が心許ないからと部下たちに近隣の村からの徴収を命じ、ついでに酒と女も奪ってこいと言った。半七郎は大喜びし、あまり気が進まない様子の仲間たちを万之助の威を借りて脅し付けて村々を襲い、奪ったものの半分は万之助に納め、残りは自分と仲間で分け合って、他のやつらには内緒だと口止めした。
この辺りは小さな村ばかりであまり上等な酒や垢抜けた色っぽい女は手に入らなかったが、半七郎は満足だった。故郷の村にいた頃に比べれば、なんと毎日が楽しいことか。厳しい長兄に怯えていた俺が、三十人の仲間に命令しているのだ。
そうして十日余りが過ぎ、今日も半七郎たちは獲物を探しに里の方まで下りてきて、村娘を見付けて仲間二人と取り囲んだ。ところが、そこへ若い男が現れて邪魔をされ、体当たりで転ばされて顔に目つぶしの粉をこすり付けられたので、激怒して追いかけたが逃げられてしまった。走り回って腹が減った半七郎は仲間たちと山中村へ戻り、近くにいた村人を脅して飯と酒を要求し、村長の家に上がり込んでそこの娘に酌をさせて飲み始めたが、酔っぱらって村人が呼んだ武者に捕まり、この有様となった。腹立たしいことに、武者の姿を見て慌てた仲間は半七郎を残して山へ帰ってしまったらしい。
城へ連れて行かれたら投獄され、民にさらされた上で処刑されるだろう。半七郎は首に縄をかけられて町の広場の杭につるされた自分の死体を想像して身震いした。そんな最後は真っ平御免だ。たった十九で死にたくない。どうにか縄をほどいて逃げる方法はないものか。腹が減り、のどが渇いてたまらない。季節柄、夜はまだ冷えるので、ますます酒が恋しかった。
俺も火に当たらせろ、その魚をよこせ、と思って武者たちの背をにらんでいると、森の中から暗い赤色の立派な鎧を着た若い武将が一人現れて、焚き火に近付いてきた。両手に大きな瓢箪を持ち、腰にも一つぶら下げている。後ろには、十八くらいのなかなか色っぽい器量よしの娘が、四角い木の盆に料理を入れた皿を四つのせて従っていた。
「これは鳶瀬様」
武者たちが立ち上がると、その武将は「そのままでいい」と座らせ、持っていた二つの瓢箪を手渡した。
「お前たち、監視ご苦労」
若い武将が言った。
「今日は賊を一人捕まえることができて、真愛様は大いに喜んでおられる。山中村の村長からも感謝の印としてこの寿司が届いた。明日、村で祝い事があってたくさん用意していたらしいが、こちらで食べてほしいと持ってきてくれたのだ」
鱒を使っているらしい押し寿司の皿を娘が武者たちに配った。
「もう森の探索も五日目だ。皆、疲れているだろう。そこで、今夜は飲酒の許可が下りた。城から持ってきたものだから日数が経ちすぎてどぶろくが酸っぱくなってしまっているが、まだ飲めないことはない。今日城から新しく食料と酒が大量に届いたから遠慮はいらんぞ。既に少し先の山中村に運び込んであるそうだ。古い酒は片付けてしまわないとな。ところで、実はこの酒は出所に事情があってな。真愛様には内緒だが……」
と手招きし、集まった三人へ何かをささやくと、武者たちは一斉に笑い声を上げた。
「貴政様ったら、もう……」
あまった一皿ののった盆を抱えて娘が呆れている。
「そういうわけだ。今夜は楽しくやってくれ」
と言って部下の肩を叩いた武将は、半七郎に気が付いた。
「あいつが今日捕らえた男か。荷が運び込まれた時に村にいたという」
「はい。村人を脅して若い娘に酌をさせていたそうです」
「ふむ、鼠みたいな顔だな。見るからに小物だ」
なんだと、俺は万之助様の第一の子分だぞ、と思っていると、武将は急ににやりとして言った。
「おい、お前も酒を飲みたいか」
半七郎は驚いたが、もちろん頷いた。
「飲みてえな」
ふむ、と頷いた武将は笑みを大きくすると、娘を連れて近付いてきた。目の前に立った武将は、やっと飯と飲み物にありつけるとのどを鳴らす半七郎を見下ろし、腰の瓢箪をはずして口を開くと、いきなり憎しみに顔を歪め、逆さにして半七郎の頭にどぶろくを浴びせかけた。
「はっはっは! これで飲めるだろう、この悪党め!」
叫んだ武将は、半七郎の全身にどぶろくを振りかけると、空になった大きな瓢箪を放り投げ、娘の盆から寿司の皿を取って河原の石に叩き付けた。
「これも食え!」
陶器の皿は大きな音を立てて割れ、三貫の寿司はばらばらになって辺りに飛び散った。
白い酒で頭髪から草鞋までずぶ濡れになった半七郎はかっとしたが、腹が減っていたので、寝ころんだまま体をくねらせて寿司へ口を伸ばすと、その顔へ武将は石ごと寿司を蹴りかけた。
「お前のような下衆野郎に与える飯はない」
そう言い捨てて背を向けると、武将は娘と共に去っていった。
武者たちは半七郎を見てざまあみろという顔をしていたが、自分たちの寿司に手を伸ばし、にぎやかに酒を飲み始めた。半七郎は悔しかったが、口のまわりをなめて頭から垂れてきた酒を少しでも味わおうとし、はい回って届く範囲の寿司の欠片を拾って、砂でじゃりじゃりする口と、一層激しく鳴り出した腹に耐えていた。
皿と瓢箪が空になり、焼けた魚もなくなると、武者たちはまた黙り込んだ。食べて飲んだため眠くなったらしい。やがて、誰からともなしに三人は横になり、いびきを立て始めた。
監視役の武者全員が寝付いたのを確認すると半七郎はにやりとし、再び寿司の皿に近付いた。そして、背を向けて後ろで縛られた手に大きな破片を握った。半七郎は指先を動かして手首を拘束する縄の藁の繊維を少しずつ切っていき、細くなったところで腕に力を入れて引きちぎると、自由になった手で胴と足の縄をほどき、濡れた頭からどぶろくをしたたらせながら立ち上がった。
「へん、ばかな連中だ」
半七郎は嘲笑った。
「縄を切る道具を目の前に置いていってくれるとはな。それにいい話を聞かせてもらった。山中村にある食料と酒は俺たちが頂くぜ」
そう言い捨てると、半七郎は森の中へ消えていった。
翌朝、朽葉万之助は義狼団の留守部隊三百人のうち、二百七十人を率いてねぐらから出撃した。目的地は山中村だ。義狼団は一千人の大所帯なので、いつも食料と酒に余裕がない。真愛率いる討伐軍の物資を横取りするつもりだった。情報をもたらした半七郎は万之助に大いにほめられ、背中を思い切り張られて酒臭い頭を強く撫でられた。それに気をよくし、うまく脱走できたことに得意になっていたので、村に酔っぱらった半七郎を置いて逃げたことを怯えながら謝罪した子分たちを、すごみながら嫌味を言うだけで許してやった。
山道を急いだ山賊たちは、桃園家の討伐軍に気取られぬように遠回りして山中村へやってきた。偵察に行かせた者たちの話では、村はずれの田んぼに囲まれた大きな屋敷に警備の武者が二十人ほどいるという。どうやらそこらしいと当たりを付けた万之助たちは、森の中を通ってできるだけ近付いてから、一斉に姿を見せて屋敷に向かって突撃した。
その屋敷の周囲は鍬で起こしたばかりの田んぼなので、進めるのは間を通る三本の細い道だけだった。山賊たちは中央と左右の三方から一斉に大きな屋敷へ向かって駆けていった。
「てめえら、俺に続け! あんな小勢一気に蹴散らせ!」
万之助が太い声で叫んで先頭を走り、遅れじと荒くれ者たちが抜き身の刀を手に追いかける。もちろん半七郎もそのあとに続いた。多数の襲撃者に驚いた警備の武者たちは、警戒の呼子を吹き鳴らすと慌てたように屋敷の門の中に逃げ込んだ。
「へっ、腰抜けどもが。さっさと門をぶち破れ! 壁をよじ登れ!」
屋敷の周囲に集まった二百七十人が頑丈そうな門や土塀に取り付こうとした時、急に門が開き、中から完全武装した武者が百人以上も現れた。
「なにっ? なぜこんなに武者がいるんだ。どういうことだ?」
万之助が首をひねった瞬間、背後で大きな鬨の声が沸き起こった。見ると、出てきたばかりの森の中から多数の鎧武者が飛び出して、今通ってきた三本の細い道に殺到してくる。人数はざっと四百人ほどで、屋敷にいた武者と合わせると五百人、山賊たちの倍になる。
「おい、これはどういうことだ!」
呆然としていた半七郎は怒鳴り付けられてすくみ上がったが、正直わけが分からなかった。はっきりしているのは、敵が待ち構えていたということだけだった。
「ちいっ、食料を奪うのは諦めるしかねえ。さっさとずらかるぞ。全員、ばらばらになっていつもの集合場所まで戻れ!」
さすがに万之助は場数を踏んでいた。大声で指示を出すと、いきなり田んぼの中へ飛び込んで全力で走り出した。仲間たちも慌ててそれにならう。柔らかい土に足を取られて走りにくいことこの上ないが、捕まったら牢屋行きだ。皆必死で逃げた。武者たちはさすがに田んぼの中には入ってこず、周囲の細い道に並んで山賊たちを包囲しようとする。あちらこちらで激しい斬り合いが始まったが、なんとか突破口を開くことに成功して森の中へ駆け込むと、武者たちは食料の警備が優先なのか、追うのをやめて引き返していった。
集合場所で点呼してみると、欠けた者はいなかった。あれほどの人数に包囲されたのに全員逃げ切れたのは意外だったが、皆互いの無事を喜び合い、桃園家の武者たちの不甲斐なさを笑うと、腰の握り飯を食べ、ねぐらへ向かった。自分のせいで大勢が捕まったらどうしようと青くなっていた半七郎もほっとして、重い足取りで山道を上っていった。
昼過ぎ、くたびれ切って帰ってきた山賊たちは、ねぐらの洞穴の前の柵に警備役の者が立っていないのを見て奇妙に思った。
「俺がいないと思って怠けていやがるな」
舌打ちした万之助は、格子になった木の扉を開けて中へ入り、ずんずんと奥へ歩いていった。半七郎も急いでそれを追ったが、仲間は見当たらなかった。
「おかしい。何で誰もいねえんだ?」
万之助が首をひねった時、入口の方から一人の仲間が慌てた様子で走ってきた。
「た、大変だ。敵がこの洞穴を包囲しておりやす!」
「なにっ?」
慌てて見張り場にしているねぐらの入口の上方へ突き出た岩へ登って外を眺めると、数百の鎧武者が大きな木の楯をずらりと並べてその後ろから弓で入口をねらっていた。
「あいつら、どうやってこの場所を知ったんだ。どこにも目印になるもんなんてねえはずだ。他にも同じような洞穴はいっぱいあるだろうに」
万之助がうなった時、背後から現れた仲間が焦った様子で報告した。
「大変だ。仲間が見付かった!」
見付かってなぜ大変なんだと半七郎は思ったが、連れてこられた留守番役の者たちの話を聞いて青くなった。主力が山中村へ出撃して二刻ほど経った頃、五百もの鎧武者が現れてこの洞穴を完全に包囲し、門を打ち破って入ってきたのだという。中にいた者は全員捕まったが、なぜか武者たちは縛って物置にしている一番奥の穴に閉じ込めただけで、しばらくしてねぐらを出て行ったらしい。
「この洞穴をいったん占領したのに、引き上げたって言うのか」
信じられねえという顔で万之助が尋ねたところへ、別な仲間が血相を変えて走ってきた。
「食料がなくなってる! 全部やつらが運び出しちまったらしい。水瓶もみんなたたき割られ、桶がひっくり返されてる。予備の槍や矢もねえ。残ってんのは空の麻袋だけだ」
「まさか、連中の目的は……」
半七郎が真っ青になると、万之助がうなるように言った。
「俺たちを兵糧攻めにするつもりだ。おい、鼠公。てめえ、敵の策にはまったな」
「お、俺は自力で縄を切って逃げ出してきたんだ。そんなはずは……」
言い訳しようとしたが、半七郎に向けられる万之助の目はひどく冷たかった。
「お前の目の前で皿を割ったそうじゃねえか。わざとお前を逃がしたんだろうよ」
「だ、だが、俺は後ろを何度も振り返って誰も追ってきてねえことを確認したんだ。本当だ。誰も付いてこなかったのは間違いねえんだ!」
「そんなことは問題じゃねえ。とにかく、連中はこの場所を見付けたんだ。そうして、俺たちはまんまとここへ食い物なしで閉じ込められちまったわけだ」
仲間の一人がわざと明るい口ぶりで言った。
「完全に包囲される前に三人ほどが脱出しやした。夕方には団長のところへ連絡が行きやしょう。きっと助けに来てくれるに違いねえですぜ」
「ああ、そうだな。それを待つしかねえな」
万之助は、だん、と岩壁をこぶしで叩いた。
「せっかく包囲したんだ、敵は今夜は襲ってこねえだろうが、皆今日の出撃でへばってる。こんな状態のところへ攻め込まれたらひとたまりもねえ。とにかく今は体を休めることだ。畜生、見ていやがれ。団長たちが戻ってきたら、外の連中を追い払ってやるぜ」
守備を厳重にしろと命じると万之助は怒りを踏みしめるような足取りでその場を去っていった。半七郎はあとを追おうとして諦め、ずらりと楯を並べた桃園家の討伐軍を見やって深い深い溜め息を吐いた。
「すごいです! さすがは大軍師様ですね!」
翌朝まだ薄暗い頃、洞穴の包囲陣からやや離して張られた天幕の外で、倒木に腰を下ろして朝食を済ませた真愛はうれしそうだった。
「本当にそうですね。こんなにうまく行くなんて、びっくりしました」
真愛の長い髪に櫛を入れながら、七穂も言った。
「いやいや、やってみないと成功するかは分からなかったよ」
煕幸は謙遜したが、こういう純真な少女たちに本気でほめられるとさすがに頬がゆるむ。
「でもでも、まさかどぶろくを使って山賊のねぐらを探すなんて全く考え付きませんでした! ねっ、輝翼丸!」
少女が肩に乗っている大きな白い鴉に頬を寄せると、輝翼丸も甘えるように主人の髪に頭をすり付けた。
一昨日の夜、寿司と陶器の皿と傷んだ酒を用意した貴政と七穂は、捕虜の山賊に山中村の食料の話をわざと聞かせ、逃げるように仕向けた。もちろん、情報は偽物だ。そして、討伐隊千人を半分に分け、海老間永謙に半数を預けて村の防衛を任せた。永謙は村長に頼んで屋敷を使う許可を得ると村人を近くの山へ避難させ、屋敷の中と周辺の森に別れて待ち伏せし、包囲するふりをして山賊たちに襲撃を諦めさせて、適当に痛め付けてから山へ逃がした。
そして、もう半分の五百人は真愛と貴政らが率いてこのねぐらへやって来た。逃げた山賊の体からぽたぽたと垂れたり草鞋に染み込んだりしたどぶろくの甘酸っぱい匂いを、穴熊狩り名人の飼っている犬に追わせることで、ここを見付けたのだ。
古い酒を使うことを提案したのは七穂だ。煕幸が永謙の杯を指さして、「山の中には絶対に存在しない強い匂いのする液体を捕虜の体にかけて逃がせばいい」と言うと、「酸っぱくなったお酒の方が匂いがきついです。幸いたくさんありますからそれを使ってはどうでしょうか」とすぐに答えたのは、さすがは真愛の食事や身のまわりの世話をしている侍女だった。重く割れやすいので戦陣では使わない陶器の皿を、あの古い屋敷の中を探し回って見付け出してきたのも七穂だ。貴政もうまくやってくれて、七穂に芝居の才能をほめられてまんざらでもない様子だった。もうすっかり春で大分暖かくなったし、前夜の澄み切った空から大丈夫だろうとは思っていたが、心配した雨や霜や朝霧はなく、匂いはちゃんと残っていてくれて、穴熊狩り名人の犬は全く迷わなかった。
もう一つ煕幸が心配したのは、犬が吠えてねぐら襲撃隊の接近を山賊に察知されることだったが、名人はそんなことは絶対にないと請け合った。穴熊の巣に近付く時に気付かれないように、吠えてよい時と悪い時はきちんと教えてあるのだそうだ。実際、名人が吠えるなと命じると、貴政や泰綱が耳に触ったり尾を引っ張ったりしてもうなりさえしなかった。随分躾がよく賢い犬だと煕幸も感心し、捜索の成功に自信を持ったのだった。
「では、申し訳ありませんが、手を縛って猿ぐつわをさせていただきます」
真愛の髪を白い布でくるくると巻いてしばり、頭の後方に突き出して先を垂らすような形にすると、七穂はそばにあった藁縄を取り上げた。
「真愛様の秘密をしゃべるつもりなんてないんだけど」
「そうですね。私たちも信用したいんですけど……」
言いながら、七穂は煕幸の両手を前で縛った。前にしてくれたのは好意の表れらしい。次に、申し訳なさそうにしながらも、口に灰色の布を噛ませて頭の後ろで結んだ。最後に、腕を胴に付けた状態で上から藁縄を巻き付けたが、あまり痛くないようにしてくれた。昨日作戦がうまく行ったことで、七穂の態度はがらりと変わっていた。
煕幸は戦闘の間、真愛たちのそばで状況を見守ることになっている。自分の立てた作戦だから結果が気になるし、不測の事態が起きた時、煕幸の知恵が必要になるかも知れないからだ。腰のひもは七穂が握っていて、必要な時は猿ぐつわをはずしてくれるはずだ。真愛は縛るのも猿ぐつわも反対したが、貴政が頑固に主張した。確かに、約束では煕幸を解放するのはこの作戦が成功してからという話だったので、それまでは虜囚の身なのだと言われれば反論は難しく、煕幸が折れたのだ。
「さあ、今日は山賊退治の仕上げですね!」
真愛は元気いっぱいだった。一昨日の夜初めて会った時は武事の似合わぬ箱入り娘と思ったが、昨日の山賊のねぐら探索と包囲の指揮ぶりを見て、大分印象が変わった。七穂によると、真愛は薙刀と弓の名手なのだという。
「本当にお強いんですよ。特に薙刀は男性でもかなう人は少ないでしょう。春始節にお城のお庭に家臣全員を集めて行われる武芸大会で、剛力自慢の方たちを身の軽さと素早さで翻弄して、得意技のすね払いで次々に打ち破ったことは忘れられません。三ヶ月前、真崇様が亡くなられて存在が公表された時は真愛様を胡散臭く思っていた人も、あれを見てがらりと態度を変えましたもの」
「へへへ、鳶瀬のおじいちゃんが武術の達人だから、幼い頃からやらされていたんです」
真愛は照れた。
「お前は女だから長さのある薙刀がいいだろうって。接近して斬り合いになった時点で体格と腕力に劣る女は絶対的に不利だから、敵を近付けさせないように距離を取って防御しながら相手に隙ができるのを待ち、確実に一撃で仕留めるわざを身に付けなさいと言われました」
「へえ、それはすごいなあ」
感心すると、薙刀のまばゆい金色の鞘の上に止まっている鴉が得意そうに、かあ、と鳴いた。この鞘は上空にいる輝翼丸に合図を送るためにわざとぴかぴかに磨いてあるらしい。金色の穂先をぐるぐる輪を描くように回すと鴉は空から降りてくるそうだが、確かに、これなら遠くからでもよく見えるだろう。
真愛が鴉を遊ばせによく野原へ行くという話を聞いて、そういえばこの少女のほっそりと引き締まった体付きを見て運動が好きそうだと考えたことを思い出したが、あの白い裸体が頭に浮かびそうになったので、煕幸は慌てて頭を振って雑念を追い出した。
薙刀が得意なのは今知ったが、真愛がかなり武術に長けていることは、きびきびした身のこなしや長い間山道を歩いても平気なことからよく分かったし、日の下で見ると表情は明るく、とても活発で腕白な少年、いやお転婆な女の子に見える。まだ命令を下して人を動かすことに慣れていないので、貴政と泰綱の補佐がなくてはうまく切り回せないだろうが、判断は早くて的確だし、自分の知らないことや決断に迷うことは恥ずかしがらずに二人にどんどん質問して年長者の知恵を吸収していた。こうして経験を積み、知識を増やしていけば、この聡明な少女はきっとすぐれた武将になれるだろう。
実際、既に家臣たちにはかなり支持されているらしい。真愛は若々しく凛々しい一方でどこかやさしげな雰囲気が漂っていて守ってあげたくなるし、いつも楽しげなので見ているこちらまで気持ちが明るくなる。何より、周囲の人々を大切に思っていることが態度や言葉の端々から感じられる。家臣たちによく声をかけて、ねぎらったり励ましたりし、怪我をした家臣をがいると聞けば足を運んで様子を尋ねたりしているから、家臣たちもこの年若い主家の跡継ぎを大将に戴くことが心地良いらしい。
「貴政さんたちが惚れ込むのも分かるなあ。でも、真愛さんは……なんだよね。本当にあとを継げるのかな」
女の封主もいないではないが、今は乱世だから難しいだろう。封主家当主の仕事の第一は軍勢の指揮なのだ。都から遙かに遠いこの首の国地方も灰積家のおかげで戦が絶えない。武者は基本的に男だから、荒くれ者たちを女性が率いるのはよほど魅力や統率力がないと厳しいし、他国に見下されて交渉事がやりにくくなるかも知れない。
「国主の地位を継ぐ頃にはもう大人になっているだろうから、まわりに体のことがばれるだろうな。今は都に行く必要がないから龍営に隠しておけるかも知れないけど、灰積家が知ったらきっと攻める口実にするだろう」
二百年前に吼狼国の王である宗皇がこの国の統治権を公家から取り上げて高桐総狼将家に預けて以降、有力な武家が各国の国主に任じられて施政と治安維持と軍事を担うようになった。そのかわり、四年だった国主の任期は終身となり、代々継承することを許された。
現在も形式上は国主は四年ごと、代替わりごとに都へ出向いて高桐家に国主を続けることを認めてもらわなければならないが、基銀は反抗的な封主家から官位を剥奪したので、多くの封主家は勝手に国主を名乗っていた。龍営側の灰積家は正式に任じられた国主として自称する封主たちを討伐するという名目で戦を起こしていて、周辺の封主家に二百年受け継いできた地位と権力を返上して一豪族に戻り、将邦の命令に従えと要求しているが、承知する家などあるわけがないので言いがかりに近いものだった。真愛はただでさえ突然存在が公表されて怪しまれているのだから、女だと分かったら、そんな者にはとても国主は任せられないと難癖を付けて兵を向けてくるかも知れない。
「桃園家の当主は真愛さんにいつまで男装させておくつもりなんだろう。腕のこともあるからしばらくは続けないといけないだろうけど」
天書の予言では狼神の巫女姫は女性なので、男と思わせておけば疑われることはまずない。そういう意味では確かに有効な隠し方だが、真愛は美しすぎるので男と言い張るのはじきに難しくなるだろう。そうなったら、なぜ周囲をだます必要があったのかを説明しなくてはならなくなるが、説得力のある理由を煕幸は思い付けない。普通、跡継ぎが娘なら婿を取らせるものだ。真愛は十四歳と発表されているが本当は十六歳と聞いたので、少々早いが結婚してもおかしくない年なのだ。灰積家が不都合な縁談を押し付けてきても先に結婚させてしまえばすむ。本人が男装を好むといった言い訳では家臣たちは納得しないだろう。
「あの服も確かに似合っているんだけど、どこかに無理があるんだよな。男にしては顔が整いすぎているし、肌もつるつるのすべすべで柔らかそうだし……」
煕幸は出陣の支度をしている真愛をそっと眺めた。白い鉢巻を締め、水色の上衣と袴に赤い胴覆いを付け、腰に小振りだが立派な長刀、右手に薙刀を持って、左手に鴉を止めるための長い革手袋をはめた若武者姿は実に凛々しいが、どこか作り物めいていて、本当は少女だと知っているためか微妙な違和感がある。それに、この少女はきっと女物の服を着たらとても可愛いだろうと思うので、ちょっともったいないと感じるのだった。
「封主家の姫君なら、やっぱり打掛姿かな……」
猿ぐつわの口の中でぶつぶつ言っていると、泰綱がやってきた。
「武者たちの準備が整いました。真愛様のご用意がよろしければ、そろそろ行動に移りましょう」
相変わらず涼しげな微笑を浮かべて泰綱は主君に話しかけた。
昨日分かったが、栗木田家は馬廻頭の家柄だった。つまり、泰綱は戦陣で桃園家の当主の周囲を守る武者たちの指揮官なのだ。一歳上の貴政とは幼なじみで、何度も一緒に真愛のいた村へ泊まりにいったことがあり、この少女を赤ん坊の頃からよく知っているそうだ。貴政と違ってまだ独身で、七穂がほのめかしたところでは、以前許婚がいて本人たちも好き合っていたが破談になってしまい、それ以来結婚の話はしたがらないらしい。真愛によると村の娘たちに大人気だったそうだが、本人は昨夜の夕食時に「私は結構身持ちが堅くて一人の女性に一途なんだよ」と言っていた。
妹の七穂は三ヶ月前に初めて城で少女に引き合わされ、信用できる者にしか任せられないからと兄と貴政に頼まれて、母の八重と共に侍女役を引き受けたそうだが、真愛とは年も近いし気が合うようで、いつも仲がよい。普段は侍女姿らしいが、今は簡素な胴覆いを着けて手に弓を持っている。武術は得意で、目元城で真愛と汗を流すこともあるらしい。普通に考えれば主家の跡取りとはいえ少年に戦場まで侍女が付いてくるのはおかしな話だが、「弓なら真愛様にも負けません」という腕があるので護衛役として周囲から認められているようだ。座っているより動き回っている方が好きな性分で、真愛の世話だけでなく、他の武者たちの食事の準備の手伝いや怪我の手当ても買って出ているらしい。
身支度を終えた少女が金色の薙刀を大きく回し、空を飛んでいる鴉を呼び寄せて肩に止まらせると、煕幸たち三人は泰綱に付いていった。楯の壁の前には既に貴政と、昨夜残りの武者たちを連れて合流した永謙がいた。
貴政が作戦の流れを口頭で最終確認すると、全員が一斉に煕幸を見た。真剣な表情で首を大きく縦に振ると、皆顔を見合わせて笑みを浮かべ、少女へ目を移した。
大将の真愛は胸の前で手を組み、戦の神でもある大神様に勝利を祈願する祈りを唱えた。全員が頭を垂れて手を組み、同じ言葉を口にした。
「真愛様の祈りだと効果が違う感じがしますね」
泰綱が軽口を叩くと貴政はにやりとしたが、すぐに戦場の顔に戻って言った。
「さあ、今日が本番です。気を引き締めていきましょう!」
頷き合った六人は、武者たちの方へ向かった。
一方、昨日の夕刻、垂氷国の山間の小川の河原に張った陣地で夕食の支度をしていた義狼団の主力は、慌てふためいて駆け込んできた仲間の知らせに驚愕し、大騒ぎになった。ねぐらを発見されて包囲されたというのだ。
山吹善晃は河原の大きな石に座って、獣網にかかったという猪の肉を入れた山菜の煮込みと玄米飯を食おうとしていたが、箸と木のどんぶりを持った手を下ろし、連れてこられた男の報告を聞いた。善晃はいくつか疑問点を尋ねて事態を把握すると、眉をひそめ、白い綿飾りの間から鬼のような角が生えた兜をかぶった頭をゆっくりと振って言った。
「到底信じられねえな」
始め善晃が半信半疑だったのは仕方がない。逃げてきた男は山中村の情報をもたらした半七郎が捕まった理由を知っていたが、頭領に告げると怒られると思い、詳しいことは黙っていたからだ。だが、さらに二人が到着し、口をそろえて救援を求めたので、善晃もどうやら事実らしいと認めるしかなかった。
「桃園家め、やってくれるじゃねえか。万之助のやつ、へまをやらかしたな」
「だが、なぜ桃園家が本気で俺たちを討伐するんだ。おかしいじゃないか」
隣で話を聞いていた副頭領の朝岸友延が首を傾げた。友延は善晃より四つ年上の二十七だが、正直者の商人のような顔は若々しく、即断即行の善晃の補佐役をしている苦労人には見えない。
「あいつらはむしろ俺たちに頑張ってほしいんじゃないのか。現に、出発前に見伏国で兵糧を買い入れた時、民は皆好意的だったし、桃園家の役人も見て見ぬふりをしてくれたはずだ。討伐も形だけだろうと思っていたんだがな」
善晃は不愉快そうに鼻を鳴らした。
「きっと灰積家に命じられたのさ。桃園真棟は自分の妻の実家で姉の嫁ぎ先でもある封主家を見捨てたようなやつだ。将邦が恐ろしくて部下の尻を引っぱたいたんだろうよ」
「だが、昨日の報告じゃあ、連中はこちらのねぐらの場所を全くつかめず、見当違いの方向ばかり探してるって話だったが、一体どうやって見付けたんだ?」
「さあな。誰かがあとでも付けられたんだろう。だが、そんなことはどうでもいい。それより、あのねぐらには軍資金と食料を隠してあるんだ。あれを押さえられたら俺たちは飢えるしかねえ。そうなったら義狼団はお終いだ。すぐに戻ってそいつらを追い払い、金と食料を運び出して別の場所にねぐらを移すしかねえな」
善晃は少し考えると、口元に不敵な笑みを浮かべた。
「みんなに飯を食ったらすぐに出発すると伝えてくれ。今夜は夜通し歩いて、明日の朝ねぐらを奪い返す。連中は俺たちが戻ってくるまで一日はかかると踏んでるはずだ。ねぐらを封鎖しているやつらを背後から奇襲して追い散らしてやる」
「よし、早速伝えよう」
「握り飯を二食分作らせておけ。今夜の夜食と、明日の朝食だ。夕飯をかっ込んだらすぐにここを引き払うぜ」
「急いで支度させる」
友延は頷いて、足早に仲間の方へ向かった。
「俺たちは正義のために命を張って戦ってるんだ。腰抜け封主なんかに追い払われたりしねえぜ」
善晃はつぶやくと、木のどんぶりの玄米飯の上に猪肉と山菜の煮物を全部のせ、ものすごい速さで口に流し込み始めた。
翌朝、善晃率いる義狼団の主力七百は、ねぐらのすぐ近くまで戻ってきた。
善晃が自ら偵察に行くと、確かにねぐらの前にぎりぎり矢が届かないくらいの距離を置いて桃園家の武者の楯が並び、その後ろで五百人ほどが弓や槍を構えていた。武者たちの目は前ばかり見ていて後方を警戒している様子はなかったので、善晃は大胆にも話し声が聞こえる距離まで近付いてみた。武者たちは既に勝ったも同然と思っているらしくのん気な様子で談笑しており、夜通し警戒していたためか、眠そうにあくびを繰り返す者もいた。
悟られぬように静かに下がり、仲間のところへ戻った善晃は、ひそめた声に笑いを含ませて友延に言った。
「連中は完全に油断している。これなら絶対に勝てるだろう。手はず通り、俺が半数を率いてあの連中を背後から襲って道を開く。中の連中も気付いて洞穴を出てくるだろうから、敵を挟み撃ちにできる。俺たちは中へ入るから、お前たちはねぐらの前で残りの敵を追い散らして退路を確保してくれ。敵はすぐには戻ってこないと思うが、もし洞穴に入ったところをまた包囲されたら逃げられなくなる。俺たちは中の連中と協力して素早く荷造りして出てくるから、一緒に隣の山へ移ろう」
友延は頷いて、自分の隊へ指示を伝えにいった。
周囲の者たちは既に朝食の握り飯を食い終え、簡素な胴覆いのひもを締め直して刀や短い槍を握り、合図を待っている。自分の朝食を急いで頬張って水と一緒に飲み込んだ善晃は、仲間の顔を見回すと、立ち上がって片手で槍を高く掲げ、大声で叫んだ。
「野郎ども、行くぜ! 俺に付いてこい!」
わあああ、と大きな鬨の声を上げて三百五十人が一斉に走り出した。少し遅れて友延たちも続く。桃園家の武者たちは慌てて振り向いて応戦しようとしたが、山賊たちは木の生い茂った山道を一気に駆け上がって襲いかかり、敵に体勢を整える時間を与えなかった。
たちまち乱戦になったが、勝負は呆気なくついた。
「ひ、退け、退けい! 敵に挟み撃ちにされるぞ!」
騒ぎを聞き付けてねぐらからも山賊が現れると、桃園家の暗い赤色の鎧を着た若い武者頭はかなわないと見たか、全員持ち場を離れて後退せよと命じた。武者たちは頑丈で大きな楯を捨てて逃げ出し、弓武者たちも算を乱して山を駆け下っていく。義狼団の勇士たちはそれを見て大笑いした。
「はっはっは。なんと弱い連中だ。それでも武家か。腰抜けどもめ」
善晃は武者たちの背中へ嘲笑を浴びせると、友延に周辺の警備を任せ、ねぐらの入口に向かった。
「おい、お前たち、ここを引き払うから荷造りを手伝え。昨日の話はあとで聞く。すぐに移動するぞ!」
洞穴の前にいる仲間に善晃が呼びかけると、真っ先に出てきた者たちは元気のない顔でふらふらと寄ってきて、「何か食い物はねえか」と言った。
「食い物だと? 奥の倉のものを食えばいいだろうが」
善晃が不思議に思って言い返すと、留守役の者たちは力なく首を振った。
「ねぐらにはもう米粒一つ残ってねえんでさあ」
「なにっ、どういうことだ?」
驚く善晃に、近付いてきた万之助が「面目ねえ」と頭の後ろの辺りを手でかいた。
「もうこの穴ん中には水の一滴すらねえ。もちろん金もなくなってる。全部こいつのせいだ」
と後ろで小さくなっている半七郎をにらんだ。
「金も食料も全くないだと? てめえら、何してたんだ! 詳しく話せ!」
状況がつかめず、善晃が怒鳴るように尋ねた時、わあっ、と森の中で大きな鬨の声が起こった。
「な、なんだ?」
慌てて背後を振り向くと、退路を確保しているはずの友延たちが走ってくる。
「て、敵だ! すごい数だ。一千以上はいる!」
副頭領が指さすまでもなく、逃げ出したはずの桃園家の武者たちが洞穴を二重に囲むように横に二列になって近付いて来るのが見えた。義狼団の仲間は抵抗しようと槍や刀を構えているが、相手は身の丈の倍以上の長い槍を前に向けて足並みを揃えて向かってくるのでとても近付けない。森を移動したり木々に隠れて敵の小部隊を襲撃したりするには長い槍は邪魔になるので義狼団は持っていないのだ。同じ条件のはずの桃園家の武者たちは、皆長い木の棒の先に槍を縄でくくり付けて長くしている。そんな相手に突っ込んでいっても串刺しになるだけだ。しかも、その後ろには弓を構えた武者が大勢いて、近付く者を射ようとねらっている。
一千の槍と五百の弓に押された義狼団は次第に下がって、ねぐらの前に追い詰められた。ここは左右に突き出た岩壁の真ん中が引っ込んでいてその一番奥に洞穴があるので、周囲を槍隊が円く囲んだ様子は、上から見れば洞穴の入口を要にした大きな扇のような形になる。槍武者の一部は槍を置いて放置されていた楯を拾い、洞穴に向けて壁を作り始めた。残りはその隙間から槍を出して近付けないようにしている。
「完全に囲まれたな……」
友延がつぶやいた。
「これを破るのは無理だ。戦えば恐らく半数はやられる」
「それに軍資金も水も食料もねえんだろ?」
と善晃が万之助を見ると、「すまねえ。偽の情報でおびき出されて留守にしてる間にねぐらに乗り込まれて全部運び出されちまった」と悔しそうに言った。
「俺たちは昨日の昼の握り飯以来、何も食ってねえんだ。みんなぐったりしてるし腹が減って力が出ねえ。食料があるなら分けてくれ」
「俺たちも食い物は持ってねえよ。もともと予定では明日辺りにいったんここへ引き上げて食料を補給するつもりだったんだ。つまり、洞穴に籠もってもすぐに降伏しなきゃならなくなるってことだな」
善晃は舌打ちすると、桃園家の隊列を眺めた。
「なんとかこの囲みを抜ける方法はねえものか。脱出さえできればその先のことはどうにかなるが、ここで飢えたまま弱らされて捕まっちまったら万事休すだ。下手すると俺たち全員あの世行きだぜ」
「だが、あの槍の壁を抜けるのは難しいぞ」
朝岸友延も困った顔だった。
「向こうは俺たちを包囲して逃がさなければ勝ちなんだ。乱戦を避けて隊列を維持し、無理をせずに槍と矢で洞穴に追い返せばいい。それに比べて俺たちは、あの槍の林と楯の壁を切り崩して逃げ出さなきゃならない」
「ひ、一つ方法がありやすぜ」
その時、万之助の後ろに隠れていた半七郎が恐る恐る言い出した。
「敵に道を空けさせる作戦を思い付きやした」
「お前が? どうせろくな考えじゃねえに決まってるぜ」
万之助はあからさまに疑いの目を向けたが、善晃は驚いた顔をしたものの、「言ってみろ」と促した。
「敵の大将はまだ子供と聞きやした。それでこういうのはどうでしょう」
半七郎が小声で考えを告げると、善晃は桃園家の隊列を見て少し思案し、にやりとした。
「あまりまっとうなやり方じゃねえな。だが、ここで捕まれば俺たちは縛り首で義狼団は解散、灰積家ばかりが得をすることになる。だから、俺たちはなんとしても逃げ延びなきゃならねえ。せこい手段だが、それで行くしかねえようだな」
顔を寄せ合って相談した四人は、すぐに仲間たちを呼び集め、入口の前を固めさせると、洞穴の中に入っていった。