第一章 邂逅 ろ
「では、腕を見られたのですか」
「これはゆゆしき事態だね」
「申し訳ありません。私がお体をお拭きになるための布をお渡しするのを忘れてしまって、取りにいっていたせいで……」
「お主の責任ではない。わしらは皆油断しておったのだ。まさか屋敷の裏から塀を乗り越えて入り込んでくる者があろうとはのう」
気が付くと、煕幸は手足を縛られて古びた畳の上に転がされていた。薄く目を開けると、そこはあの古い屋敷の母屋の一間らしい十畳ほどの部屋で、すぐそばに五人の男女が一つの灯火を囲んで輪になって座って、何やら深刻そうに話し合っていた。盗み聞きを防ぐためか全ての襖がはずされている。彼等に見付からぬように手足を少しだけ動かしてみて、ほどいて逃げるのは不可能と悟ると、とにかく状況をつかもうと話し声に耳を傾けた。
「やはり殺しましょう。真愛様の秘密は守らねばなりません」
物騒なことを言ったのは、二十五、六歳の鎧武者だった。先程煕幸の腹に一発を叩き込んだ男だ。身なりと口ぶりからすると、どこかの封主家の家老らしい。堂々とした体躯に暗い赤を基調とした立派な鎧がよく似合っていて、きちんと整えられたあまり長くない髪とつり上がった眉からは、きまじめで自分にも他人にも厳しい性格がうかがえた。
「そうだね。貴政の言う通りだ。戦場で敵対したのならともかく、わざわざ縛って連れてきておいて殺すのはどうにも気分がよくないけど、仕方がない」
「私も貴政様と兄さんに賛成します。到底見逃せません」
ということは、この二人は兄妹らしい。兄の方は恐らく馬廻りを務める上級武家で、隣に座る若い家老と同じく二十代半ばだ。身分が上の相手を呼び捨てなので、仲の良い友人同士なのだろう。長い髪を肩の後ろでゆるく束ね、柔和そうな細面に爽やかな話し方でいかにも女人に好かれそうだが、すらっとした長身に緑色の鎧がしっくりとはまっているので武芸の腕もかなりのものだと分かる。妹は十八歳くらいの活発そうな娘で、表情の豊かな顔は兄と違ってやや丸いが充分に美人と言ってよい。橙色の上着と袴に胴当てをし、ぴんと背筋を伸ばして正座しているが、恐らく武者ではなく身分ある人物の侍女だろう。
「しかし、若殿にそのような秘密があったとはな。まだ信じられぬぞ」
若い三人が意見を述べると、五十台半ばと一人だけ年齢が上の武将が、手に持った木製の杯をくいっとあおり、腰の瓢箪からまた注ぎながら、やれやれというように大きく首を振った。どうやら中身はどぶろくらしい。
「真愛様を存在が公表されるまで密かにお預かりしていた鳶瀬家の貴政殿は当然にしても、警護役の泰綱と侍女の七穂も知っておったのだな。正直、わしだけ聞かされていなかったことには腹が立つが、事情が事情だけに理解はできる。だが、それが事実であるならば、この男を生かしておくのは危険すぎるとわしも思う。口を封じるべきだろうな」
この初老の武人は酒好きらしく赤ら顔で、ひげもじゃのあごと勢いよく跳ねた半白の髪が人柄を表している。恐らく家老で、四人の家臣の中で最も地位が高いに違いない。使い込まれた濃紺の鎧と鍛え抜かれた肉体から、戦場慣れした猛者だと分かる。
「永謙さん、今まで黙っていてすみません。おじい様に口止めされていたんです。でも、やはり僕はこの人を殺すのはあまり気が進みません」
唯一煕幸の助命を主張してくれているのは先程風呂場で出会った少女だった。若殿と呼ばれている通りなぜか男装していて自分を「僕」と呼んでいる。長い髪を頭の後方に突き出すように白い布で縛って先を垂らし、水色の上衣と袴に身を包み、高級品の軽そうな赤い胴当てを付けた姿は、どこから見ても初陣を迎えたばかりの若武者だった。少々顔が美しすぎるが、まだ幼さを残す容貌のためか、濃く墨を引いたきりりとした眉と、その下の意志の強そうな大きな目と、意識的に引き締めているらしい凛々しい口元は、十代前半の美少年でなんとか通用するだろう。だが、あぐらをかく様子にはどこか無理をしているような違和感があり、やはりこの少女にはきちんと膝を揃えた正座や、膝から下を両脇へ崩してお尻を付く女の子座りの方がふさわしいのだと感じてしまう。輝翼丸と呼ばれていた白い大きな鴉は、飼い主のすぐ横で、金色に輝く派手な鞘を付けた薙刀の柄に止まって羽根の手入れをしていて、その背を少女の手が撫でていた。
「真愛様、なぜためらうのですか。あの者はあなたが風呂に入っているところをのぞいたのですぞ!」
貴政が腹立たしげに言った。
「こんな男があなたの裸身を目にしたのかと思うと胸をかきむしられるようです! ああ、そのささやかな胸をあの男の視線がはい回っただなんて……!」
「貴兄様、その言い方はやめてください。恥ずかしすぎます」
少女はぞっとしたように身震いし、頬を染めた。その様子から、煕幸は先程風呂場で見た光景を思い出し、少女の胸につい目をやった。胴当てをしているにしても、さほど大きくはなかったがささやかは表現が控えめすぎなあの二つのふくらみがこうして見ると全く分からない。男のふりをしているらしいから隠しているのだろうが、なんだかもったいない気がした。
「真愛様、いつも申し上げておりますが、兄様はおやめください。あなたは名門桃園家のお世継ぎでいらっしゃるのですぞ。もう家老の鳶瀬家の娘ではありません」
丁寧な口調でたしなめた貴政は、またすぐに不愉快そうな表情に戻った。
「若い娘の入浴中に風呂場に入り込むような不届き者はその場で首を刎ねればよかったのです。真愛様がお止めになったので縛って連れてきましたが、そんな必要はなかったのでは?」
と、こちらをにらんだ瞬間、まともに目が合った。少女の胸をよく見ようとしてつい目を開きすぎてしまったらしい。
「お前、気が付いているな!」
貴政が叫ぶと、全員が一斉に煕幸を見た。会話の流れからして彼等の視線が冷やかだったのは当然だが、殺せと主張している者たちに見つめられるとさすがに肝が冷えた。
「おいっ、貴様! 見たのだな?」
「えっ? ええと、あ、あれだね、左腕……じゃなくて、あんまりささやかじゃない胸のことだよね?」
貴政に急に問われてとっさにとぼけようとしたが、雰囲気を悪くしただけだった。
「最低ね!」
七穂という侍女は吐き捨てるように言い、少女は慌てて胴覆いの上から両手で胸を隠した。若い男二人は憎しみに燃えた目で見下ろし、永謙という武将でさえ、呆れ果てたという顔つきだった。
しまった。「何を?」と聞き返せばよかった。
後悔したが、それでもあまり事態は変わらなかっただろう。とにかく、その場の五人全員が、煕幸が鴉のあざを見たことを悟ったのだった。
「よし、殺しましょう」
「そうだね。弁護の余地はないね」
「自業自得です!」
若い三人は冷え切った声で言い放ち、老将も頷いた。が、少女はどうにか衝撃から回復すると言った。
「待ってください。もう少し考えましょう」
「なぜですか! こいつには死刑がふさわしいですよ!」
「さすがに私も殺意を覚えたな」
「そうです。真愛様はおやさしすぎます」
家臣たちの方が主君よりよほど怒っていた。会話から感じていたが、少女は随分と愛されているらしい。
「真愛様は怒っていらっしゃらないのですか」
「もちろんすっごく怒っています! 嫁入り前の乙女が肌を見られたのですよ!」
貴政に問われた少女は叫び、怒りと羞恥に頬を染めたが、すぐに声を落とした。
「でも、この人だってのぞこうと思ってのぞいたわけではないでしょうし、処刑するほどの罪ではないと思います。殺すのは気が進みません」
少女がためらっているのは、どうやら煕幸をかばっているのではなく、死刑や流血が嫌いだかららしい。自分のために人を殺したくないようだ。もしかしたら、人の死について嫌な思い出でもあるのかも知れなかった。
家臣たちが腹立たしげに黙り込むと、少女は煕幸に確認した。
「わざとではないんですよね?」
「も、もちろんだよ。あの離れの中に人がいるとは知らなかったんだ」
煕幸は急いで答えたが、他の四人はだとしても罪は変わらないという顔つきだった。本当に主君思いの家臣たちだ。
「やっぱり。私を見て驚いていたのでそうではないかと思いました。で、でも、それにしてはすぐには出て行かず、私の体をじろじろ眺めていましたよね。特に胸の辺りを……」
あの時の状況を思い出したらしく少女が恥ずかしそうにうつむくと、家臣四人の視線が厳しさを増した。お願いだから僕の立場をさらに悪化させるようなことを言わないでほしいと訴えたかったが、事実なので言い訳はできない。
と、少女もこれでは逆効果だと気が付いたらしく、作戦を変えた。
「そ、そういえば、この人はなぜこんな森の中にいたんでしょう。不思議です。まずはその事情を聞きましょうよ。ねっ、ねっ?」
真愛が懇願すると貴政は仕方がないという顔になったが、考えを変えた様子はなかった。
「確かに、身元を改め、事情を聞く必要はありますな。殺すのはそのあとです」
と言うと、煕幸に怒鳴った。
「どうせろくな理由ではないだろうが、申し開きがあるなら言ってみろ!」
一応は弁明の機会が与えられたことにほっとして、煕幸はこの屋敷の庭にいたわけを説明した。
「実は昼頃、近くの村の前で山賊に囲まれていた娘を助けたせいで、追いかけ回されてここまで逃げてきたんだ。ところが母屋で人声がしたので山賊かも知れないと思って、隠れようとあの離れへ入ったらこの人が……」
「山賊から娘を助けただと? よい人間だと思わせようと、適当なことを言うな!」
「本当のことだよ。詳しい経緯を話すと……」
と言いかけた時、屋敷の玄関の引き戸を開ける音がして、少女と同じかもっと若い武者が走ってきた。
「従兄上、持ってきました!」
「俊政、ごくろうだった」
貴政が差し出された三十枚ほどの紙の束を受け取ると、少年武者は背をぴんと伸ばして「一点報告があります」と言った。
「山中村のそばで二十歳の娘が三人の山賊に連れ去られそうになったそうです。幸い、通りかかった行商人風の若い男が山賊に目つぶしを食らわせて逃がしてくれたので娘は無事でした。村長からは、山賊の横暴は日に日にひどくなっているので早く退治してほしいと請願が来ています」
「そうか。各村に配置する武者の数をもっと増やした方がよいかも知れんな。それは検討しておく。では、戸口の前で誰も入ってこないように見張っていてくれ」
「はいっ!」
俊政という武者は少女に笑いかけ、煕幸を一瞥すると頭を下げて、また走って戻っていった。それを見送った五人はそろって煕幸に目を向けた。
「この少年が言ったことはどうやら事実だったみたいだね」
泰綱は興味を覚えたらしく、値踏みするように煕幸の全身を見回した。少女もびっくりした顔をしていたが、貴政は紙の束を手に持ったまま半信半疑の様子だった。
「だが、その若い男がこいつだという証拠はない」
「あの娘はきっと僕の顔を覚えているよ。左の袂には目つぶしの紙包みがまだ三つ入っているし」
「本当にこの人なのかしら?」
七穂が困惑したように言うと、泰綱がやさしげだが怖い笑みを浮かべて尋ねた。
「でも、なぜ君は目つぶしなんか持っていたんだい?」
「ただの護身用だよ。実際に使ったのは初めてだ」
答えながら、煕幸は背中を冷たい汗が流れ落ちるのを感じていた。貴政が少年武者から受け取ったのは手配書の束らしいのだ。念のためという顔で灯火に当てながら眺め始めた若い家老を横目でちらりと見て目を戻すと、泰綱と視線がまともにぶつかった。
「彼は手配書が気になるらしいね」
「ほほう。やはりすねに傷持つ者なのだな」
処刑する口実を探すかのように、口元に意地の悪い笑みを浮かべて急に熱心に紙をめくり始めた貴政は、十数枚目で突然手を止めた。
「これは! ……信じられん。まさかとは思うが」
驚愕の表情を浮かべた貴政はその紙をよくよく眺め、煕幸の顔と何度も見比べると、それを五人の輪の中心に置いて立ち上がった。そして、近付いてきて煕幸の胸倉をつかみ、着物を無理矢理開いて胸をむき出しにした。
「やはり、こいつ、あの賞金首です……」
貴政の声はかすかに震えていた。その後ろから煕幸の胸をのぞき込んだ他の四人も極限まで目を見開いていた。煕幸の胸の真ん中、左右の脇の中間のところに、黒く大きなほくろが六つあったのだ。特大の一つを中心に、それよりやや小さな五つが線で結べば正五角形をなすように同じ距離を置いて並んでいる。春、吼狼国の空に輝く誰もが知っている星座、桜座にそっくりだった。
「そんな、まさか……!」
少女が息をのんだ。
「間違いありません。似顔絵も似ていますが、このほくろが決定的な証拠です。こいつは懸賞金一千両の指名手配犯、桜満煕幸です」
紙の束を見た時から覚悟を決めていたが、自分を一斉に見つめる五人の視線に、煕幸は目の前が暗くなるのを感じた。
「あなたの名前は煕幸とおっしゃるのですか」
五人はしばらく顔を見合わせていたが、最初に口を開いたのは真愛という少女だった。煕幸は少し考えたが、覚悟を決めて頷いた。
「ああ、そうだ。僕はその手配書にある桜満煕幸だ。間違いなく本人だよ」
最初は何を聞かれようと人違いと言い張るつもりだったが、少女の表情には純粋な驚きと興味に加えて、不可解な好意とすがるような期待が感じられた。先程からただ一人処刑に反対していたことを思い出して、彼女に賭けることにしたのだ。このほくろがある以上、都の龍営に連れて行かれたら人違いだろうと全く気にしない役人たちに磔にされるのは確実なので、助かるにはこの少女が唯一の希望だった。
「本当に……!」
予期した通りの答えだったはずなのに、少女は絶句した。喘ぐように口をぱくぱくさせ、胸を押さえて数回深呼吸した少女は、煕幸の顔をまじまじと眺めながら、丁寧な口調でさらに尋ねた。
「ということは、桜の大軍師様でいらっしゃるのですか」
「君こそ、狼神の巫女姫様ではないのか」
煕幸は逆に聞き返した。
「君の名前は確か真愛と言ったね。君は苔岩公の血を引いているね」
袖のずり下がった左腕へ視線を向けると、少女は急にたじろいで反射的に右手で腕を隠し、みるみる青ざめて、聞きたくないというように顔を背けた。
さあ、どうする。僕をここで殺すのか。僕と同じように天命の刻印を持っている君はどう決断するんだ。
煕幸は相手の反応をわずかでも見逃すまいと、少女の横顔をじっと見つめていた。
それは十年前、降臨歴三五一六年のことだった。第十代安鎮総武大狼将高桐基銀は、父の基尊、号して苔岩を殺してその地位を奪ってからわずか二年にして、暴虐な政と反抗する者たちへの容赦ない弾圧で国中の人々の恐怖と憎悪の対象になっていた。皇城玉都郊外の龍営と呼ばれる高桐家代々の居城は、全国の諸封主が集まって政事を議するこの国の武威の象徴から、連れて行かれたら二度と戻れぬ巨大な監獄になりはて、都の公家たちから諸国の村々の農民まで、基銀の死を願わぬ者はなかった。
そんな中、新しい一年の始まる桜月一日の春始節の朝、都の南にある吼狼国の諸寺院の総本山に白い衣をまとい長い白髪と白いひげを垂らした老人が現れ、桜祭に集まった人々にまぎれて本殿の白壁に長い詩を書き付けて去った。
世に言う真澄大社の天書の内容はこうだった。
やがてこの国に狼神より天命を授かり御使いの加護を受けた巫女姫とそれを助ける大軍師が現れて、暴虐な統治者を懲らしめるであろう。大いなる補翼の巫女姫は必ず暴王の父の血を継いだ孫娘であろう。花の軍師は必ずその身に吼狼国の国花である桜の紋章が刻まれているであろう。暴王の倒れたのち、この国は一層栄えるであろう。
吼狼国神話の主神白牙大神は大きな白い狼の姿をし、多数の青い狼と赤い鴉を従えている。吼狼国の主島臥神島と第二の島御使島はその中で最大だった銀色の一匹と一羽が海に横たわって変わったものとされるため、その老人は大神様のお使いだ、お告げが下ったと都は大騒ぎになった。
だが、それを知った基銀は呵呵大笑し、倒せるものなら倒してみろと言い放つと、自分の姉妹たちとその娘を全て殺せと命じた。同時に、体に桜の花のように見えるあざや染みのある者の捜索が始まり、都では道行く人々がいきなり武者に囲まれて服をはぎ取られる騒ぎとなって、たくさんの人々が無関係を訴えながら殺されていった。
そうして半年たらずの間に、女好きで多数の愛妾を抱えていた苔岩の三十人もいた娘と彼女たちが生んだ五十五人の孫娘は多くが殺されるか自殺に追い込まれたが、一部の大封主たちは自家に嫁いできた苔岩の娘の殺害を拒否し、巫女姫に祭り上げた孫娘を旗印に反基銀の兵を挙げ、全国各地に割拠するに至った。都の基銀は討伐軍を送ったが、多くの大封主家は婚姻などで結び付いた近隣の中小封主家を束ねて頑強に抵抗した上、龍営の軍勢は数と装備の優越から合戦には勝てても、横暴な振る舞いが多く民の支持がなかったために兵糧の輸送などに弱点があって長期戦になると苦しく、相手を完全に滅ぼすことは難しかった。巫女姫を奉ずる大封主家同士の勢力争いも激化し、吼狼国は弱肉強食の乱世となったのだった。
大軍師の桜花の刻印と同様に、狼神の巫女姫には共通する特徴があった。高桐一族は皆左腕にあざを持つが、苔岩の孫娘は特に目立って大きいのだ。形状は様々ではっきりと何かに見えない場合も多いと言われていたが、その中で真愛のあざは明らかに鴉を思わせる。
今、少女の左腕にあざは見えない。白粉を塗り、その上から鴉を止めるための長い革の手袋をしているからだ。きっと今までずっとそうして隠してきたに違いない。だが、煕幸はあの宿命の刻印をはっきりと思い出せた。
「君は僕に天命を受けた大軍師かと聞いたよね」
煕幸は目を逸らしてうつむいている真愛へ語りかけた。
「正直に言うと、違う。僕は偽物なんだ」
「偽物だと?」
貴政が聞き返すと、少女の体がびくりと動いた。
「そうだ。偽物だ。僕の家は貧しい小作農だった。母は父が死んで生活に困窮すると、子供を四人も養えないからと、いやがる僕の胸を釘でほじくってこのほくろを作り、小封主家の城に連れて行った。兵法指南役で軍学塾を自邸で開いていた養父はほくろを見て傷跡だと気付いたようだったけれど、僕を引き取りたいと言い、金を与えて母を帰した。それから母さんには会っていない」
真愛の目が大きく見開かれた。その横顔を見て、煕幸はこの少女もあざのために同じような思いをしたことがあるのだと知った。
「僕はずっとこの偽物のほくろのせいで人々から期待されてきた。そして、僕の都合や気持ちに関わりなく兵法を学ばされ、高桐基銀を倒すのを当然の義務として押し付けられてきた」
周囲に全く期待されないのもつらいことだが、本人の望まぬ大きな期待をかけられるのも苦しいことだ。その期待が見当違いだと知りながら、それを口にすることを許されずに煕幸は生きてきたのだ。
「だけど、今の僕は義務に関係なく基銀を倒すつもりでいる。だから、まだ死ぬわけにはいかない」
「義務に関係なくですか」
少女が驚いて振り向いた。
「そうだ。僕は運命だからではなく、自分の意志で、都に行って基銀を殺すと決めた。必ずやり遂げてみせる」
「どうしてそんなことをするのですか」
その問いを予想していた煕幸は、決意を言葉に込めて答えた。
「姉さんを取り戻すためだ」
「それはお前の姉ということか」
貴政が口を挟んだ。
「そんな個人的なことのために龍営と戦うというのか」
「そうだ。僕のせいで、明世姉さんは基銀軍に捕まったんだ」
煕幸はうめくように言った。心の中では毎日繰り返してきた言葉だが、口に出したのは初めてだった。
「僕のせいで、みんな殺された。姉さんはさらわれてしまった。全部このほくろがあったからなんだ!」
叫んだ途端、不覚にも視界が涙でにじんだ。この半年ずっと抑え込んでいた思いを解き放つと、言葉が止まらなくなった。
「あの日は姉さんの婚儀の日だった。僕が養子になって父さんの跡を継ぎ、ゆくゆくは義妹の和会を娶ると決まったので、姉さんは結婚して家を離れるはずだったんだ。なのに、祝言の最中に基銀の命令を受けた隣国の封主家の軍勢が町を襲い、屋敷に押し寄せてきた。誰かが裏切って僕の存在を密告したんだ。参列者は皆殺しにされ、大人しくてやさしかった和会は僕の目の前で斬られた。父さんは僕だけは守ると言って無理矢理逃がし、時間稼ぎのために抵抗して死んだ。姉さんも僕が見付かりそうになった時に注意を引こうとして捕まった。殺されはしなかったが、都へ連れて行かれて基銀の後宮へ入れられたらしい。僕をおびき寄せる餌にするつもりなんだろう。僕は姉さんを取り戻す。そのために基銀を倒す。だから、ここで捕まるわけにはいかないんだ!」
とうとう涙が一筋頬を伝い、畳に落ちた。
「姉さんは、嘘と期待に耐え切れなくなってほくろは偽物なんだと泣いて告白した僕に、ほくろの有無は問題ではない、そんなことは無関係に僕のことが愛しく、大切だと言ってくれた。その姉さんを僕はひどい目に遭わせてしまったんだ!」
煕幸が口をつぐむと、家臣四人は黙って顔を見合わせたが、表情には理解と同情の色があった。それだけ天命の刻印は重いのだ。多くの民の期待がかかり、たくさんの大封主家が踊らされているものなのだから。
泰綱が静かな口調で尋ねた。
「君がこんな山の中へ来た目的は何だい?」
たまっていた言葉を吐き出して少し気持ちが落ち着いてきた煕幸は、息を弾ませながらどう答えるかを一瞬考えたが、いまさら取り繕っても仕方がないので正直に言うことにした。
「この山にいる義賊の頭に会いに来た」
「なにっ? 山賊に会ってどうするのだ」
若い三人の雰囲気がまた硬くなり、貴政が詰問する口調になった。やはり怒っているのか、当然だろうなと思いながら、煕幸は答えた。
「義狼団に入れてもらうためだよ。あの義賊は総狼将高桐基銀に抵抗する封主家を助けているよね。今は隣の垂氷国で、一ヶ月前から泉代家の城を包囲している龍営側の灰積家の軍勢を、背後を攪乱して邪魔している。噂では灰積家は随分ひどい言いがかりを付けて攻め込んだそうだし、当主将邦については悪い評判しか聞かない。だから、僕も義賊の仲間に入れてもらって泉代家の救援を手伝い、可能なら姉さんの奪還に力を貸してもらおうと思って見伏国へやってきたんだ。でも、この辺りの村で耳にした情報からすると、どうもそれは難しいらしいね」
と、四人を見回すと、貴政が「あんなものは義賊ではない!」と嫌悪を露わにし、泰綱が苦々しげな顔になった。
「あの連中が来てからこの辺りの民は皆怯えている。兵糧集めと称して村にやってきて米や酒を奪い、若い娘を追いかけ回すからだ。被害に遭った村は既に八ヶ所に上っているんだ」
「龍営軍から民を守るどころか、苦しめているんですよ!」
七穂が叫び、永謙が言った。
「わしらはあの『山賊』どもを討伐しにやってきたのだ」
「でも、苦戦しているみたいだね」
言われて、若い三人は悔しそうな顔をしたが、否定はしなかった。
「山賊退治は口で言うほど簡単ではないからね。それに、本音では義狼団を追い払いたくない部分もあるみたいだし」
この見伏国を領する桃園家が灰積家に攻められている泉代家を裏で支援しているという噂を煕幸は聞いていた。泉代家の当主扶成は桃園家の当主真棟の姉を、真棟は扶成の妹を妻にしているのだ。義賊を追い払ってしまえば、必死で籠城戦を戦っている縁戚の封主家をさらに苦しい状況に追い込むことになる。
だが、桃園真棟も灰積家ににらまれるのは怖い。国力が違いすぎるのだ。
灰積家当主の将邦は五十代半ば、もとは高桐家の家老で、反抗する封主家の討伐や民の弾圧で抜群の功を立てた猛将だ。褒美として八岐国の国主の地位を与えられて首の国地方へやってきて、龍営の威光を傘に着て近隣の封主家に命令を下し、従わない家を攻めて領地を奪ってきた。この地域の封主たちのまとめ役である首国探題の鷲松家は将邦の横暴を止めようとしたが、派遣した大軍が将邦の腹心の軍師緑塚貞述の作戦に完敗すると屈辱的な同盟を結ばざるを得なくなり、当主勝嘉は息子の妻と巫女姫として担いでいた孫娘に泣く泣く毒を飲ませることになった。それからわずか五年で四ヶ国を攻め滅ぼした灰積家の領地は今では一百七万貫に達し、命令に従う四封主家の領地も合わせると二百八万貫、現在泉代家の二龍逢城を攻めている兵力は四万六千人に上る。桃園家は三十一万貫の九千三百人で、戦になれば到底勝ち目はない。真棟は鷲松家の敗北後、泉代家と共に積極的に灰積家に協力して、生き残りを図ってきたのだった。
しかし、今回の事態には真棟も対応に苦慮していた。灰積家が泉代家の施政に急に文句を付け、民を苦しめる封主家を討伐し民を保護下に置かねばならんと諸国に動員をかけると、真棟は長年の同盟国の援軍要請を、使者として来た扶成の孫の鎮成に手を付いて頭を下げて断った一方、灰積家に対しても義兄と戦いたくないという理由で兵糧だけ提供して出兵を拒んだのだ。なんとか両方へ義理を立てようとしたわけだが、灰積家から攻囲へ加わるようたびたび催促されて断りづらくなってきているし、かといって協力して泉代家を滅ぼせば、次はこの見伏国へ大軍を向けてくる可能性もあった。最も理想的なのは灰積家が城攻めに失敗することで、そのためには山賊たちに頑張ってもらう必要があるのだった。
「義狼団が本物の義賊なら支援するところだが、あれはただの山賊、暴れたがっている無法者の集団にすぎん!」
貴政が憤然として噂を否定すると、泰綱が自分たちの不甲斐なさへのいらだちをにじませた。
「山賊退治は灰積将邦の要請だ。参陣しないなら山賊をなんとかしろと言われたんだ。我々も領内で暴れられて困っていたので引き受けたんだが、なかなか手強くてね……」
「でも、村人たちは困っているんです。放ってはおけません。ですよね、真愛様!」
七穂に呼びかけられて、煕幸の告白を聞いてから一人だけ会話に加わらずに何かを考えていた真愛は、気が付いて顔を上げ、きっぱりと言った。
「はい。山賊は必ず退治します。この国の民は僕たちが守ります。まじめに正直に暮らしている人々を苦しめるなんて、絶対に許せません! 人々はただ日々を生き抜くことに一生懸命なのに、それを勝手な理由で邪魔をして、平穏な生活を脅かし、ささやかな幸福を壊すなんて、人として間違っています。きつく懲らしめてやるべきです!」
少女の口調には本物の怒りが込められていたので煕幸は驚いた。どう見ても上級武家の箱入り娘なのに民のことを本気で案じているようだ。他の四人も怒っているが、それは民を守るのは武家の務めだとか非道は許せないという言わば義憤で、自家の領内で勝手をされたくないという考えも見え隠れするが、真愛は民を自分の親類のように思っているらしかった。
どうしてそこまで民の心配をするんだろう。桃園家の都合から言えば、ほどほどに苦戦した方がいいんじゃないのかな。
その疑問が顔に出たのか、真愛が言った。
「私は桃園領のはじっこの小さな村で育ちました。最近まで自分が領主の血を引いているなんて知りませんでした。三ヶ月前、急におじい様の使者が来て、母の弟が亡くなって跡継ぎがいなくなったからと、城に呼び戻されたのです」
なるほど、だからこの少女は桃園家三十一万貫の世子でありながら、農村の民の暮らしを実感としてよく知っているのか、と煕幸は納得した。
「真愛様。そんなことまで教える必要はありません。どうせ我々はこの男を殺すのですから」
貴政が言った。
「それに、もう山賊を討伐する必要はなくなりました」
何かを諦めたような口ぶりに、ああ、やっぱり、と思った煕幸を、貴政は哀れみと罪悪感のまじり合った表情で見た。
「この男を都の龍営に連れて行き、手配犯捕縛の手柄と引き換えに、灰積家に泉代家と停戦するように命じてもらいましょう。そうすれば泉代家を救えますし、灰積家が撤兵すれば山賊もいなくなるでしょう。生かしたまま差し出すのが最もよいのですが、真愛様の秘密を知られてしまった以上、それは難しくなりました。ですが、死体でも効果はあるはずです」
「そうだね。もしくは、舌を抜いてもいいかもね。どうせ磔にされるんだし」
泰綱が涼しい顔でひどいことを言ったが、いかにも不快そうな口ぶりだったので、気はとがめるらしい。
「先程の話にはちょっと同情しましたが、それしかないでしょう」
七穂は煕幸の口の辺りをちらりと見て慌てて目を背けた。
「当家のためにも若殿のためにも、それがよかろうな」
永謙は平然と言って、杯を口へ運んだ。やはり戦場慣れしているらしい。
「ちょっと待ってよ。僕はまだ死ねないと言ったはずだ」
煕幸は抗議したが、四人は目を逸らした。貴政が言った。
「仕方がないのだ。桃園家三十一万貫と泉代家三十五万貫の命運がかかっているのだからな。桜の刻印を持つ者を殺すのは吼狼国の民として悔しく情けないが、他に方法がない」
「そうだね。後味は非常に悪いけど、幸運が舞い込んできたと思おう」
「あまり気は進みませんけど……。真愛様もそれでよろしいですね?」
七穂が確認すると、真愛は思い詰めた顔でじっと煕幸を見て、「いいえ」と言った。
「この方は龍営には引き渡しません」
「真愛様、お気持ちは分かりますが……」
貴政が諭そうとしたが、少女の表情を見て言葉をのみ込んだ。
少女はきちんと正座して姿勢を正すと、手を付いて深々と頭を下げた。
「桜満煕幸さん。あなたにお願いがあります」
少女は顔を上げると真剣な表情で言った。
「私たちに山賊退治の作戦をお授けください」
「えっ?」
煕幸はびっくりしたが、少女はさらに言った。
「あなたは桜の大軍師様なのでしょう。その知恵を分けてください」
「いや、さっきも言った通り、僕は偽物なんだけど……」
戸惑う煕幸にかまわず、真愛は言葉を続けた。
「私は山賊の被害を知って、この国の人々を救うために討伐隊の長を志願しました。おじい様には『未熟な孫が手こずっている』と灰積家へ言い訳ができますと申し上げて許可を頂きましたけれど、私は本気で山賊を退治するつもりです。でも、彼等はいつどこへ出てくるか分かりませんし、出たと聞いて駆け付けてもすぐに逃げてしまい、鎧の重たい武者では追い付けません。このままでは民の苦しみはなくならないと途方に暮れていたのです。でも、そこにあなたが現れました」
真愛は煕幸の心の奥底をのぞき見るように目を見つめてきた。
「あなたはお父上について兵法を学んでいたとおっしゃいました。ですから、私たちより軍略に明るいと思います。その知識と知恵で山賊を捕まえてください。それができたら助命するとお約束します」
「真愛様、お待ちください!」
貴政が我慢し切れなくなって口を挟んだが、少女の「貴兄様は黙っていてください!」といういつになく厳しい声に黙り込んだ。
「あなたはお姉様を救うと決めたのでしょう。龍営の奥にいる人を救い出すのは至難の業です。それに比べれば、山賊退治など簡単なことではありませんか」
簡単じゃない、と言いたかったが、少女の表情には安易な返事はできないと思わせる迫力があった。
「実は、私のあざも偽物なのです」
「真愛様、それは……!」
七穂が止めようとしたが、少女は言葉を続けた。
「あざは生まれた時からありましたが、幼い頃はごく薄く、形も不明瞭で目立ちませんでした。ですが、あの天書の噂が広まった時、私はいたずらのつもりで腕に鴉の形に葉っぱを並べて糊で貼り付けたら取れなくなり、かぶれて腫れ上がってしまいました。幸い完治しましたが、その跡がこのように残ったのです」
今度は煕幸が息をのむ番だった。その顔をじっと見て真愛は言った。
「つまり、このあざは後天的なものです。私は天命を受けてはいません」
若い三人の家臣は知っていたらしく貴政と七穂はこの告白に思わず天を仰ぎ、泰綱はそれは違うと言いたげな様子だったが、永謙はむしろ面白そうな表情になった。
「ですから、私はあなたが本物でなくても気にしません。私が信じるのは、村娘を山賊から助けたという事実です。あなたにお願いするのは、吼狼国を救うことではなく、その兵法の知識で私たちが今困っている問題を解決することです。それができましたら、あなたを助命し、保護すると約束します。たとえ偽物であろうと、桜の刻印を持つあなたを私たちも殺したくありません。さあ、あなた自身の知恵を見せてください!」
「そんな……!」
言い返そうとして煕幸は絶句した。真愛は煕幸が偽物と分かった上で、軍師としての実力を見せろと言っているのだ。
はっきり言って、少女の要求は無茶だった。煕幸は養父の元で兵法を学んでいたが、実戦に出たことはない。しかも、相手が山賊では通常の軍学の知識は役に立たないだろう。
だが、やるしかなかった。姉のため、見伏国の民のため、何より自分自身のために。
煕幸は自分の覚悟が試されていると思った。姉と家を失い諸国を流浪するようになって半年、毎日を生き延びるだけで精一杯で、姉を救出する具体的な行動を起こしてこなかったことは自覚していた。だからこそ義狼団を頼ろうとこの国へやってきたのだが、少女の言う通り、この程度のことをできないようでは姉の救出など不可能に違いない。何より、姉を救うにはまずここを生き延びなくてはならなかった。
美しい少女の形をした運命は息をのんで答えを待っている。
この子は僕を信じると言ってくれた。だから僕も自分を信じよう。自分を信じられなくては何もできない。僕は本当の覚悟を決めなくてはいけないんだ。
そう決意すると、煕幸は深呼吸を一回して顔を引き締め、少女の目を正面から見返して尋ねた。
「さっきも言ったけど、僕は偽物で、到底本物の大軍師になれるとは思えない。君には自分が巫女姫だという確信があるのかい」
真愛は首を振った。
「いいえ、全くありません」
「やはりそうか」
少女の返事は煕幸の予想通りだった。
「僕たちは似ている。皮膚に付いたただの染みのせいで周囲から勝手に期待され、重荷を押し付けられながら、自分にそれだけの力があると思えないところがね」
真愛はじっと煕幸の言葉を聞いている。
「きっと、僕は桜の大軍師ではない。だから、天才的な何かを期待されても困る。僕にできることは、僕個人としての協力だ。桜満煕幸という十七歳のただの浪人の力でよければ、君たちに貸そう」
「それで充分です。私はあなたという人が知りたいのです」
「僕も君のことが知りたい。きっと僕たちは協力し合えると思う。同じように重い印を体に刻まれてしまった仲間なのだから」
「仲間ですか」
少女は驚いたが、すぐに理解した顔になった。
「そうかも知れませんね」
「その依頼を引き受ける。必ず山賊を退治してみせるよ」
「あなたを信じます」
真愛は頬を染めて花のような微笑みを浮かべ、大きく頷いた。
「山賊退治が終わるまで、あなたを殺さないでおきます。山賊がいなくなって村々の安全が確保されたら解放してあげましょう。お風呂をのぞいたことも許してあげます。でも、それまでは私のそばにいてもらいます。もちろん、逃げられないように監視は付けます」
「分かった。逃げないと約束する」
「それも信じましょう」
言い切った少女は、つぶやくように小さく付け加えた。
「きっとあなたは成功する気がします。そして、その時は、私も自分の刻印に向き合えるかも知れません」
意志の強そうな瞳がゆるみ、口元のやや気弱な笑みに煕幸が目を引き付けられた時、二人のやり取りに唖然としていた貴政が割って入った。
「真愛様、危険です!」
貴政は叫んだ。
「会ったばかりの男を信用しすぎです。この男が山賊のねぐらに駆け込んで真愛様のことをしゃべったらどうしますか。その場合、山賊全員を捕らえて殺さなければならなくなります。やはり、口を封じておくべきです」
「そうです。ご再考ください」
七穂も懇願した。風呂場の件をまだ怒っていて煕幸を胡散臭く思っているらしい。
「俺は真愛様に賛成だな。舌を抜くよりその方がいいね。残酷なことは嫌いなんだ」
泰綱は冗談めかして言ったが、面白そうだと思っている様子の一方で、殺さずにすんで結構本気でほっとしているらしいことが表情から見て取れた。
「海老間様もやめた方がいいと思われますよね?」
七穂に問われた永謙は、杯に酒を注ぎながら煕幸にちらりと鋭い視線を投げると、「いや、わしはかまわない」と答えた。貴政と七穂は驚いたが、永謙は真愛の考えに従うつもりらしい。
「やってみて損はなかろう。失敗した時はこの男を龍営に差し出せばよい。それに、わしもこやつの立てる作戦に興味がある」
そう言われて二人も渋々納得した。山賊を退治でき、天命の刻印らしきものを持つ人物を殺さずにすめば、その方がよいに決まっている。
「では、討伐作戦の現状と知っている限りの山賊の情報を教えてほしい。それから、寝たままじゃ話しにくいから、体を起こすのを手伝ってくれないか。縛られていて自由がきかないんだ」
頷いて立ち上がった泰綱に引き起こしてもらうと、煕幸は全員の顔を見渡し、少し考えて尋ねた。
「まず、山賊の数を知りたい」
「約千人だね」
泰綱は即答した。
「それは確かな数字なのか」
「ああ、間違いない。これまで襲われた灰積軍の情報から、背後を攪乱している山賊が五百人を超えるのは明らかだ。今彼等の主力は出撃しているが、ここのところの動きを見ると、まだこの辺りに三百人はいるようだ。大目に見積もっても合わせて千人くらいだろう」
「ということは、敵は今二手に分かれているのか」
「そうだ」
貴政が言った。
「だから、この山にいる連中を全部捕まえても三分の二は残ってしまう。出て行っている者たちがいつ戻ってくるか分からないから、攻撃中に背後を襲われる危険もある」
「こちらの兵力は?」
「灰積家に本腰を入れていると思わせるために一千五百で出陣してきた。山賊相手にあまり大人数というのも外聞が悪いから、これ以上の増援は無理だな。二百は兵糧などの輸送の警護、三百は周辺の村々を巡回して警戒と情報収集、残りの一千が我々と共に山を捜索している。この屋敷のすぐ下に川があって、河原に野営しているのだ」
自分が一千人の軍勢の本陣に忍び込んだと知って、煕幸は苦笑いした。
「討伐を初めて何日になる」
「今日で五日目だ。山賊がどこに現れるか分からない以上、ねぐらを制圧するしかないと考えて武者たちに探させているが、なかなか見付からない。泉代家領との境になっている縁神山脈は森が広くて深い。しかも、切り立った崖に無数の洞穴があって天然の隠れ家になっている。そのどれかなのだろうが、連中は地元の猟師でさえ立ち入らないような奥まったところにわざと本拠を置いたらしい。この山に詳しいと村長が推薦した穴熊狩りの名人に案内を頼んで大きな洞穴を片っ端から調べているが、穴の数が多すぎて見付け出すにはまだまだ時間がかかりそうだ。向こうも警戒していて、少人数で調べに出すと襲われるし、かといって大勢で動いては見付かりやすい上に効率が悪く、捜索範囲を広げられない」
「それで打つ手がなくて困っていたところなのだ」
永謙が赤い顔で深い吐息をもらした。
「討伐の成果は上がっておらぬ。わしらが出て来たことを知っても、連中は今日お主が出くわしたように、いまだに人里近くに現れて民を困らせておる。今日は村人の急報で駆け付けた武者が一人を捕らえることに成功したが、大した打撃にはなっておらぬだろうな」
「武者の方々は頑張っているんです」
七穂は仲間をかばった。
「皆さん、村人たちから聞いた山賊の無法ぶりにかなり腹を立てていましたから。北国の首の国でもようやく桜が咲いて随分温かくなり、快晴続きで日差しが強いのに、毎日重い鎧を着て汗だくで山を歩き回ってくれています。でも、川で水浴びができる武者たちと違って真愛様は体を隠せる場所が必要です。そこで、ここを使うことにしたのです」
「なるほど……」
「どうかよい作戦をお授けください」
思い詰めた表情の真愛に見つめられて、煕幸は考え込んだ。そして、「ううん」とうなりながら、そんなに簡単に名案が浮かぶものかという顔つきの貴政を見、興味深げにこちらを観察している泰綱を見、真愛様の入浴中をのぞいた変態を信用してよいのかと悩む七穂を見、黙って酒を飲んでいる永謙を見ると、いつの間にか主人の膝に卵を抱くような格好で澄ました顔をして座っている輝翼丸へ目を向けた。
遠くで狼の遠吠えが聞こえている。今日は雲一つない快晴だったので、この屋根の上はあふれるような星空だろう。そう思い、首を右に傾け、左に傾け、前へ倒し、後ろに倒し、元に戻した煕幸は、大きく頷いた。
「状況は分かりました。では、こういう作戦はどうでしょうか」
煕幸の策を聞いた五人はびっくりして顔を見合わせた。
「なるほど。一応筋は通っているな。試してみる価値はありそうだが……」
「うん、なかなかいい考えだと思うよ」
「……もしかすると、この方は本当に大軍師様かも知れませんね」
貴政は悔しそうに渋々承認し、泰綱は感心したらしく楽しげに頷き、七穂は認めたいような認めたくないような複雑な表情だった。
「よし、では、その作戦で行くとしよう。真愛様、よろしいですな」
永謙に確認されて少女は首肯し、煕幸を見て言った。
「大軍師様にお任せすると決めたのですから、ご指示に従いましょう」
それから六人で相談して細部を詰めると、貴政と永謙は武者たちに指示を伝えに行った。真愛と縛られたままの煕幸は、運ばれてきた握り飯を食べると、護衛兼見張り役の泰綱に「明日のためにもうお休みください」と言われて、その場で横になった。
だが、煕幸はなかなか寝付けなかった。自分の作戦がうまく行くか心配だったのだ。手首を縛られている煕幸に役目だから仕方がないという顔で握り飯を食べさせてくれた七穂も出て行き、泰綱は剣を抱えて目をつむっている。疲れていたのか厚い布をかぶるとすぐに寝息を立て始めた真愛の横顔を眺めながら、煕幸は長いこと自分の作戦に穴はないかと考えていたが、山賊との追いかけっこの疲労もあって次第にまぶたが重くなり、やがて眠りに落ちていった。