第一章 邂逅 い
『花の軍師と白翼の姫』 第一話 吼狼国図
「えええっ……!」
春の夕刻、荒れ果てた古い屋敷の広い庭で、十七歳の浪人桜満煕幸は、素っ頓狂な声で叫んでしまった。小さな離れの戸を開いたら、目の前に十五、六歳の美少女が一人、全裸でしゃがみ込んでいたのだ。
肩に湯をかけようとしていた桃園真愛は、煕幸を見上げて呆然とした。が、一瞬ののち我に返ると、顔を真っ赤にして悲鳴を上げて木の桶を放り出し、胸を両腕で覆いながら前かがみになって叫んだ。
「いやあ、見ないで! 変態!」
これが二人の最初の出会いだった。このささやかな出来事は、四千年を超える吼狼国の歴史においてたびたび起こった重要人物同士の運命的な邂逅の中で、最も間抜けで色っぽく滑稽なものとして、後世の人々に長く語り継がれることになった。だが、間違いなくこの事件こそが、十年に渡って続いていた吼狼国の戦乱が収束へ向かうきっかけとなったのだった。
「あれは山賊か。こんな場面にぶつかるとは」
降臨歴三五二六年桜月二十九日の昼過ぎ、桜満煕幸は首の国地方の一国見伏国の細い山道でつと足を止めた。山中村という小さな村のそばで、二十歳前後の娘が三人の怪しげな男に囲まれていたのだ。
男たちはざんばら髪に鉢巻、古びた着物に動きやすそうな短い袴、腰に帯びた実用重視の安物の刀という姿だった。娘は恐怖の表情を浮かべ、足下に転がった大きな籠からわらびやぜんまいがこぼれている。状況は一目瞭然で、山菜摘みの帰りに山賊に見付かってしまったのだろう。
正直面倒事には関わりたくなかったし、腕っ節にはあまり自信がないのだが、煕幸には同じ年頃の姉がいる。捕まった娘がどうなるかを考えるととても放ってはおけない。煕幸は溜め息を一つ吐くと、四人の方へ歩いていった。
山賊たちは煕幸に気付いて顔を見合わせ、一人が娘の腕をつかんで捕まえておいて、他の二人が腰の刀に手をかけながら近寄ってきた。
「てめえ、何者だ。どこから来た」
「ただのしがない行商人でございます」
煕幸は怯えた様子を作って山賊たちに丁寧にお辞儀をした。商人風の地味な旅装に短い脇差を一本帯びているだけだし、友人たちから坊ちゃん顔で武家らしくなく、年齢より幼く見えると言われていたので、この変装には自信があったのだ。
「お願い、助けて!」
叫ぶ娘をちらりと見て目を伏せ、そのまま通り過ぎようとすると、案の定、山賊たちはよい獲物と思ったらしく、荷物を置いていけと命じた。
「命だけはお助けを!」
煕幸は懇願しながら着物の袂に手を入れて、大福くらいの大きさの丸い紙の包みを二つ取り出した。
「これを差し上げますから、どうかお許しください」「なんだそれは。薬か?」
「いいえ。これはこう使うんです」
と言って両手に一つずつ握って顔をそむけ、左右からのぞき込む男たちの目の前でぶつけ合わせて破裂させた。
「くっ、目つぶしか!」
飛び散った刺激の強い粉に二人の男が目をやられてひるむと、煕幸はもう一人に向かって駆け出した。
「ちいっ!」
娘から手を離した男が刀を抜き終える前に、煕幸は全身で体当たりをしていた。もつれ合って倒れた煕幸はすぐに体を起こし、男の鼠を思わせる顔に目つぶしの包みをこすり付けながら、娘に向かって叫んだ。
「走れ!」
驚いていた娘ははっとして頷き、籠は捨てて村の方へ駆けていった。煕幸は男の腕を振り払って立ち上がり、起きようとする男の腹を思い切り蹴り付けると全力で逃げ出した。
山賊たちは激怒して追いかけてきたので、そのあと山中を逃げ回ることになった。散々走ってどうにかまいたものの、道に迷ってしまった。そうして、広い森をさまよい歩いた末、夕刻になって、小山の中腹に一軒だけぽつんと建っている荒れ果てた大きな屋敷を見付けたのだった。
ここなら身を隠して一夜を過ごせそうだと思い、煕幸はほっとした。もうへとへとだったし、この辺りの山は狼が多く、あちらこちらで吠える声が聞こえていて野宿は避けたかったのだ。狼は吼狼国では神獣で信仰の対象だが、夜に山の中で会うのはうれしくない。念のため辺りの様子をうかがってから、崩れかけた土塀をよじ登って中に入り、広い庭と小さな離れを見回していると、母屋の中で話し声が聞こえて、段々近付いてくるのが分かった。
「しまった。誰かいるのか」
煕幸はがっかりし、もしかしたら山賊のねぐらに侵入したのかも知れないと考えてぞっとした。そうでなくても全国に賞金付きで手配書が回っている身なので、できるだけ人に会いたくない。
隠れる場所を探したが、この庭は暗い夕空を映す瓢箪型の池を中心に周囲は白い砂をまいてある形式で、大きな岩や背の高い植え込みはなかった。母屋と離れをつなぐ飛び石が途中で瀟洒な短い石橋になっていて、そのたもとに満開の大きな桜がほの白く浮き上がって見えているが、幹や花の陰に隠れるのは無理そうだ。かといって、土塀のこちら側には足がかりになりそうなものが見当たらず、再びよじ登るのは難しい。となれば、一間程度の大きさの小振りな離れの中に身をひそめるしかなかった。
「仕方がない。しばらくそこの小屋に隠れよう」
煕幸は急いで裏口らしい側面の引き戸に駆け寄り、できるだけ静かに素早く開くと、勢いよく中へ飛び込んだ。
「えええっ……!」
一歩足を踏み入れた瞬間、予想外の光景に、音を立てないようにしていたことも忘れて素っ頓狂な声で叫んでしまった。一本の蝋燭の小さな灯りに照らされて、目の前に十五、六歳の美少女が一人全裸でしゃがみ込んでいて、木の桶を両手で持って肩に湯をかけようとしていたのだ。
「風呂場だったのか!」
煕幸は仰天したが、少女はもっとびっくりしたらしかった。煕幸を見つめたまま体を隠すのも忘れて固まっている。煕幸は慌てて、すぐに目を背けなければ、と思ったが、少女の驚いて呆けた表情がかなり可愛かったので、つい好奇心に負けて相手をじろじろと観察してしまった。
その少女は随分と整った顔立ちをしていた。卵形の輪郭はやや幼さを残しているが、深く大きな黒い目や、細い眉、小さな口は意志が強そうで、かわいらしさや可憐さと、凛々しさやたくましさという矛盾しそうな魅力を合わせ持っている。色白だが頬は健康そうにほのかに赤く、肌には張りがあり、艶やかな黒髪は蝋燭の光に輝きながら腰まで豊かに流れ落ちていた。運動を好むのか体はほっそりと引き締まっていて背はやや高い。胸は年齢相応に膨らんでいるがあまり豊かな方ではなかった。全体の雰囲気から大切に育てられきちんと躾けられてきたことが分かるが、純朴そうで親しみやすい感じもするので、この地方の名家の娘なのだろう。この少女がもっと成長すれば美貌に一層の磨きがかかるはずで、数年後には見伏国一の美姫と呼ばれるに違いなかった。
煕幸は一瞬でこれだけのことを見て取ったが、その間少女は微動だにしなかった。が、肩の上の桶がぐらりと傾いて熱い湯が一気に体を流れ下ると、少女はびくりとして我に返った。そして、顔を真っ赤にして「きゃあ!」と悲鳴を上げ、木の桶を放り出すと、膝をぎゅっと合わせて胸を両腕で覆いながら、前屈みになって大声で叫んだ。
「いやあ、見ないで! 変態!」
念のために断っておくが、煕幸は変態ではない。見知らぬ少女の入浴中をのぞくようなことは普段は決してしない。だが、それでも少女の白い裸体から目を離すのがつらかったことと、相手の少女にそれだけの魅力を感じたことは告白しなければならないだろう。
「さっさとここから出て行って! この助平!」
罵られた煕幸はむっとしたが、すぐに自分の態度がほめられたものでなかったと悟り、赤面した。
これ以上は見ちゃだめだ。礼儀として目を逸らさないと。
自分を説得するには意外なほどの努力が必要だったが、どうにか未練を断ち切って顔を背け始めた煕幸は、最後の一瞥を名残惜しげに少女の胸元へ向けた。と、その瞬間、あるはずのないものが目に映って、煕幸は、おや、と思い、首の動きを止めた。そして、顔を戻して今度は意図的に少女の肌に目を凝らした。といっても、見つめた先は両腕の間に見えるささやかな谷間ではなく、水のしたたる少女の左手首だった。正確には、白く細い手首の少し上、肘との中間地点だ。そこに薄い墨のような色の大きなあざがあったのだ。湯ではがれた白粉の下から現れたそれは、まるで横を向いて翼を広げた鴉のような形で、大空を翔る鳥の影が腕の上に落ちてそのまま染みついてしまったかのように見えた。
「鴉の形のあざ? まさか!」
思わず口走ると少女が顔色を変え、慌てて左腕を右手で握って隠した。その面に現れた恐怖と自らの失策に対する後悔から、煕幸は見間違えではないことを確信し、一層驚きを深めて少女をまじまじと見つめた。
「君は、一体……」
問いかけようとした時、庭で若い男の声が聞こえた。
「真愛様、どうかなさいましたか。今の悲鳴は何ですか」
母屋の方から誰かがこちらに走ってくる。
しまった。急いで逃げないと。
煕幸は自分が追われていたことを思い出した。少女のあざに疑問は残るが捕まるわけにはいかない。煕幸は少女に背を向けると、とにかくここを離れよう、どこかで土塀を乗り越えてまた森の中へ戻ろうと、入ってきたばかりの離れの裏口を飛び出した。
が、その瞬間、煕幸はのけぞり、慌てて後ろに飛び下がった。目の前を白く輝く大きな影がいきなり横切ったのだ。すぐに再び上昇していくそれを見上げて煕幸は目を見張った。大きな白い鴉だったのだ。両翼を開いた長さが煕幸が両手を広げたほどもある。
先程目の前をかすめた光るものが鴉のとがった白いくちばしと脚の鋭い爪だったと知って、煕幸は青ざめた。体が大きいだけにくちばしも爪も普通の鴉より随分と太く長い。そんなもので顔をつつかれ引っかかれたら、たんこぶやみみず腫れ程度ではすまないだろう。鴉は上空で旋回しながら次の攻撃の機会をうかがっている。
「輝翼丸!」
煕幸が立ち止まったので、少女は一層体を縮めて前を隠しながら顔だけ外をのぞき、上空を舞う鴉を見てうれしげに声を上げた。すると、鴉も答えるように大声で、かあ、と鳴いた。
この子が飼っている鴉なのか! では、主人を守ろうとしているのか!
鴉の怒った様子に煕幸はぞっとしてあとずさった。少女はそれを見て元気を取り戻し、そばにあった柄の長い木のひしゃくを右手に握って円を描くように数回振り回すと、先をぴたりと煕幸に向けて、怒りに燃える声で鴉に命令した。
「輝翼丸、やっつけちゃって!」
鴉は承知したとばかりに一声鳴くと、風を切って急降下してきた。
「いてっ! いててっ! ひいっ! こ、こっちへ来るな!」
頭を激しくつつかれて、煕幸は悲鳴を上げながら逃げまどった。自分では冷静沈着な方だと思っていたし、実際滅多なことでは慌てないのだが、この時は本当に焦った。何せ、鴉はすぐ頭上で浮かぶように飛びながら、追い払おうと煕幸が振り回す両手を軽々とかいくぐって、頭蓋骨に響く一撃をくちばしで連続して加えてくるのだ。爪も隙あらば引っかこうとねらっている。吼狼国では鴉も狼と同じく神の使いとされるが、夕闇の中、風呂場のわずかな光りに全身を銀色に輝かせたこの桁はずれの大きさの鴉は、神々しいほどに美しく、そして恐ろしかった。
「待って、待ってくれ! ごめん。のぞいてすまなかった。謝るから勘弁してくれ!」
謝罪の言葉を口走りながら、煕幸は両手で頭を抱えて風呂場の中へ逃げ込んだ。とにかく屋根の下に入りたかった。もう声を抑えることも自分が追われていることも忘れていた。中まで付いてきた鴉に急かされるように、身を縮めて警戒している少女の前をよろめきながら通り過ぎ、浴室を出て脱衣所を横切り、玄関の狭い土間まで来ると、外へ出たらすぐに戸を閉めて鴉を閉じ込めようと考えながら、引き戸を勢いよく開いた。
だが、駆け出そうとした煕幸は、硬いものにぶつかってはね返された。見上げると、立派な体格の鎧武者が立っていた。
「しまった!」
つぶやくと同時に、重いこぶしが腹にめり込んだ。
「捕まるわけには……」
うめくように言いながら、煕幸はそのまま土間に崩れ落ちて意識を失った。