第6話 浅草デイライト
浅草寺の雷門をくぐった瞬間、世界は極彩色の濁流に飲み込まれた。
仲見世通りの赤い柱が延々と続き、その間を埋め尽くす色彩豊かな人の波。頭上には季節外れの桜(造花だ)が揺れ、ナトリウムランプの下とは違う、生々しく、暴力的なまでの「昼の熱気」が肌を刺す。
「……ああ、やっぱり平日に来るべきだった」
アカリはチャコールグレーのパーカーのフードを深く被り、周囲の自撮り棒を器用に避けながら呟いた。
手元の紙袋からは、揚げたての「浅草メンチ」の暴力的なまでに食欲をそそる香りが漂っている。サクサクの衣の中に閉じ込められた肉汁と玉ねぎの甘み。これを、ただ平和に、誰にも邪魔されずに完食する。それが今日の彼女の、全霊を賭けた「休日」のミッションだった。
普段の烏天狗の装束も、重い実務も、今日は高尾の山に置いてきた。デニムにスニーカー、そしてこのパーカー。アカリは今、単なる一人の「腹を空かせた二十代の観光客」でしかない。
「にゃっ!? にゃにゃにゃっ、どいてにゃーー!!」
突如、アカリの耳元を、カミソリのように鋭い叫び声が掠めた。
視界の端、オレンジ色の閃光が走る。
谷中に、妙に評判の猫又デリバリーがいるという話は前から聞いていた。早いとか、なぜか届け切るとか、その代わりに周囲が少しだけ大変なことになるとか。
ただ、高尾山はそもそも彼女たちの営業圏外だ。頼んだことはないし、顔を見るのもこれが初めてだった。
つまり、あれが噂の「ねこまた」というやつだ。
オーバーサイズのパーカーをはためかせ、銀髪の隙間からピンと立った猫耳を覗かせた小柄な影。
彼女は、まるで物理法則を一時的に無視したかのような角度で土産物屋の看板を蹴り、空中を泳ぐようにしてアカリの前へ躍り出た。
だが、その着地は「華麗」とは程遠かった。
「ぎにゃーーっ!!」
彼女が踏み出した一歩。その場所だけ、石畳の継ぎ目がわずかに浮き上がっていた。
スピードを出しすぎていた彼女は、その些細な段差に足を取られ、そのまま派手にダイブする。そして、あろうことか、アカリの足元に頭から突っ込んできた。
「……ちょっと、待って。私のメンチカツ!」
アカリは反射的に紙袋を頭上に掲げ、ギリギリのところで肉汁の惨劇を回避した。
ねこまたは石畳に顔を埋めたまま、二つの尻尾をプロペラのように回して起き上がった。
「にゃ、にゃ、大丈夫かにゃ? ……おやおや、おやおやおや、その黒いお羽、烏天狗の方ですにゃ? どうもお勤めご苦労さまですにゃ」
「あ、どうも……って、そうじゃなくて……。あと、あんた。今の、わざとじゃないよね?」
「ちがうにゃ! スピード出しすぎて、ちょっと引っかかっただけにゃ。でも、ここに転んでラッキーにゃ!」
ねこまたは、キャップを直しながらニコリと笑った。悪意は微塵もない、純粋な混乱の瞳。
「いや、全然ラッキーじゃないでしょ……」
アカリは溜息を吐いた。
彼女は、妙なところを踏みやすい。
本人はただ走り回っているだけなのだが、その動線がなぜか、街のあちこちに潜む小さな「火種」や「不調」をひょいと踏み、隠れていたものを表面に浮かせてしまう。理屈ではないが、見ていてどこか落ち着かない偏りだった。
そしてその「不安定さ」の余波は、すでに周囲に現れ始めていた。
ふと、鼻の奥がむずっとした。
花粉? いや、高尾ならともかく、浅草のど真ん中で花粉はない。——空気の方だ。観光客の熱と欲で飽和した何かを、烏天狗の鼻が先に拾っている。仕事の勘が、皮膚から起きはじめていた。
休日に、これは厄介だ。アカリは鼻をこすって、仲見世の奥へ歩を進めた。
*
仲見世通りに並ぶ土産物屋の軒下。
提灯お化けたちが、揃いも揃って目を赤くし、鼻を「スンッ、スンッ」と鳴らしている。
「提灯たちが、くしゃみしそうにゃ? 見てにゃ、あっちもこっちも真っ赤にゃ」
ねこまたが指差した先で、小さな提灯お化けが一つ、盛大にくしゃみをした。
「へっくしゅん!」
ぱちん、と小さな火花が弾けた。続けて、隣の提灯も——
「はっくしゅ!」「くしゅん!」
提灯たちは、一斉に同じ反応をしているわけではなかった。
大きなくしゃみで火花を飛ばすやつ。我慢しようとして涙目になるやつ。小さく「くしゅん」と鳴いて、隣の提灯にぶつかるやつ。なぜか得意げに光って、すぐまた鼻をすすっているやつ。
どれも同じ赤い提灯なのに、妙に性格が違う。
「うわっ、なにこれ、きれい!」「演出? 映えるじゃん!」
観光客たちが立ち止まり、一斉にスマホを構える。提灯お化けたちは構われるとさらにムズムズするらしく、余計に目を潤ませて鼻を鳴らしている。完全に悪循環だった。
「……花粉症?」
アカリは呟いてから、首を振った。
花粉じゃない。提灯の目に涙、鼻に違和感——これはアレルギー反応だ。なんだ、このアレルゲン?
仲見世の空気を、意識して嗅いでみる。
揚げ物の匂い、甘い匂い、汗の匂い、日焼け止めの匂い。人いきれ。それらの下に、もっと掴みにくいものが混ざっている。
楽しみたい。疲れた。暑い。並びたくない。あれ食べたい。あっちも見たい。写真撮らなきゃ。お土産買わなきゃ。もう帰りたい——。
観光客たちが残していく感情の断片。期待、疲労、苛立ち、食欲、購買欲、シャッター音のノイズ。悪意でも呪いでもない。いわば「観光ゴミ」。つまり、感情の埃、塵芥だ。
普段なら、提灯お化けたちがそれを受け止め、内側の火で少しずつ燃やして、浅草の空気へ返している。それが、この街の掃除だ。
けれど今日は、量が多すぎる。熱も、欲も、疲れも、妙な焦りも、全部まとめて流れ込んでいる。提灯たちの体質に合わないものまで混ざれば、そりゃあ鼻もむずむずする。
「掃除が追いついてないんだ」
アカリは、仲見世の提灯たちの赤い目を見ながら、状況を飲み込んだ。提灯お化けたちは苦しんでいるわけではない。ただ、鼻がむずむずして止まらないだけだ。
困った話ではあるが、深刻な怪異事件というよりは——大掃除が必要な状態、だった。
「ねこまた。ちょっとついてきて」
「にゃ? どこ行くにゃ?」
「雷門」
*
雷門前に戻ると、あの巨大な大提灯が見えた。
浅草寺の顔。雷門に据えられるたびに、歴代の提灯から江戸っ子の気風を受け継いでいく付喪神。動けない代わりに、大きい。
その表面に——ほんの一瞬、顔が浮かんだ。
いかつい眉に、四角い顎。赤い顔に太い唇。昭和の映画に出てきそうな、浅草の昔気質なおっちゃんの面構えだ。
大提灯が、低く唸った。
「おう、烏天狗の嬢ちゃんか」
声は太く、短い。アカリを見下ろす目は、不機嫌そうだが悪意はない。鼻の頭が赤い。明らかに、こちらもむずむずしている。
「今日はまた、鼻がむずむずしやがる」
「仲見世の子たちもみんなくしゃみしてますよ。溜まってるんですね、観光の埃」
「連休はありがてえんだがな。置き土産まで多くていけねえ」
「まあ、それでも人が来ねえ浅草なんざ、つまんねえがな」
大提灯が、ぐっと鼻を啜った。表面が一瞬ぶるっと震え、周囲の観光客が「揺れた?」と顔を見合わせる。
「火花くらいなら、江戸の粋ってやつで済むんだがな」
もう一度、ぐっと堪える。
「俺が一発やらかしたら、花火どころじゃねえ。雷門前が丸ごと火の粉まみれだ。洒落になんねぇよ、べらぼうめ」
——確かに。この大きさの提灯がくしゃみをしたら、花火では済まない。
「わかりました。掃除、手伝います」
「悪ぃな、嬢ちゃん。借りは作っとくぜ」
大提灯は短くそう言って、また鼻を啜った。我慢している顔が、妙に人間くさかった。
観光客が落としていく、ささやかな願い、興奮、そしてほんの少しの疲れ。それらが微細な火花となって提灯の紙肌にこびりつき、江戸以来の「粋」をむず痒く刺激しているのだ。
「……よし、掃除、やっちゃいましょう。まだ、あったかいうちに」
*
掃除の手順は、シンプルだった。
溜まった感情の埃を浮かせて、風で抜く。やることは換気だ。
「ねこまた。仲見世の軒下、全部走って。看板の裏、路地の角、提灯の列の下。とにかく走り回って」
「走る? 走るのは得意にゃ! でも、なんでにゃ?」
「あんたが走ると、溜まってるものが浮くでしょ。いつもの、あの感じ」
ねこまたは首を傾げたが、三秒後には全力で走り出していた。
理由を深追いしないのが、彼女のいいところだ。
銀髪の小さな影が、仲見世の軒下を風のように駆け抜けていく。看板の裏、路地の入口、提灯の列の隙間。ねこまたが通るたびに、見えない埃がふわっと舞い上がるのが、アカリの目には見えた。
提灯お化けたちが「スンッ」と鼻を鳴らし、目を丸くする。溜まっていたものが、表面に浮いてくる。
「にゃはは! 提灯の子たちがびっくりしてるにゃ!」
ねこまたは楽しそうだった。彼女にとっては、ただの全力疾走だ。
浮いた埃が、仲見世の上空にうっすらと漂い始めた。
ここからはアカリの仕事だ。
扇子を取り出す。
彼女は一度、息を吸った。
「いくよっ! ——大芭蕉」
アカリは扇子を大きく開き、まず下から上へ——足元の埃を浮かせるように、突き上げる。それから仲見世の通りに沿って、奥へ、奥へと送り出した。
戦闘用の芭蕉じゃない。吹き飛ばすための風じゃない。浅草の空気を通すための風。詰まった路地に、新しい空気を入れるための——大掃除の風だ。
風が、仲見世を吹き抜けた。
ねこまたが浮かせた感情の埃を、風がさらって、空へ抜けていく。提灯お化けたちの赤い目が、一つ、また一つと、元の朱色に戻っていく。
軒先のチカチカが止まる。くしゃみが止まる。
風が通ると、提灯たちはそれぞれ勝手な反応をした。ほっとして舌をしまうやつ。ぺこりと頭を下げたように揺れるやつ。気まずそうに火を小さくするやつ。隣の提灯にぶつかって、また小さく「くしゅん」とやるやつ。
仲見世を通り抜けた風は、最後に雷門の大提灯を通過した。
大提灯が、ふうっと大きく息を吐いた。
表面に浮かんでいた顔が、ほんの一瞬、気持ちよさそうに目を細めた。
「ああ、いい風だ」
それだけ言って、顔は消えた。あとには、いつも通りの大きな赤い提灯だけが、雷門の下でゆらりと揺れている。
金色の細かい粒が、浅草の昼空に舞い上がっていった。太陽の光を受けて、ほんの数秒だけ、きらきらと光る。観光客の誰かが「きれい」と言った気がしたが、次の瞬間にはもう、みんな別の方を向いていた。
*
「ふにゃー……走ったらおなか減ったにゃ。なんかいい匂いするにゃ」
ねこまたは、いつの間にかアカリの隣で、鼻をピクピクさせていた。
額に薄く汗をかいて、尻尾をゆらゆら揺らしている。全力疾走の余韻が、まだ体に残っているらしい。
「……ほら。これ、一口あげるから。とっとと配達に行きなさい」
アカリは、ようやく一口も食べられずにいたメンチカツを、半分にして差し出した。
「にゃっ、いいんにゃ!? やったにゃ! お仕事の人はやっぱりいい人にゃ!」
ねこまたは、サクサクの衣をリスのように頬張り、幸せそうに喉を鳴らした。
「おいしー! これ、次の配達先の近くのお店にゃ!」
ねこまたは何かを思い出したように、配達用リュックの脇ポケットを探った。
くしゃっとした、だがどこか洒落たデザインのショップカードが出てきた。オレンジ色の猫のロゴの横に、小さなQRコードが並んでいる。
「助けてくれたお礼に、LINE交換するにゃ。初回配達料無料つきで、お得にゃ」
「……お礼なのか営業なのか、どっち?」
「両方にゃ」
アカリは少しだけ間を置いてから、差し出されたQRコードをスマホで読み込んだ。
高尾まで呼ぶ気はない。
でも、都内で困った時の連絡先が一つ増えるのは、悪くなかった。
「じゃあにゃーー!」
嵐のような去り際。
オレンジ色の影は、人混みの隙間を「偶然」空いたスペースへと滑り込み、あっという間に見えなくなった。
アカリは、ようやく手に入れた平和な一口——温かいままのメンチカツを、じっくりと噛み締める。
肉汁、玉ねぎ、そして初夏の浅草。
仲見世の提灯たちの朱い光が、昼間の陽光の中で、いつもの穏やかさを取り戻していた。掃除のあとの浅草は、少しだけ空気が軽い。
「……よし。次は舟和の芋ようかんだね」
アカリは軽くなった足取りで、午後の陽光が踊る浅草寺の奥へと消えていった。
背後で、一つだけ提灯の舌がペロリと出たような気がしたが、アカリは一度も振り返らなかった。




