エルディオの存在
南部戦線の空気が、変わった。
それは爆発でも悲鳴でもなく、
戦場から音が引いていく感覚だった。
勇者は剣を下ろしたまま、じっと立ち尽くしていた。
斬るべき魔族はまだいる。
だが、彼の意識はすでに別の場所に引き寄せられていた。
(……後方が、騒がしい)
騒がしい、というのは正確ではない。
むしろ逆だ。
魔力の流れが、不自然に乱れている。
「聖女」
名を呼ばれる前から、彼女は膝をついていた。
地に触れ、魔力の残滓を読み取っている。
「……後方部隊が、消えています」
短い言葉だったが、意味は重い。
「消えた?」
剣聖が問い返す。
「壊滅、ではありません。
指揮系統ごと、切り取られたように……」
勇者は理解した。
魔王軍の後方処理部隊。
補給、斥候、連絡――それらを担っていた部隊が、
一個の戦力によって潰された。
「……援軍か」
その言葉は、自然に出た。
南方諸侯軍ではない。
今ここにいる戦力でもない。
つまり――まだ合流していない、誰か。
聖女がゆっくりと頷く。
「個人です。
ですが……魔力の質が、異常に高い」
剣聖が低く唸る。
「高位剣士か。
それも、魔法を併用するタイプだな」
勇者の脳裏に、一つの可能性が浮かぶ。
だが、それはまだ名前を持たない。
(誰だ……?)
分からない。
だが確かに、人間側の戦力だ。
同じ情報は、魔王軍側にも届いていた。
斥候の報告。
途絶えた連絡。
後方から消えた部隊。
それらを総合し、魔王軍は判断する。
――南方諸侯軍に、想定外の援軍がいる。
それは勇者ではない。
だが、無視できない。
そして、彼らは同時に理解した。
勇者も、この異変を察知している。
だからこそ、決断は早かった。
魔王軍主力は、進路を変えない。
南部戦線も、援軍も、
すべてを“横目に”――王都へ向かう。
巨大な魔力の流れが、方向性を持って動き出す。
それを、勇者ははっきりと感じ取った。
「……主力が、動いた」
聖女が顔を上げる。
「はい。
規模が……違います。
これは……軍です」
剣聖が即座に言う。
「王都だな」
否定できなかった。
勇者は、歯を食いしばる。
後方を叩いた援軍。
まだ合流していない、しかし確実に存在する戦力。
(合流できれば……)
一瞬、そう考えた。
その援軍と合流し、
南方諸侯軍の残存部隊を立て直し、
魔王軍主力の側面を突く。
理論上は、可能だ。
だが――
「……間に合わない」
勇者は、そう判断した。
魔王軍主力の進軍速度。
王都までの距離。
そして、援軍の正確な位置が分からないこと。
合流を試みれば、
どちらにも届かない。
「全軍、転進する」
その声に、迷いはなかった。
「王都前で迎え撃つ。
援軍との合流は――諦める」
聖女が一瞬、目を伏せる。
「……分かりました」
剣聖も、何も言わなかった。
それが、最善だったからだ。
南方諸侯軍の残存部隊をまとめ、
勇者は王都へ向かう。
一方で、
後方を突破した援軍――エルディオは、
前線へ急行していた。
彼はまだ知らない。
勇者が、すぐ近くまで来ていたことを。
そして、互いが同じ敵を、同じ瞬間に見ていたことを。
戦争は、判断の連続だ。
そして時に、
正しい判断同士が噛み合わず、
最悪の結果だけが残る。
このすれ違いが、
後に「避けられたはずの合流」と呼ばれることを、
まだ誰も知らない。




