勇者、届かず
血の匂いが、風に混じっている。
鉄が焼け、肉が裂け、土が踏み荒らされる匂いだ。
勇者は、剣を振るいながら、それを肺いっぱいに吸い込んだ。
――いる。
――だが、いない。
視界の端で、黒い軍勢が動くのが分かる。
重装の魔兵、魔獣騎兵、魔導部隊。
確かにそこに“主力”は存在しているのに、
決して、こちらに向かってこない。
「……っ!」
勇者の剣が、目の前の魔族の喉を断ち切った。
血が噴き、身体が崩れ落ちる。
次の瞬間、左から跳躍してきた魔獣を、剣聖の一撃が叩き落とす。
「来ないな」
剣聖の声は、低く、苛立ちを孕んでいた。
「……分かっている」
勇者は答えながら、次の敵に踏み込む。
魔族の小部隊。
斥候。
後衛を守るための“削り役”。
本気で潰しに来ていない。
それが、何より腹立たしかった。
「勇者様、後方より!」
聖女の声が響く。
魔導弾が飛来し、勇者は剣で弾く。
衝撃が腕に走り、地面が抉れる。
「……逃がすな!」
勇者は前に出た。
踏み込み、斬り、突き、薙ぐ。
魔族の血が、何度も視界を染める。
数は、もう分からない。
十か。
百か。
――関係ない。
「止まれ……!」
怒鳴りながら、勇者は突進する。
だが、魔族たちは一定の距離を保ったまま後退する。
「……っ、逃げるな!!」
叫びは、届かない。
敵は、勇者を“脅威”として扱っている。
だが、“排除対象”としては扱っていない。
それが、分かってしまう。
(俺は……釣り餌か)
主力は、勇者を避け、
その横を、後ろを、国土へ向かって進んでいく。
「くそ……!」
勇者は、歯を食いしばった。
目の前の魔族を斬り伏せる。
また一体。
また一体。
倒しても、倒しても、
流れは止まらない。
「勇者様!」
南方諸侯軍の残兵が、必死に踏みとどまっている。
だが、その数は、見る間に減っていく。
「……下がれ!」
勇者は叫んだ。
「ここは、俺が――」
言い終わる前に、兵が倒れた。
胸を貫かれ、声も上げずに。
勇者の視界が、赤く染まる。
「……っ!」
怒りが、爆発した。
「どけぇぇぇ!!」
剣が、光を帯びる。
勇者の一撃が、魔族数体をまとめて薙ぎ払った。
地面が割れ、血と肉片が飛び散る。
剣聖が続く。
聖女が、必死に回復を飛ばす。
――戦っている。
――確かに、戦っている。
だが。
「……来ない」
勇者は、呻くように呟いた。
主力は、遠い。
手が届かない。
「俺は……何をしている?」
問いが、胸を刺す。
守っているのか。
遅らせているのか。
それとも――
ただ、殲滅しているだけか。
魔族が、また現れる。
今度は、数が多い。
「……来い」
勇者は、剣を構えた。
「俺が……相手だ」
魔族たちは、一瞬、動きを止める。
そして――
勇者を包囲しない。
左右に散り、
背後を避け、
前線を横切るように動く。
「……っ、またか!」
勇者は、追う。
必死に、追う。
だが、追えば追うほど、
主力は遠ざかる。
「勇者様、これ以上前に出ると――!」
聖女の制止を、勇者は聞かない。
聞けない。
(……逃がすわけにはいかない)
アレインの顔が、脳裏をよぎる。
北方公爵の沈黙。
王都の判断。
(……俺が、止めなければ)
剣を振るう。
魔族を斬る。
倒す。
数だけが、増えていく。
だが、戦況は変わらない。
「……くそっ……!」
勇者の声は、怒りと、焦りと、無力感で掠れていた。
魔王軍主力は、
勇者という存在を、完全に“回避”している。
それが、何よりの答えだった。
自分は、勝てる。
だが、止められない。
「……それでも」
勇者は、剣を握り直す。
「目の前の命だけは……!」
魔族が、また迫る。
勇者は、再び踏み込んだ。
主力の背中を、
届かぬまま睨みながら。




