南方諸侯消失
夜明けは、来なかった。
正確に言えば、空は白み始めていた。
だが、誰一人としてそれを“朝”だとは認識していなかった。
ラグルス子爵は、馬上で周囲を見回していた。
昨日まで、確かにここに“軍”があった。
旗があり、陣があり、号令があった。
混乱してはいたが、それでも――
存在していた。
今は、違う。
「……兵は?」
問いかける声が、自分でも驚くほど弱かった。
副官は、答えなかった。
いや、答えられなかった。
視界の先、陣地だった場所は、焼け落ちている。
天幕は炭となり、補給車列は原型を留めていない。
地面には、血と泥と、折れた槍が混ざり合っていた。
「……どこへ行った?」
子爵は、もう一度問う。
返ってきたのは、遠くの悲鳴だった。
「敵襲――!」
声は、途中で途切れた。
魔王軍は、前にいなかった。
左右にも、後ろにもいない。
気づいた時には、もういない。
「……戦っていない」
ラグルス子爵は、呟いた。
「戦場が、成立していない……」
彼らは、隊列を組む前に削られ、
命令が届く前に散らされ、
退却を判断する前に、退路を失っていた。
「殿!」
一人の騎士が、血に塗れながら駆け寄ってくる。
「左翼が……消えました」
「消えた?」
「……誰も、いません」
逃げたのか。
殺されたのか。
その区別すら、つかない。
「勇者様は!?」
「前方で、戦っておられます……!」
それが、唯一の“戦”だった。
だが、勇者の周囲に集まっていた兵も、
一人、また一人と、姿を消していく。
逃げる者。
追われる者。
倒れる者。
だが、どれも“戦死”ではない。
「……これは、敗戦ではない」
子爵は、はっきりと理解した。
「消去だ」
敵は、彼らを倒していない。
通過しただけだ。
その過程で、邪魔になったものが、
ただ――消えただけ。
「殿……」
副官が、声を震わせる。
「王都は……これを……」
言葉の先は、出なかった。
王都は、
この結果を「戦況悪化」と書くだろう。
「迎撃軍壊滅」と報告するだろう。
だが、現実は違う。
迎撃軍は、
戦場に存在しなかったことにされた。
「……撤退を」
子爵は、やっと命じた。
「生きている者は、散開しろ。
固まるな。
街道を使うな」
「殿は!?」
「……私は、ここに残る」
それは、命令ではなかった。
選択だった。
「殿!」
「行け」
子爵は、剣を抜いた。
魔王軍の姿は、まだ見えない。
だが、地鳴りが近づいている。
兵ではない。
世界が、踏み潰される音だ。
遠くで、都市の方角が赤く染まった。
魔王軍は、すでに次へ進んでいる。
迎撃軍は、
止められなかった。
遅らせることすら、できなかった。
「……これが、王国の選択か」
子爵は、静かに笑った。
その笑みは、怒りでも、諦めでもない。
理解だった。
彼らは、最初から数に入っていなかった。
ラグルス子爵が最後に見たのは、
自分の領地の方角だった。
家族の顔が、脳裏をよぎる。
(……すまない)
剣を構えた瞬間、
視界が白く弾けた。
音は、なかった。
その夜、南方迎撃軍は、
戦死者数も、捕虜数も、正確には記録されなかった。
記録に残ったのは、ただ一行。
――南部迎撃軍、戦線より消失。
それが、王国にとっての“結果”だった。




