魔王軍
南部国境を越えた瞬間、空気が変わった。
それは戦場特有の緊張ではない。
抵抗が成立しない場所に足を踏み入れた時の、無音だった。
「進軍速度、落とすな」
第三大将
カイゼル=ロドゥスは、馬上から淡々と命じた。
全身を覆う重装鎧は黒鉄。
装飾は最小限、威圧のための意匠すらない。
必要なのは、強さだけだと知っている将だった。
「迎撃軍、前方二刻」
副官が報告する。
「南方諸侯軍、一万前後。
指揮系統、未統一」
「……王国らしい」
カイゼルは、それ以上の感想を述べなかった。
彼の視線は、地図ではなく、地形を見ている。
街道。
川。
丘陵。
――どこで止まるか。
――どこで潰すか。
「戦列を組ませるな」
「はい」
「前進圧力を維持。
正面衝突は不要」
それは、戦術ですらなかった。
作業手順だ。
魔王軍は、陣形を広げる。
重装魔兵が前列を占め、
魔獣騎兵が左右に散開する。
「敵兵の質は?」
「農兵多数。
訓練不足。
士気、勇者依存」
その言葉に、わずかに眉が動く。
「……勇者か」
だが、興味はそこで終わった。
「勇者は排除対象ではない」
「無視、ですか?」
「迂回だ」
副官が、一瞬言葉を失う。
「彼が前に出るなら、
その左右を削れ」
「兵站を断ち、退路を潰す」
「戦わせるな」
勇者を英雄として扱わない。
それが、カイゼルの判断だった。
「敵は、王国構造だ」
カイゼルは、はっきり言った。
「目の前の兵ではない」
進軍が始まる。
太鼓は鳴らさない。
鬨の声もない。
ただ、重い足音だけが、地面を叩く。
南方迎撃軍の前哨が、最初に接触した。
斥候が、魔獣騎兵に踏み潰される。
叫ぶ暇すらない。
「……敵、動揺しています!」
「当然だ」
カイゼルは、冷静だった。
「初撃で、戦場だと理解させるな」
「混乱させろ」
魔導部隊が、遠距離から魔術を放つ。
狙いは兵ではない。
陣地だ。
天幕が燃え、
補給車列が吹き飛ぶ。
「……後方が、崩れています!」
「前に出る兵は?」
「勇者と、その随伴が前進中!」
その報告に、カイゼルは一度だけ視線を上げた。
「……放置」
「進路、変えます」
魔王軍は、勇者の正面を避けるように動いた。
左右から、南方諸侯軍を圧迫する。
逃げ場を失った兵が、次々と潰される。
「逃走兵、発生」
「追うな」
「……?」
「逃がせ」
副官が、理解する。
逃げた兵が、恐怖を広げる。
それが、最も効率的だ。
「敵軍、指揮系統崩壊」
「時間、十分だ」
カイゼルは、南の地平を見据えた。
都市がある。
街道が伸びている。
「迎撃軍は、もう役目を果たした」
「彼らは?」
「障害物だった」
それ以上でも、それ以下でもない。
戦場の後方で、
勇者が必死に兵をまとめている姿が見えた。
だが、カイゼルは振り返らない。
「アレインの領域には、近づくな」
その命令だけは、繰り返された。
魔王軍は、王国を削る。
だが、あの存在とは交差しない。
それが、魔王軍の選んだ生存戦略だった。
南部の夜空が、赤く染まる。
それは、戦の始まりではない。
処理の開始だった。




