北方公爵家の決断
ノルディア公爵邸の会議室には、地図が並べられていた。
王都のものとは違う。
飾り気も、余白もない、実戦用の地図だ。
赤い印が、北から南へと伸びている。
それは王国がようやく“線”として認識した進行経路と、ほぼ一致していた。
沈黙が、長く続いている。
席に着くのは、北方公爵家の重臣たち。
全員が、王国の創設期から続く軍歴を持つ家系だ。
そして、上座に座るのは――
ヴァルド・フォン・ノルディア。
白髪混じりの髪。
老いは隠せないが、背筋は崩れていない。
この男が、北を預かってきた。
「……王都は、ようやく“偶然ではない”と認めたそうだ」
ノルディア公爵の声は、低く、感情を抑えている。
「遅い、というべきでしょうか」
軍務長官が答える。
「だが、認めた以上、いずれ動く」
「動けると思うか?」
その問いに、誰も即答しなかった。
王都の軍備。
指揮系統。
政治的判断。
どれを取っても、即応できる状態ではない。
「……無理でしょう」
最終的に、参謀長が言った。
「王都は、“敵の形”を理解していない」
その言葉に、誰も反論しなかった。
ノルディア公爵は、ゆっくりと地図を見下ろす。
「グランデール旧領……」
その名を口にした瞬間、
会議室の空気が、わずかに変わった。
北方公爵家は、知っている。
あの地が、どう扱われてきたかを。
「……アレイン」
名を出す者はいなかった。
だが、全員が同じ人物を思い浮かべている。
「彼は……」
ノルディア公爵は、一度言葉を切った。
「被害者だ」
断定だった。
「王国に捨てられ、
魔族に踏みにじられ、
救われるべき時に、何も与えられなかった」
重臣たちの表情が、硬くなる。
「だからといって」
誰かが、絞り出すように言う。
「放置すれば、王国が滅びます」
「分かっている」
ノルディア公爵は、目を閉じた。
彼は、理解している。
だからこそ、苦しい。
「……彼が向けている刃は、王国だ」
そして、その王国の最前線に立つのが、
北方公爵家であることも。
「我々は、盾だ」
その言葉は、代々受け継がれてきた誓いだった。
「王都が愚かでも、
教会が沈黙しても、
魔王軍が距離を取っても」
公爵は、ゆっくりと立ち上がる。
「北が折れれば、王国は終わる」
それは、感情ではない。
事実だ。
「討伐を決意する」
その一言で、会議は次の段階に入った。
「動員規模は?」
「北方常備軍、全軍」
一瞬、空気が張り詰める。
「加えて、辺境防衛隊、騎士団第三・第五連隊」
「……それは」
「大規模だ」
公爵は、はっきりと言った。
「だが、相手は“軍”ではない」
兵数で押し潰せる存在ではないことを、
この場の全員が理解している。
「目的は、殲滅ではない」
参謀長が、確認する。
「……止める、ですか」
「違う」
ノルディア公爵は、静かに否定した。
「受け止める」
その言葉に、誰もが息を呑んだ。
「王都が立て直すまで。
教会が答えを出すまで。
勇者が、決断するまで」
それまでの間、
北が、すべてを引き受ける。
「……彼に、情は?」
軍務長官が、あえて問うた。
ノルディア公爵は、少しだけ笑った。
「あるに決まっている」
その笑みは、苦かった。
「だが、それとこれは別だ」
彼は、真っ直ぐ前を見据える。
「彼が望んだ世界を、
彼の手で完全に壊させるわけにはいかない」
同情している。
理解している。
だからこそ――
「止めるのは、我々だ」
誰かが、深く頭を下げた。
それに続き、全員が立ち上がる。
剣を抜く者はいない。
拳を握る者もいない。
ただ、
覚悟だけが、揃った。
その夜、北方公爵家は動いた。
兵站が整えられ、
魔導兵器が封印から解かれ、
伝令が、雪を越えて走る。
王都には、正式な通達が送られた。
――北方公爵家、独自判断により討伐軍を編成。
――王国防衛のため、前線を引き受ける。
それは、忠誠の証であり、
同時に、最後の盾であるという宣言だった。
ノルディア公爵は、夜明け前の空を見上げる。
(……アレイン……)
心の中で、名を呼ぶ。
(……お前がこうなった理由を……
我々は、知っている……)
だからこそ。
(……それでも……
止める……)
王国の盾として。
北の守護者として。
この決断が、
どれほど多くの血を呼ぶかを理解した上で。
夜が、静かに明けていった。




