魔王からの使者
ラグナート男爵家の居城は、まだ原形を保っていた。
外壁は破られ、門は倒れているが、城そのものは燃えていない。意図的だった。破壊する必要がなかったからだ。今やこの城は、死者の砦として機能している。
玉座の間には、灯りがなかった。
魔導灯はある。だが、誰も点けない。闇の中で不自由を感じる者は、ここにはいない。
アレインは、玉座の前に立っていた。
座ることはしない。
あれは、人が統治するための椅子だ。
城内には、無数のアンデッドが静止している。
壁際に、柱の影に、階段に。
命令は出ていない。ただ“待っている”。
その沈黙を、異質な気配が切り裂いた。
――来る。
誰かが告げたわけではない。
アレイン自身が、そう理解した。
城門の外で、空気が歪む。
転移魔法。しかも王国式ではない。魔力の質が違う。重く、濃く、粘つくような感触。
次の瞬間、城の中庭に、三つの影が現れた。
先頭に立つのは、一人の男――いや、魔族だ。
背は高く、痩身。黒と紫を基調とした軍装を纏い、肩には魔王軍の紋章。顔立ちは人間に近いが、瞳だけが異様だった。赤ではない。金でもない。深い夜色をしている。
その背後に、護衛が二名。
どちらも上級魔族。殺気を隠していない。
アンデッドが、一斉に首を向ける。
だが、動かない。
男は、ゆっくりと城内に足を踏み入れた。
死臭に満ちた空間を前にしても、眉一つ動かさない。
「……噂以上だな」
低い声だった。
威圧でも挑発でもない。観察する者の声。
「魔王軍第六軍団・外務統括官――
ゼルヴァ・アル=ディオス」
名乗りは、簡潔だった。
それが彼の立ち位置を示している。
外務統括官。
戦場に立つ将ではない。
だが、戦場の結果を回収する者。
「この地に、新たな“力”が生まれたと聞いた」
ゼルヴァの視線が、玉座の前に立つアレインを捉える。
一瞬、空気が張り詰めた。
――違う。
彼は、アンデッドの王を見ているのではない。
現象を見ている。
「……名は?」
問いかけだった。
だが、返答を期待していない口調。
アレインは、しばらく沈黙した後、口を開いた。
「……アレイン……」
声は、かすれている。
だが、はっきりと届いた。
ゼルヴァは、わずかに目を細める。
「王国の処刑記録にある名だな。英雄。反逆者。死刑囚」
一歩、前に出る。
「そして今は――
男爵領一つを“完全に消した存在”」
評価に、感情はなかった。
数字を読むような言い方だ。
「本題に入ろう」
ゼルヴァは、外套の裾を整え、淡々と言った。
「魔王陛下は、貴殿の存在を歓迎する」
アンデッドが、微かに軋む音を立てる。
だが、それは怒りではない。
「世界を壊す力は、管理されるべきだ」
その言葉に、アレインの中で何かが動いた。
「……管理……?」
「そうだ。貴殿の力は、無秩序すぎる。
だが、我々の指揮系統に組み込めば――」
ゼルヴァは、はっきりと言った。
「魔王軍への従属を提案する」
沈黙。
城全体が、その言葉を待っていたかのようだった。
「地位は保証しよう。軍団長級。
領地も与える。グランデール――いや、
“新生グランデール死領”の支配権を」
その瞬間、アレインの中で、怒りが沸いた。
グランデール。
その名を、軽々しく使うな。
アンデッドが、ざわめいた。
意思表示。
怒りに共鳴する、死者たちの反応。
ゼルヴァは、それを見て、初めて慎重さを見せた。
「……誤解するな。これは命令ではない」
「では……何だ……」
アレインの声は、低く、怨念を帯びていた。
「勧誘だ」
ゼルヴァは、真っ直ぐに言った。
「我々は、貴殿を敵に回したくない」
それは、降伏ではない。
だが、警戒でもない。
「王国を憎むのは、理解できる。
だが、魔王軍は“王国の代替”ではない」
一瞬、言葉を選ぶ。
「……貴殿は、我々の枠に収まらない可能性がある」
その判断に、アレインは笑った。
声にならない、歪んだ笑い。
「……従属……?」
一歩、踏み出す。
アンデッドが、同時に一歩進む。
ゼルヴァの護衛が、身構えた。
「……俺は……」
アレインの視線が、玉座を越え、過去を見ていた。
「王国を……壊す……」
それだけだ。
それ以上の秩序も、指揮も、必要ない。
ゼルヴァは、その言葉を聞き、確信した。
――これは、魔王軍の駒ではない。
「……返答は、今でなくていい」
彼は、一歩下がった。
「だが覚えておけ、アレイン。
我々は、いずれ必ず、再び接触する」
転移の魔力が、再び空気を歪める。
「その時、敵か、味方か――
世界は、もう選ばせてはくれない」
三つの影が、消えた。
城に、沈黙が戻る。
アレインは、しばらく動かなかった。
そして、低く呟く。
「……魔王軍……」
その名に、憎しみはない。
興味も、恐怖もない。
ただ、邪魔になるかどうか。
アンデッドたちは、再び静止する。
だが、その沈黙は、以前よりも重かった。
世界は、彼を巡って、動き始めている。




