北方公爵家の理解
北方公爵家の執務室は、夜でも明るかった。
だがそれは、人の温もりによる明るさではない。石壁に反射する魔導灯の白い光が、影を作らず、ただ均一に空間を照らしているだけだった。
机の上に置かれた書類は、三枚。
簡素な報告。
装飾も、感情も、評価もない。
「……ラグナート男爵領、か」
北方公爵――ヴァルド・フォン・ノルディアは、その名を低く読み上げた。
声には、驚きも困惑もない。
ただ、確認するような響きだけがあった。
書類の一枚目には、こう記されている。
――領都人口:推定二万一千。
――周辺農村含む総人口:約五万。
――領軍兵力:百七十。
――現在確認できる生存者数:ゼロ。
「……ゼロ、だな」
側近の老騎士が、短く答える。
「はい。難民の流入も、近隣領からの目撃情報もありません」
二枚目。
――男爵ラグナート、討伐出立後、消息不明。
――男爵家当主・家宰・主要家臣、全員連絡断絶。
三枚目。
――街道通行不能。
――物資流通停止。
――夜間に不審な大規模移動あり。
数字だけが並んでいる。
血の色も、叫び声も、破壊の痕跡もない。
だが、ノルディア公爵家の者たちは、それで十分だった。
「……完全消滅だな」
誰かが、ぽつりと呟いた。
否定する者はいなかった。
北方は、こうした報告に慣れている。
国境の外では、集落が一夜で消えることもある。だが、それは通常、理由がある。魔族の侵攻、天災、疫病、戦争。
だが――
理由が書かれていない消滅は、別だ。
「王都の処理は?」
「“確認中”とのことです」
その言葉に、執務室の空気が、わずかに沈んだ。
「被害数五万規模。領軍全滅。領主家断絶。それを“確認中”で済ませるか」
公爵は、椅子にもたれかかり、天井を見上げる。
怒りはない。
だが、思考はすでに次の段階へ進んでいた。
「……これは戦ではない」
側近たちは、黙って聞いている。
彼らは知っている。公爵がこう言う時、すでに結論は出ている。
「反乱でも、侵略でもない。まして魔族の通常侵攻でもない」
「では……」
「災厄だ」
その一言が、部屋を支配した。
数字が、すべてを語っている。
逃げた者がいない。
生存者がいない。
断続的でもなく、段階的でもない。
一度で、終わっている。
「……教会は?」
「沈黙しています。こちらから問い合わせても、“記録照合中”の一点張りです」
公爵は、薄く笑った。
「分かっている者の沈黙だな」
王都は、理解していない。
あるいは、理解を拒んでいる。
だが、教会と北は違う。
数字を見た瞬間に、次に何が起きるかが分かってしまう。
「ラグナートで五万。次は、その倍か」
「……止めますか?」
その問いに、公爵は即答しなかった。
しばらく、書類を見つめる。
「止められるか?」
問い返しだった。
側近は、答えられない。
「軍を出せば、数字が増えるだけだ。王都はそれを“戦果不明”と書類にするだろう」
「では……」
「沈黙を続ける」
それは、逃避ではない。
最も冷酷で、最も現実的な選択だった。
「沈黙し、備える。国境線を閉じる。避難させる。数字を減らす」
公爵の指が、机を叩く。
「理解していない者に、こちらから教える義務はない」
この沈黙は、共犯ではない。
生き残るための立場表明だ。
「……アレイン、か」
誰かが、その名を出した。
公爵は、ゆっくりと頷く。
「名前が出てきた時点で、こうなる可能性はあった」
英雄。
処刑。
空白。
そして、数字だけが残る。
「彼は、もう“個人”ではない」
それは、評価でも断罪でもない。
「現象だ」
夜は、深まっていく。
北方公爵家は、灯りを落とさない。
見張りを増やし、門を閉じ、書類を整理する。
数字は、嘘をつかない。
感情を排し、誤魔化しを許さない。
ラグナート男爵領は、この夜、
北方において「完全消滅」として処理された。
王都よりも早く。
教会よりも静かに。
そして公爵は、最後にこう告げた。
「次に数字が来たら、もう“領”ではない」
それが、何を意味するのか。
その場にいる全員が、理解していた。
沈黙は、さらに重くなる。
だがそれは、恐怖ではない。
覚悟の重さだった。




