男爵領
ラグナート男爵領の領都は、交易町エルムハインよりもはるかに大きかった。
石造りの城壁に囲まれ、中央には男爵家の居城がそびえ、常備兵も抱えている。地方領としては十分な規模であり、魔物や盗賊の襲撃に屈したことはない。領都の住民も、それを誇りにしていた。
だが、その日、城の玉座は空だった。
男爵は討伐のため領軍を率いて出立し、戻っていない。
代行する者はいた。家宰、騎士団長、文官たち。だが、決定権を持つ者はいない。彼らは互いに責任を押し付け合い、最終判断を先延ばしにしていた。
「エルムハインが……連絡不能です」
「男爵様の部隊も、戻っていない」
報告は、断片的に届く。
だが、それを繋げて考える者はいなかった。
「魔族の残党だろう」
「討伐軍が遅れているだけだ」
「王都に使者を送れ」
その間にも、異変は進んでいた。
領都の外縁部、墓地の地面が、夜半に膨らみ始める。
古い戦没者の埋葬地。疫病でまとめて葬られた区画。かつての反乱の死者たち。忘れ去られていた場所から、静かに、しかし確実に、死が立ち上がる。
最初に気づいたのは、夜警だった。
「……なんだ、あれは」
月明かりの下、城壁の外を歩く影。
数は少ない。
だが、動きが不自然だ。
警鐘が鳴る前に、第一の門が内側から開いた。
理由は単純だった。門番が、すでに死んでいたからだ。
アンデッドは、戦術を知らない。
だが、流れを止めない。
門が開く。
影が流れ込む。
路地へ、広場へ、居住区へ。
領都の常備兵は応戦した。訓練も受けている。聖印もある。初動だけは、成功した。数十体を倒し、進軍を止めたかに見えた。
だが、その時点で、すでに遅かった。
「……後ろだ!」
背後から、同じ数が湧き上がる。
城壁の内側、地下水路、倉庫街。
守備側が「安全」と思い込んでいた場所から、次々と現れる。
「数が合わない……!」
騎士団長が叫ぶ。
斬っても、斬っても、減らない。
倒れた兵が、数分後には立ち上がる。
恐怖が、秩序を壊した。
住民は逃げ惑い、門へ殺到する。だが門はすでに突破されている。家々に立て籠もる者もいるが、アンデッドは扉を壊すことに躊躇しない。子どもの泣き声も、命乞いも、彼らには意味を持たない。
そして――
領都の中央広場に、彼が現れた。
アレインは、城門の影からゆっくりと歩み出た。
戦場の中心で、彼は浮いて見えた。
血に濡れてもいない。
息も乱れていない。
彼の存在に気づいた兵が、数名、突撃を試みる。
だが、近づく前に足が止まる。
理由は分からない。
ただ、本能が「近づくな」と叫ぶ。
(……ここは……)
アレインの意識に、領都全体が広がる。
人の数。
死の数。
恐怖の濃度。
(……グランデールではない……)
その認識が、彼の行動を決めていた。
迷いはない。
ためらいもない。
城への道を、アンデッドが開く。
城門は、抵抗する暇もなく破られた。
居城の中では、家宰と文官たちが最後の会議を開いていた。
「王都に、再度使者を――」
言葉は、途中で途切れる。
扉が、内側から押し倒された。
逃げる時間はなかった。
剣を持たぬ者も、武装した者も、同じように倒れ、同じように沈黙した。玉座の前で倒れた家宰の手には、未完成の書状が握られていた。
夜明け前、領都は陥落した。
鐘は鳴らなかった。
旗は、下ろされなかった。
ただ、人の営みだけが止まった。
城壁の上に立つアレインは、薄明の空を見上げる。
新たに生まれたアンデッドたちが、城下を満たしていく。
(……領主がいない……)
その事実が、静かに理解される。
(……王国は……空白を放置した……)
彼は、そこで初めて、わずかに感情の揺れを覚えた。
怒りではない。
哀れみでもない。
確信だった。
――この国は、自ら崩れる準備ができている。
ラグナート男爵領は、この夜をもって消えた。
だが、それを正確に把握できる者は、まだいない。
世界は、依然として沈黙している。
そして沈黙は、
アレインにとって、最も都合のいい味方だった。




