遅すぎる救援
交易町エルムハインは、グランデール領の外縁に位置する、ごく平凡な町だった。
石造りの城壁を持つほどではなく、周囲を低い木柵で囲い、二つの門を昼夜交代で守る。街道沿いに立地し、行商人と農産物の集散で生きている。豊かではないが、貧しくもない。王国の無数の町の一つであり、誰もが「特別ではない」と認識している場所だった。
異変は、音もなく始まった。
夜明けになっても、門が開かなかった。
街道を行く商人が不審に思い、門番を呼んだが返事はない。やがて門を押すと、内側から抵抗なく開いた。血の匂いが、冷えた朝の空気に混じって流れ出る。
町は、沈黙していた。
家々の扉は壊れ、窓は割れ、石畳には乾ききらない血が黒く染み込んでいる。人の姿はない。逃げた痕跡もない。荷は放置され、家畜は檻の中で餓え、教会の鐘楼だけが、誰にも鳴らされることなく朝日を受けていた。
生存者はいなかった。
この事実が、周辺領に伝わるまでに半日を要した。
エルムハインは小さな町だ。巡回も頻繁ではない。異変に最初に気づいたのは、町と街道を管轄する ラグナート男爵だった。
「……全滅、だと?」
報告を受けた男爵は、眉をひそめた。彼は老齢ではないが、慎重な統治者だった。盗賊の襲撃、魔物の群れ、流行り病――どれも想定内だ。しかし、町が丸ごと沈黙するという事態は、どれにも当てはまらない。
「逃亡の痕跡は?」
「ありません。家財は残り、死体も……その……」
報告する騎士は言葉を濁した。
「言え」
「……死体の数が合いません。血はありますが、遺体が少なすぎる」
男爵は、深く息を吐いた。
「魔族か」
それが、最も現実的な判断だった。
王都が襲われたばかりだ。地方で被害が出ても不思議ではない。
「討伐だ」
判断は早かった。
だが、それは 常識に基づいた判断だった。
男爵は自ら指揮を執り、領軍を集めた。歩兵百五十、騎士二十、従軍魔術師三名。地方領としては、即応可能な最大戦力だ。敵は不明だが、町一つを滅ぼした程度なら十分だと考えた。
進軍は、日没前にエルムハインへ到達した。
町は、依然として静かだった。
風が吹いても、何も応えない。
「陣形を整えろ」
男爵の声は、よく通った。
兵たちは緊張しながらも、秩序を保って動く。彼らは訓練された軍であり、恐怖よりも命令に従うことに慣れている。
異変が起きたのは、町の中央広場に差し掛かった時だった。
足元で、何かが動いた。
最初に崩れたのは、倒れていた馬の死体だった。腐敗していたはずのそれが、ぎこちなく脚を動かし、立ち上がる。次の瞬間、地面から骨の腕が突き出した。石畳の隙間を割り、次々と。
「アンデッドだ!」
叫びが上がる。
魔術師が即座に詠唱を始め、聖属性の光が放たれる。数体は倒れる。だが、それで終わりではない。家屋の影から、路地から、屋根の上から、無数の影が溢れ出す。
「数が……!」
男爵は剣を抜いた。
討伐経験はある。アンデッドは脅威だが、対処法は確立されている。問題は――数と統率だった。
彼らは、散発的ではない。
一斉に、同じ方向へ向かってくる。
剣が振るわれ、骨が砕ける。だが、倒れても、次が来る。騎士が馬上から斬り伏せても、脚に縋りつかれ、引きずり下ろされる。魔術師が結界を張るが、外側から押し潰され、内側で破裂する。
「退け! 一度下がれ!」
男爵の命令は、途中で途切れた。
視界の端に、人影があった。
黒い外套。
生者の気配ではない。
だが、アンデッドとも違う。
アレインは、町の中央に立っていた。
彼は、戦いを指揮しているわけではない。
ただ、そこに在るだけだ。
領軍とアンデッドがぶつかる中、彼の周囲だけが、不自然な空白を保っている。兵が近づこうとすると、何かを感じ取って足を止める。
男爵は、その視線と交錯した。
一瞬だった。
だが、その一瞬で、男爵は理解した。
――これは、討伐ではない。
――戦争でもない。
災厄だ。
次の瞬間、アレインが一歩踏み出す。
地面が軋み、アンデッドが一斉に動きを加速させた。
戦線は、崩壊した。
退却は、成立しなかった。
門へ向かう道は塞がれ、隊列は分断される。男爵は最後まで剣を振るったが、背後から伸びた無数の手に絡め取られ、地に引き倒された。
彼が最後に見たのは、夕暮れの空と、町の鐘楼だった。
その鐘が、二度と鳴ることはない。
夜が訪れる頃、エルムハインには再び沈黙が戻った。
だがそれは、生の沈黙ではない。
アレインは、崩れた広場を見渡す。
領軍の死者が、新たなアンデッドとして動き始めている。
(……広がる……)
罪悪感は、やはり湧かなかった。
この町は、グランデールではない。
この兵たちは、王国の剣だ。
世界が沈黙している限り、
彼は、止まらない。




