勇者帰還
王都の空は、まだ赤かった。
夜明けを迎えているはずなのに、
南区の上空には、焦げた煙が滞留し、
朝の光を濁らせている。
レオン・アルヴァンは、城門をくぐった瞬間、
その匂いで理解してしまった。
――遅かった。
血と煤が混じった匂い。
焼け落ちた木材と、魔力残滓の刺激臭。
それらが、王都という「帰るべき場所」を、
まるで別の都市のように変えていた。
(……守れた……のか……?)
問いは、すでに自分に向けられていない。
答えは、街の有様そのものだった。
⸻
南区は、区画として機能していなかった。
通りは瓦礫で埋まり、
かつて市場だった場所には、黒く焼け焦げた骨組みが残るだけ。
担架で運ばれる兵士。
泣き崩れる市民。
呆然と立ち尽くす者。
誰も、勇者に歓声を上げない。
それは当然だった。
勇者がいない間に、
王都は血を流した。
レオンは、馬から降りる。
足が、わずかに震えた。
戦場ではなかった。
ここは、結果だった。
⸻
王城前広場で、近衛兵が整列している。
だが、その数は明らかに少ない。
聖女リーナが、前に立っていた。
白衣は煤に汚れ、
目の下には、はっきりとした隈がある。
彼女は、レオンを見ると、
一瞬だけ、安堵の色を浮かべ――
すぐに、それを消した。
「……お帰りなさい」
その声は、優しかった。
だが、そこに「喜び」はなかった。
「……被害は……」
レオンの問いに、
リーナは、ゆっくりと首を振る。
「数字は……後ほど。
今は……」
言葉を、続けなかった。
続けられなかった。
剣聖カイルは、少し離れた場所に立っていた。
腕を組み、表情は硬い。
「……戻ったな」
それだけだ。
叱責も、労いもない。
それが、
この状況の重さを、何よりも物語っていた。
⸻
会議室の空気は、重苦しかった。
重臣たちが並び、
王が玉座に座している。
レオンは、中央に立たされた。
報告が始まる。
魔族の侵攻。
被害状況。
防衛の失敗。
淡々と、
事実だけが積み上げられていく。
そのすべてが、
勇者不在の時間に起きた。
「……勇者レオン」
王の声が、響く。
「そなたの帰還により、
魔族は撤退した」
事実だ。
勇者が戻ったことで、
敵は目的を果たし、去った。
「王都は、完全な壊滅を免れた」
――それも、事実だ。
「よって、そなたは
その役割を果たしたと言える」
レオンは、何も言えなかった。
役割。
その言葉が、胸に刺さる。
(……役割は……果たした……)
だが――
「……しかし」
王の声が、わずかに低くなる。
「市民の間では、
不満が広がっている」
ざわめき。
「なぜ、勇者は王都にいなかったのか」
「なぜ、南区は見捨てられたのか」
レオンは、唇を噛む。
(……見捨ててなど……)
だが、言葉にすれば、
それは言い訳になる。
「……王都を守るため、
そなたを呼び戻した判断は、正しかった」
王は、そう結論づける。
「しかし――
同時に、
勇者が“どこにいるべきか”について、
再考が必要だろう」
それは、
信頼の再評価を意味していた。
⸻
会議が終わった後、
レオンは一人、城内を歩いた。
兵士たちの視線が、
微妙に逸らされる。
敬意は、まだある。
だが、そこにあったはずの
無条件の信頼が、消えていた。
(……俺は……)
王都を守った。
それは、事実だ。
だが、
「勇者がいれば安心」という幻想は、
この一夜で、壊れてしまった。
聖女リーナが、後ろから声をかける。
「……あなたは、間違っていません」
レオンは、振り返らない。
「……でも……」
リーナは、言葉を探す。
「……信仰は……
理屈では……戻らないのです」
その通りだった。
英雄とは、
結果だけで評価される存在ではない。
「そこにいてくれる」という期待を、
満たし続けなければならない。
それを、
レオンは、初めて失った。
⸻
それでも――
全てが失われたわけではない。
王都は、落ちなかった。
王は、生きている。
国は、まだある。
それらを守ったのは、
間違いなく、勇者の帰還だった。
だが――
(……あいつは……)
脳裏に浮かぶのは、
あの森の沈黙。
追わず、
責めず、
ただ、待っていた存在。
アレイン。
(……俺が戻ったことで……
何かが……進んだ……)
確信があった。
この襲撃は、
偶然ではない。
勇者を、王都に縛り付けるための一撃。
そして――
それに応じてしまったのは、
自分自身だ。
レオンは、拳を握る。
「……次は……」
何を選ぶべきか、
まだ分からない。
だが、
もう、迷っている時間はない。
信頼を失った勇者は、
選択を誤れば、
次は「役割」すら失う。
王都の上空で、
煙が、ゆっくりと流れていく。
この国は、
まだ立っている。
だが――
確実に、傾き始めていた。




