撤退
勇者が背を向けた瞬間、
戦場は、音を失った。
剣が収められ、足音が遠ざかる。
それだけで、本来なら終わるはずの戦いだった。
だが――
アレインは、動かなかった。
追わない。
剣を振らない。
止めもしない。
ただ、
去っていく背中を“見送る”という行為だけが、そこにあった。
アンデッドたちは、ざわめかない。
命令もないのに、隊列は崩れず、
まるでこの結果を“当然の帰結”として受け入れているかのようだった。
風が吹く。
朽ちた枝が軋む。
それでも、
この場に残る空気は、重い。
アレインは、ゆっくりと視線を下げた。
剣先に、血はついていない。
勇者の血を流すことは、容易だった。
だが――
流す必要がなかった。
殺すことは、復讐ではない。
終わらせることは、目的ではない。
(……やはり……そうだ……)
思考は、言葉ではない。
だが、確かな“理解”として存在している。
勇者は、王国を選んだ。
それは、正しい選択だ。
少なくとも、人間の論理としては。
王都が襲われれば、戻る。
それは、勇者という役割が与えられた者の、避けられない行動。
(……だから……滅びる……)
アレインは、かつて、その論理の内側にいた。
英雄として、
剣として、
盾として。
だが、
不要になった瞬間、切り捨てられた。
理解している。
だから、怒りがある。
だから、憎悪がある。
そして――
だからこそ、急がない。
勇者の足音が、完全に消える。
アレインは、その方向を見続けていた。
見えなくなっても、
気配が消えても。
視線を逸らさない。
アンデッドの一体が、ゆっくりと前に出る。
首を傾げ、
意思表示のような微細な動き。
増えない。
増やさない。
それが、この地の“第二波”以降の異変だった。
アレインは、わずかに手を動かす。
それだけで、アンデッドは元の位置に戻った。
(……まだだ……)
王都は、今、炎に包まれている。
魔族が動いたことは、
この場にいても、はっきりと分かる。
だが、それは偶然ではない。
王国は、
常に一つしか選べない。
英雄か。
都か。
前線か。
政治か。
そして――
常に、間違った方を“合理的に”選ぶ。
アレインの中で、
魔族の血が、静かに蠢く。
焦りはない。
昂りもない。
あるのは、
確信に近い執着。
(……戻ってくる……)
勇者は、必ず戻る。
それは、敵としてではない。
答えを求める者として。
その時、
今よりも重い現実を背負って。
アレインは、剣を地に突き立てる。
土に触れた瞬間、
周囲の死者たちが、微かに反応する。
言葉は交わさない。
意思の共有だけがある。
王国を滅ぼす。
その後に、
グランデールを“取り戻す”。
それは、計画ではない。
願望ですらない。
もう、前提なのだ。
アレインは、ゆっくりと視線を上げる。
空は、濁っている。
王都の方向に、
かすかな赤が見える気がした。
(……見ているがいい……)
誰に向けたものでもない。
勇者か。
王か。
それとも、かつての自分か。
沈黙が、すべてを包む。
この場に、
勝者はいない。
だが、
一つだけ確かなことがある。
撤退したのは、勇者だけではない。
王国そのものが、
この夜、後戻りできない地点を越えた。
アレインは、動かない。
追わない。
だが――
もう、待っている必要すらなかった。




