視認
森の闇は、深かった。
夜風が樹々を揺らすが、その音は耳に届くよりも先に、心を削いでいく。
魔力の波動も、遠くからは察知できるものの、依然として不自然な濃度を帯びていた。
レオン・アルヴァンは、剣の柄を握りしめ、前方を睨みつける。
確かに、ここに存在する――かつて索敵で検知した“核”。
だが、その姿形を、今目にするまで、個として理解することはできなかった。
(……あいつだ……)
胸の奥が、凍る。
冷たい風が頬を撫でても、寒さは感じない。
感じるのは、異様な重さだけだ。
空気が、音が、魔力が――全て、一つの意思の塊に吸い込まれている感覚。
アレインは、そこに立っていた。瓦礫と焼けた土の上、白く死んだ肌と、幽鬼のように揺らぐ影。
生者ではない。だが、人間とも呼べない存在でもある。
アンデッドだ。
言葉を発することはない。意思表示は、重なり合う怨念や視線の一点集中で伝わるだけだ。
「……来ている……」
声に出す必要はない。だが、心が震える。
以前の索敵では、遠くの霧や魔力干渉で“核”としてしか捉えられなかった。
だが今、距離は近い。
視界を遮るものはない。
存在のすべてが、圧として胸に迫る。
(……あいつは……人間じゃない……)
否定が、即座に脳裏を貫く。
だが、理屈では理解できない。
殺意はない。敵意もない。
だが確かに、「意志」はある。
王国を、世界を、そして――自分自身を見つめている意思だ。
視線が交わった瞬間、レオンの中で何かが崩れた。
恐怖でも驚きでもない。
絶望に似た認識の齟齬だ。
これまでの勇者としての経験では、敵の意図や行動を読めば、戦闘の勝敗や状況を判断できた。
だが、ここにはそれがない。
何も交わせず、何も通じない。
目の前の存在は、既に“世界の外側”にいる。
(……理解できない……)
いや、理解できないのではない。
理解できるが、その理解が致命的にすれ違っているのだ。
瓦礫の間から、アンデッドの群れが僅かに動いた。
言葉は発さない。
だが、意思は明確だ――レオンに敵対せず、王国側とも認識せず、ただアレインを中心に配置する。
彼らの動きで、初めてレオンは感覚的に知る。
あの存在が、中心なのだ。
自分も含めた全ての秩序や裁定は、彼の前では意味を失っている。
(……王国の正義も……裁定も……すべて無意味か……)
胸の奥が、熱くなる。
怒りではない。恐怖でもない。
憎悪が、怒りが、理解不能な形で渦巻き、理性を押し潰す感覚。
レオンは剣を構えようとするが、腕が重い。
力が、手に伝わらない。
一歩踏み出す度に、心臓が逆流するような感覚が走る。
(……俺は……間に合わなかった……)
以前の索敵で、
瓦礫越しに、霧越しに、魔力の波動として存在を知った時。
あの時、止めることはできたはずだ。
だが、王都での会議と命令に従い、勇者として動かなかった。
そして今――
視認は再び叶ったが、もう理解は不可能になっていた。
アレインの瞳は、言葉を発さない。
だが、視線と存在の圧で、レオンに告げる。
「お前は、まだ人間だ」と。
そして同時に、
「だが、王国の正義は俺を殺した」と。
(……こいつは、俺を理解しようとしている……)
その事実が、胸を締めつける。
理解したところで、交わることはない。
今目の前にあるのは、世界を呪う者と、それを止められない者という、不可逆の構図だ。
怨念が、空気を震わせる。
周囲のアンデッドが微かに揺れ、だが攻撃性は見せない。
言葉を発せずとも、感情の塊として圧が伝わる。
それを受け取ることで、レオンは初めて悟る。
あの存在は、もう人間ではなく、止められる側ではない。
(……俺は……)
剣を握る手に、力を入れる。
だが、振るう理由がない。
敵か味方か、判断できない。
あるのは、ただ恐怖――いや、違う。
恐怖ではない。破滅を理解した衝撃だ。
目の前に立つアレイン――
復讐と怨念と、グランデールの執着が混ざり合った存在は、
すでに王国の正義を超えている。
「……来い」
誰に言うでもなく、
心の奥で呟く。
言葉は交わらない。
理解も、交わらない。
だが、世界は、
この瞬間を中心に回り始めた。
夜は静かだった。
だがその静けさは、
嵐の前の静寂でも、安堵でもない。
既に決定された破滅の前触れでしかない。
レオンは、剣を握り直す。
そして、理解する――
これから先、選択はもうない。
交わすべき言葉も、間に合うことはない。
視線が交わったまま、二つの存在は立ち尽くす。
夜の森が、
世界が、
その二人のために凍りついたように、静止する。




