沈黙の意味
北方公爵家・ノルディアの執務室は、冬でも静かだった。
分厚い石壁。
火を落とした暖炉。
窓の外には、まだ雪の残る北の森。
音がない。
それは、この家にとって「異常」ではない。
常態だった。
ヴァルド・フォン・ノルディアは、長机の向こう側で書類を読んでいた。
いや、正確には――読めていなかった。
「……」
文字は目に入っている。
意味も理解している。
だが、それらが頭の中で、どこにも繋がらない。
机の上に置かれた一通の文書。
王都の封蝋が押されている。
報告書。
形式は整っている。
語調は穏やかで、危機感は抑えられている。
その内容を、家宰が淡々と読み上げた。
「――王都の判断としては、
当該地域の異変は“理解不能事象”として分類。
国家的対応は見送り。
北方公爵家には、過剰な軍事行動を控えるよう要請――以上です」
読み終えた家宰が、顔を上げる。
誰も、何も言わなかった。
重臣たちが並ぶ室内。
誰一人、息を呑む音すら立てない。
沈黙。
それは、困惑ではない。
驚愕でもない。
確認だった。
ヴァルドは、ゆっくりと目を閉じた。
――そうか。
それだけを、心の中で呟く。
王都は、勇者の報告を退けた。
教会は、踏み込まなかった。
政治は、“理解不能”という箱に封じた。
「……以上、か」
ようやく、ヴァルドが口を開いた。
声は低く、静かだった。
「はい」
家宰が短く答える。
「勇者殿の動向は?」
「撤退命令が出ています。
ただし、現地からはまだ戻っていない模様です」
その言葉に、わずかに空気が揺れた。
だが、誰も反応しない。
ヴァルドは、目を開け、机の上の文書を見下ろした。
整った文字。
整った論理。
整った判断。
――整いすぎている。
「……これは、“判断”ではないな」
独り言のような呟きだった。
だが、家宰はすぐに理解した。
「……責任回避、ですか」
「いや」
ヴァルドは首を振る。
「もっと悪い。
“まだ大丈夫だと思いたい”という願望だ」
重臣の一人が、耐えきれずに口を開いた。
「公爵。
我々は……どう動くべきでしょうか」
その問いに、ヴァルドはすぐには答えなかった。
代わりに、立ち上がり、窓の外を見る。
北の森。
白く沈黙する大地。
「……動かない」
その言葉は、冷たくもあり、重くもあった。
「動かない、のではない」
ヴァルドは、ゆっくりと言い直す。
「動く準備を、誰にも見せずに整える」
重臣たちの目が、一斉に上がった。
「王都は、“理解不能”とした。
それはつまり――」
ヴァルドは、振り返る。
「理解した瞬間に、手遅れになると分かっているということだ」
誰も、否定しなかった。
北は、知っている。
見えない脅威ほど、
“理解不能”と片付けた瞬間から、
雪崩のように崩れ始めることを。
「軍は動かさない」
ヴァルドは続ける。
「旗も掲げない。
使者も出さない。
王都には、何も言わない」
「……それは」
「沈黙だ」
はっきりと、そう言った。
「北方公爵家は、沈黙する」
家宰が、静かに問い返す。
「……理由は?」
ヴァルドは、一瞬だけ目を伏せた。
脳裏に浮かんだのは、かつて一度だけ会った男の顔。
辺境の伯爵。
民を守るために、王国と敵対した男。
そして――
王都が“処理”した存在。
「……王都が間違えた時」
ヴァルドは、低く言った。
「その“後始末”をするのが、北の役目だ」
重臣の一人が、息を呑んだ。
「それは……」
「英雄が間違え、
王都が目を逸らし、
教会が口を閉ざした後に残るもの」
ヴァルドは、ゆっくりと席に戻る。
「それは、いつも北が引き受けてきた」
沈黙が、再び落ちる。
だが今度は、最初とは違う。
決断が終わった後の沈黙だった。
家宰が、最後に確認する。
「……勇者殿が、もし戻らなかった場合は?」
ヴァルドは、即答した。
「その時は」
一拍。
「“もう始まっている”ということだ」
誰も、言葉を続けなかった。
ただ一つ確かなのは――
この夜、北方公爵家は、
王都を見限ったのでも、
勇者を見捨てたのでもなく、
“最後まで黙る”ことを選んだという事実だけだった。
沈黙は、逃避ではない。
沈黙は、
備えの最終形だった。




