勇者を見返した瞬間
見えていた。
あの男の顔が。
森の向こう、歪みの縁。
こちらを見据える視線の奥に、かつて自分を見下ろしていた眼差しが、確かにあった。
――勇者。
名を思い出すのに、時間はかからなかった。
忘れるはずがない。
処刑台の下。
剣を抜くこともなく、ただ“立ち会った”男。
「……そうか」
声が、音にならずに漏れた。
もう喉は動かない。
息も、鼓動もない。
それでも、思考は鮮明だった。
あの夜から、どれほどの時間が経ったのかは分からない。
日も夜も、意味を持たない。
あるのは――
溜まり続ける記憶と、冷え切らない憎悪だけだ。
(見ているな)
アレインは、勇者を見返した。
正確には――
**“観測した”**と言った方が近い。
恐怖。
困惑。
理解不能なものを前にした、人間特有の感情。
それらが、手に取るように分かる。
(……脆い)
かつてなら、そんな感想は抱かなかっただろう。
勇者は、強かった。
正義の象徴だった。
少なくとも、王国はそう定義していた。
だが今――
アレインの視界に映るそれは、ただの素材だった。
感情を持つ器。
恐怖を孕む魂。
「……ふ」
笑おうとして、口角が動かないことに気づく。
代わりに、空間が軋んだ。
周囲に立たせている“残滓”たちが、微かに反応する。
彼らは、もう人間ではない。
だが完全なアンデッドでもない。
途中だ。
グランデールも、そうだった。
焼かれ、裂かれ、殺された民。
名を呼ばれることもなく死んだ者たち。
だが――
まだ、終わっていない。
(……王国は、何も理解していない)
勇者の背後に、剣聖と聖女がいるのが見える。
結界、祈り、警戒。
無意味だ。
神など、ここには届かない。
祈りは、とうに拒絶されている。
拒絶しているのは――
自分だ。
(……壊す)
その言葉が、自然に浮かぶ。
激情ではない。
衝動でもない。
当然の帰結として。
王国は、グランデールを壊した。
民を殺し、土地を焼き、名を消した。
ならば――
同じことを、返すだけだ。
ただし、より徹底的に。
より、長く。
(……王都から始める必要はない)
視線を、勇者から外す。
見返す必要は、もうない。
あの男は、もう理解した。
自分が対峙しているものが、剣で斬れる存在ではないと。
(……次は)
無意識に、地の奥を“感じ取る”。
魔力が、染み込んでいる。
血と骨と、叫びの残滓が、土壌そのものを変えている。
ここはもう――
墓地ではない。
苗床だ。
(……起きろ)
命令ではない。
願いでもない。
“当然そうなる”という認識。
地が、微かに震えた。
消えた部隊の魂が、完全に沈む。
形を失い、意思を失い――
それでも、消えない。
(……まだ足りない)
アレインは理解していた。
今の自分では、まだ王国は壊せない。
恐怖を与えることはできても、終わらせることはできない。
だが――
増える。
人は、必ず来る。
勇者が見た以上、王都は動く。
教会も、北も、軍も。
そのすべてが――
素材になる。
(……グランデール)
その名を思い浮かべた瞬間、
胸の奥で、何かが軋んだ。
後悔か。
怒りか。
もう、区別はつかない。
だが一つだけ、はっきりしている。
(……もう一度、立たせる)
城壁を。
街を。
民を。
同じ形でなくていい。
同じ魂でなくてもいい。
“存在していた”という事実だけは、消させない。
勇者の一行が、撤退の気配を見せる。
正しい判断だ。
今夜は、まだ早い。
アレインは、森の闇へと意識を沈めた。
次に会うとき――
彼らはもう、“見る”だけでは済まない。
この世界は、
自分の復讐を中心に、再編される。
それを、誰も止められない。




