勇者の視認
最初に異変に気づいたのは、聖女だった。
「……音が、戻っています」
夜の森。
わずかに風が流れ、葉が擦れる音がする。
それ自体は、自然だった。
だが――
**“戻ってきた”**という言い方が、異常だった。
「どういう意味だ」
剣聖が問い返す。
「これまで、ここには音がありませんでした」
聖女は、足元の地面に目を落とす。
「虫も、獣も、風さえも。
まるで――“拒絶されていた”ように」
レオンは、剣を握り直した。
確かに、先ほどまでの森は、死んでいた。
今は、生きている。
だがそれは、
“許された”からではない。
「……近いな」
剣聖が低く言う。
「何かが、“近づいている”」
その瞬間だった。
視界の奥――
木々の隙間に、**“歪み”**が生じた。
闇が揺れる。
空間が、呼吸するように伸縮する。
「……魔力反応?」
レオンは即座に感知を広げた。
だが――
反応は、ない。
魔法ではない。
召喚でも、転移でもない。
それなのに、そこには確かに「何か」がいる。
「剣聖」
「見えてる」
剣聖の声が、わずかに掠れていた。
「……あれは」
言葉を、探している。
次の瞬間、
歪みの中から“それ”が、歩み出た。
人の形をしていた。
鎧を纏っている。
王国軍式――いや、少し古い。
兜はなく、顔が見える。
「……」
レオンは、息を止めた。
その顔は、
**“死者のもの”**だった。
皮膚は灰色に乾き、目は濁っている。
だが、腐敗はない。
それどころか――
整いすぎている。
「アンデッド……?」
剣聖が、即座に剣を構えた。
「違う」
聖女が、震える声で否定する。
「これは……違います」
その“それ”は、こちらを見ていない。
いや――
見ているのに、認識していない。
空を仰ぎ、ゆっくりと歩いている。
まるで、
**“誰かを待っている”**かのように。
「……兵だ」
レオンは、確信した。
「消えた部隊の一人だ」
距離は、二十歩。
十分に斬れる。
十分に祓える。
だが――
誰も、動けなかった。
なぜなら、“それ”の背後に――
さらに歪みが広がったからだ。
一人、二人、三人。
次々と、人影が現れる。
全員、王国軍の装備。
全員、顔が分かる。
「……全員、連れていかれた者たちだ」
剣聖の声が、低く沈む。
「……いや」
聖女が、首を振った。
「“連れていかれた”のではありません」
彼女は、涙を浮かべながら言った。
「“残された”のです」
その言葉の意味を、レオンは理解できなかった。
だが次の瞬間、
それらの影が、一斉に“止まった”。
そして――
同時に、首を回した。
こちらを、見た。
その目には、意思があった。
だがそれは、
生前のものではない。
「……勇者」
聖女が、喉を震わせる。
「見てください。
彼らの“奥”を」
レオンは、視線を凝らした。
説明できない。
だが、見えた。
彼らの背後――
空間の“向こう側”。
そこに、影が立っている。
大きくない。
人一人分。
だが――
存在感が、すべてを圧していた。
「……あれが」
剣聖が、歯を食いしばる。
「“本体”か」
影は、動かない。
ただ、こちらを見ている。
顔は見えない。
だが、視線だけは、確実に感じる。
(……見られている)
レオンの背中に、汗が流れた。
勇者として、数えきれない戦場に立った。
魔王軍幹部とも、竜とも戦った。
だが――
“見られる側”になったことは、一度もない。
「……違う」
レオンは、無意識に呟いた。
「これは……敵じゃない」
「勇者?」
「“裁く側”だ」
影が、わずかに首を傾けた。
それだけで、
周囲の兵の影が、一歩前に出る。
剣を抜く動作。
魔法詠唱の兆候。
「来るぞ!」
剣聖が叫ぶ。
だが――
その瞬間。
影が、指を鳴らした。
音は、小さかった。
だが世界が、ひっくり返った。
視界が歪む。
重力が、消える。
レオンは、地面に膝をついた。
(……何だ、これは)
魔力が、削られていく。
奪われるのではない。
“使う意味を失わされていく”。
聖女が、悲鳴を上げた。
「――神よっ!」
だが、奇跡は起きない。
祈りが、届かない。
影が、初めて言葉を発した。
声は、低く、静かだった。
「……まだ、来るには早い」
それは、誰に向けた言葉か分からない。
だが、確実に――
勇者に向けられている。
「……名を名乗れ!」
レオンは、必死に叫んだ。
影は、答えなかった。
ただ、背後の兵の影たちが、霧のように溶けていく。
そして――
影もまた、歪みの中へ戻っていった。
すべてが、元に戻る。
森の音。
焚き火の音。
だが――
勇者の世界だけが、戻らなかった。
「……見たな」
剣聖が、呆然と呟く。
「……ああ」
レオンは、剣を支えに立ち上がった。
膝が、震えている。
(……これは)
胸の奥で、確信が形になる。
(……“反乱の残党”じゃない)
(……国家でも、魔王軍でもない)
(……もっと、個人的で)
(……もっと、怨念に近い)
無意識に、その名が浮かぶ。
処刑台で、空を見上げた男。
「……アレイン」
誰にも聞こえない声で、勇者は呟いた。
この夜、
勇者は初めて理解した。
討伐とは、倒すことではない。
そして――これは、終わった戦争の続きなのだと。




