勇者は撤退命令を破れない
それは、あまりにも簡素な命令だった。
一枚の羊皮紙。
短い文。
余計な言葉は一切ない。
「王命。
本隊および別動隊は、これ以上の前進を禁じる。
即時、後退せよ」
焚き火の赤が、封蝋の王紋を照らしている。
紛れもない、王都からの正式命令だった。
レオン――勇者は、最後まで読み終えたあと、紙を折り畳み、膝の上に置いた。
すぐには声を出さない。
火の爆ぜる音だけが、夜に響いている。
「……撤退、ですか」
ようやく漏れた言葉は、静かすぎて、どこか他人事のようだった。
剣聖が鼻で笑う。
「冗談だろ」
短く、だが苛立ちを隠さない声だった。
「この状況で“即時後退”?
王都は、ここを見てねえ」
レオンは否定しなかった。
その視線は、焚き火の向こう、闇の森に向けられている。
そこには、敵影がない。
だが――
消えた痕跡だけが、異様な密度で残っている。
「……被害報告は?」
問いかけると、斥候役の兵が一歩前に出た。
「本日も、確認できておりません」
「“被害なし”という意味ではありませんね」
「はい。
“確認できない”という意味です」
同じ報告が、ここ数日続いている。
敵が見えない。
だが、前進した部隊が戻らない。
戦闘痕も、死体も、負傷者も――
何も残らない。
「……静かすぎる」
剣聖が低く呟いた。
夜の森なら、虫の声があるはずだった。
獣の気配もあるはずだ。
だが今は、風が葉を揺らす音すら、どこか歯切れが悪い。
「聖女」
レオンは、隣に立つ彼女を見た。
「教会からの追加連絡は?」
聖女は、一瞬だけ視線を伏せ、それから別の書状を差し出した。
王命とは異なる封印。
聖教会のものだ。
「……歯切れが、悪いですね」
レオンはそれを読み、すぐに理解した。
そこには、具体的な指示が何もなかった。
――「これ以上の調査については、勇者殿の判断に委ねる」
「判断を……委ねる?」
剣聖が眉をひそめる。
「丸投げじゃねえか」
「違います」
聖女は、静かに首を振った。
「これは……“責任を取れない”という意味です」
その言葉が、焚き火の熱とは逆に、場を冷やした。
王は撤退を命じた。
教会は判断を避けた。
そして――北方公爵家からは、何の連絡もない。
(……誰も、“終わった”とは言っていない)
レオンは、無意識に拳を握りしめていた。
「戻るべきだ」
剣聖が言う。
「命令違反は、後が面倒だ。
勇者であっても、例外じゃねえ」
「分かっています」
レオンは、ゆっくりと頷いた。
理屈は、理解している。
命令を破れば、政治は容赦しない。
だが――
彼の視線は、再び森の奥へ向いた。
そこだけ、闇が濃い。
光が、吸い込まれているように見える。
「……剣聖」
「なんだ」
「もし、今戻ったら」
言葉を選びながら、続ける。
「この先で何かが起きても、
それは“知らなかった”で済まされると思いますか」
剣聖は、即答しなかった。
代わりに、地面に落ちているものを拾い上げる。
それは、王国軍の徽章だった。
血は乾いている。
だが、周囲に死体はない。
「……全部、持っていかれてる」
「ええ」
聖女が、目を伏せる。
「魂ごと、です」
その瞬間、レオンの背筋に、冷たいものが走った。
「……魂?」
「はい」
聖女は、確信をもって言った。
「ここで消えた人たちは、
死者として、戻っていません」
「それって……」
「弔えない、ということです」
焚き火が、ぱちりと音を立てた。
「……そんな存在、聞いたことがない」
剣聖が低く言う。
「あります」
聖女は、ためらいながら答えた。
「教会の、最も古い禁書にだけ」
レオンは、息を吐いた。
禁書。
沈黙。
撤退命令。
すべてが、同じ方向を指している。
「……行きます」
静かに、だがはっきりと宣言した。
「命令は、受け取ります」
「だが、今は戻れない」
剣聖が目を見開く。
「勇者」
「分かっています」
レオンは、真っ直ぐ前を見ていた。
「これは、正義じゃない」
「使命です」
「ここで背を向けたら、
後で必ず、後悔する」
聖女は、何も言わず、一歩前に出た。
それが、答えだった。
「……ちっ」
剣聖は舌打ちし、剣を握り直す。
「付き合うしかねえか」
その夜、勇者一行は撤退しなかった。
王命を破ったわけではない。
“まだ撤退を開始していない”だけだ。
だがその違いが、致命的になると――
レオンは、薄々理解していた。
(……これは、人じゃない)
森の奥で、何かが動いた。
音はない。
気配だけが、確実に増えていく。
「……アレイン」
不意に、その名が口をついた。
英雄。
反逆者。
処刑された男。
なぜ、その名を思い出したのかは分からない。
だが胸の奥で、嫌な符合が重なっていく。
(……まさか)
その可能性を、
勇者はまだ否定したまま、剣を抜いた。
この夜、彼は初めて理解する。
撤退命令とは、
“もう手遅れだ”と悟った者が出すものだということを。
そして――
それを受け取った者は、
もう戻れないということを。




