北の理解
北方公爵家当主――
ヴァルド・フォン・ノルディアは、その報告書を前に、長く沈黙していた。
封蝋は、聖教会のもの。
だが、通常の聖印ではない。
「……これを使ってくるとはな」
低く、呟く。
報告書は、短い。
あまりにも短すぎた。
被害状況の詳細はない。
数も、場所も、原因も、書かれていない。
ただ、最後に一文だけが添えられている。
――「これ以上、確認は不要です」
「……なるほど」
ヴァルドは、書を閉じなかった。
閉じるという行為そのものが、答えになると知っているからだ。
「教会が“確認不要”と言う時は」
側近の老騎士が、声を落として言う。
「すでに、結論が出ている時だけです」
「そうだ」
ヴァルドは、椅子の背にもたれ、天井を仰いだ。
(……王都には、これを理解するだけの冷静さが残っていない)
「被害は」
「不明、としか」
「生存者は」
「一名、いるとの噂はありますが……
教会は、その存在を“確認していない”」
ヴァルドは、ゆっくりと息を吐いた。
「確認していない、か」
それは否定ではない。
肯定もしないという、最悪の態度だ。
「……条件は?」
老騎士が、恐る恐る尋ねる。
ヴァルドは、答えなかった。
代わりに、机の引き出しから一冊の古い手帳を取り出す。
王家の記録でも、教会の文書でもない。
北方公爵家だけが代々受け継いできた覚え書き。
ページをめくる。
「“不死の災厄が現れた時、
最初に滅びるのは、事実を数えようとした者である”」
静かに、読み上げる。
「“生存者が一人だけ残されたなら、
それは警告であり、慈悲ではない”」
老騎士が、拳を握りしめた。
「……一致、しますか」
「する」
短く、断言した。
「教会が“言葉を削った”時点で、確定だ」
「では――」
「名は、聞くな」
ヴァルドは、即座に遮った。
「聞けば、対処を誤る」
「……」
「教会が名を伏せた理由を考えろ」
それは、配慮ではない。
危険だからだ。
名を知れば、感情が動く。
怒り、恐怖、過去。
そして判断が遅れる。
「北は、どう動きますか」
老騎士の問いは、震えていた。
ヴァルドは、しばらく黙っていたが、やがて言った。
「……動かない」
「しかし――」
「“今は”だ」
椅子から立ち上がり、窓辺へ歩く。
北の夜は、深く、静かだ。
風は冷たいが、澄んでいる。
「北が動けば、王都は安心する」
「安心して、誤る」
「だから、沈黙する」
老騎士は、理解した。
これは臆病ではない。
時間を稼ぐための沈黙だ。
「教会は、それを分かってこの書を寄越した」
「察してくれ、と」
「言葉にすれば、縛られる」
ヴァルドは、ゆっくりと振り返った。
「だが、沈黙は自由だ」
「……勇者殿は」
「すでに、現地だろう」
「撤退命令が出たと聞いています」
ヴァルドは、目を閉じた。
「……ならば、勇者は“見る”」
「見れば、理解する」
「そして――」
「戻らない、かもしれません」
「戻らない方がいい」
その言葉は、あまりにも重かった。
「北は、いつ動くのですか」
老騎士が、最後に問う。
ヴァルドは、窓の外を見たまま答えた。
「教会が、もう一通寄越した時だ」
「それは――」
「沈黙を破れ、という合図だ」
風が、城壁を打った。
その夜、北方公爵家は軍を動かさなかった。
備蓄も、動員も、表向きは何も。
だが――
見えないところで、歯車は静かに噛み合い始めていた。
王都が「過剰反応」と切り捨て、
教会が「言葉を失い」、
勇者が「現実を見始めた」その時、
北は、すでに理解を終えていた。
そして、沈黙という答えを選んだ。
それが、
最も遅く、最も正しい対応だと知っていたから。




