北が沈黙する理由
北方の城は、いつも静かだ。
雪に閉ざされた山脈の奥。
ヴァルド・フォン・ノルディアは、その執務室で一人、
分厚い羊皮紙を机に広げていた。
灯りは最低限。
火鉢の熱だけが、かすかに室内を温めている。
「……来たか」
扉を叩く音は、ほとんどしなかった。
それでも、ヴァルドは気配で分かった。
「入れ」
扉が開き、
老執事が一礼して入ってくる。
「王都より、急使です」
「内容は」
「……勇者一行、現地より撤退とのこと」
その言葉に、
ヴァルドの手が、ぴたりと止まった。
沈黙。
火鉢の炭が、ぱちりと音を立てる。
「……そうか」
それだけだった。
老執事は、
一瞬、言葉を探すように口を開きかけたが、
何も言わず、静かに下がった。
執務室に、再び静寂が戻る。
「……やはり、か」
ヴァルドは、ゆっくりと椅子に深く座り直した。
撤退。
それは、敗北ではない。
恐怖でもない。
“確認が終わった”という判断だ。
「王都は……気づいたな」
だが。
「……遅すぎる」
そう呟いた声は、
誰に聞かせるでもなかった。
⸻
ヴァルド・フォン・ノルディアは、
かつて、辺境伯家と国境を接していた。
いや、正確には――
グランデールが、まだ町であった頃。
その領主、
アレイン・フォン・グランデール。
若すぎる伯爵。
異常な戦歴。
そして、
民に異様な忠誠を向けられていた男。
「……愚直なほど、真っ直ぐだった」
ヴァルドは、机の引き出しから一通の書簡を取り出す。
封は、切られている。
古いものだ。
アレインから届いた、
最後の私信。
「もし、私が王国に見捨てられたなら
北だけは、民を見捨てないでほしい」
文字は、丁寧だった。
怨嗟も、恨みも、
一切書かれていない。
ただ、
他者を案じる言葉だけ。
「……愚か者め」
そう呟きながら、
ヴァルドの指は、紙を破らなかった。
破れなかった。
⸻
北方公爵家は、
王都よりも早く、異変を知っていた。
第二波の消失。
第三波での“軍ごと消える”事象。
そして、
生存者が増えないという報告。
「戦闘ではない」
「侵略でもない」
「……あれは、“回収”だ」
側近の一人が、そう言った夜。
ヴァルドは、否定しなかった。
否定できなかった。
なぜなら。
「……条件が、揃いすぎている」
処刑された英雄。
民の大量死。
国家による断罪。
無念と怒り。
そして――
信仰心の否定。
「聖教会が、歯切れ悪くなるわけだ」
ヴァルドは、目を閉じた。
北が沈黙していた理由。
それは、
“まだ名前を出してはいけない段階”だったからだ。
だが。
勇者が撤退した。
それはつまり――
「……あれを、
勇者ですら“敵と認識できなかった”ということだ」
勇者は、魔族を斬るための存在。
人を、斬らない。
人でない“何か”を、
定義できなかった時、
勇者は、剣を振るえない。
「……王都は、まだ理解していない」
理解したと思っているだけだ。
「範囲縮小で済むと、
本気で思っている」
ヴァルドは、立ち上がった。
窓を開けると、
冷たい北風が、雪を巻き込んで吹き込む。
遠く、
山脈の向こう。
グランデールの方角。
「……すまないな、アレイン」
その名を、
ここで初めて、声に出した。
「お前が“敵”になる前に、
我々が動けなかった」
「だが……」
ヴァルドの目が、細くなる。
「勇者が引いた以上、
もう“時間稼ぎ”は終わりだ」
北が沈黙していたのは、
準備のため。
そして今。
「……沈黙は、破る」
それは、
王国に刃を向けるという意味ではない。
だが。
王都の判断を、受け入れないという宣言だった。
⸻
夜更け。
北方公爵家の会議室に、
限られた者だけが集められた。
「勇者撤退、確認しました」
「聖教会は?」
「沈黙です」
「……なら、確定だな」
誰も、声を荒げない。
誰も、否定しない。
「“リッチ”」
その言葉を、
誰もが、胸の内で飲み込んだ。
まだ、
口に出してはいけない。
だが。
「王都は、
次は“勇者に任せればいい”と言うでしょう」
「……そうなるな」
ヴァルドは、静かに言った。
「だが、
それでは、間に合わない」
「勇者は、
“人を殺せない”」
「なら、
我々がやるしかない」
北方公爵家が、
王国の最前線に立つ。
それは、
久しくなかった決断だ。
「……準備を」
短い命令。
それだけで、十分だった。
⸻
その夜。
ヴァルドは、再び書簡を手に取った。
アレインの、文字。
「……民を、守るために戦った男が」
「国家に、切り捨てられた末路が、これか」
だが。
「ならば、
北は、せめて“終わらせ方”を選ぶ」
それが、
この国に生きる者としての、
最低限の責任だと信じて。
「……待っていろ、アレイン」
それは、
救済の言葉ではない。
討伐の宣言でもない。
ただ――
逃げ場を与えない、覚悟の言葉だった。




