もう隠せない
その夜、聖都は異様な静けさに包まれていた。
鐘は鳴らない。
祈りの声も、回廊を満たす詠唱もない。
あるのは、重く閉ざされた会議室と、
その中に集められた、ごく限られた者たちだけだった。
「……北が、動いたそうだな」
聖教会最高司祭――
エルグラードは、低く言った。
卓を囲む者たちは、誰一人として即座に答えない。
沈黙が肯定であることを、全員が理解していた。
「非公式とはいえ、
勇者陣営への接触を試みた形跡がある」
そう告げたのは、文書管理局の老司祭だった。
「ヴァルド・フォン・ノルディア……
あの男が、ついにか」
エルグラードは、目を閉じる。
(時間切れ、か)
その言葉が、脳裏に浮かんだ。
聖教会は、知っていた。
最初からではない。
だが、処刑の直後には、すでに気づいていた。
「……再確認する」
エルグラードは、卓上の古文書に手を置いた。
それは、公式には存在しない書だ。
聖教会でも、ごく一部の高位者しか閲覧を許されていない。
ページをめくる音が、やけに大きく響く。
『英雄級魔力反応、死後も消えず。
名を奪われ、裁かれし者に顕著』
『信仰によらず、怨嗟と後悔のみで留まる魂あり』
『条件が重なった場合――
“死してなお意思を保つ存在”へ転ずる危険』
老司祭が、声を絞り出す。
「……一致、しております」
「すべてだ」
別の司祭が、震える声で続けた。
「英雄であること」
「国家からの断罪」
「民の大量死」
「そして……
勇者による処刑」
言葉が、宙に落ちた。
誰も否定できなかった。
「――“リッチ”」
誰かが、ついにその語を口にした。
一瞬、空気が凍る。
エルグラードは、ゆっくりと頷いた。
「……ああ」
「だが、
我々は“そうだ”とは言えなかった」
司祭の一人が、苦悩の表情で言う。
「王都は、反乱として処理したがっていた」
「勇者は、裁きを下した」
「今さら真実を告げれば、
教会は“共犯”になる」
「そして」
エルグラードは、静かに続けた。
「勇者を、壊す」
その言葉に、何人かが目を伏せた。
「勇者は、
自分が処刑した相手が“人でなくなった”と知れば……」
「耐えられぬでしょう」
「信仰も、剣も、折れる」
エルグラードは、唇を噛んだ。
(だから、沈黙した)
(だから、“異変”として処理した)
(だから、範囲を縮め、
犠牲を受け入れる道を選んだ)
だが――
「北は、違う」
エルグラードは、目を開いた。
「ヴァルドは、
最初から“英雄”を見ていた」
「国家ではない」
「反乱でもない」
「一人の男として」
沈黙。
その意味を、全員が理解する。
「北が動いた以上」
エルグラードは、重く言った。
「勇者は、真実に辿り着く」
「現地を見れば、
“反乱軍”では説明できないと気づく」
「教会の沈黙も、
王都の判断も」
「すべて、線になる」
老司祭が、恐る恐る問う。
「では……どうするのですか」
エルグラードは、答えなかった。
代わりに、古文書の最後の一節を開く。
そこには、別の言葉があった。
『もし、
彼が完全に“死者”となる前に接触できれば』
『理性は、まだ残る可能性あり』
『ただし――
その時、彼は“裁いた者”を決して赦さぬ』
エルグラードは、静かに本を閉じた。
「……もう、隠せない」
それは、敗北宣言だった。
「だが」
彼は、顔を上げる。
「“最悪”だけは、避ける」
「勇者に、
すべてを一度に背負わせるわけにはいかない」
「北が動くなら」
一拍。
「教会も、動く」
司祭たちが、ざわめく。
「公式に、ですか?」
「いいや」
エルグラードは、首を振る。
「公式には、何も言わない」
「だが――」
「準備だけは、始める」
「討伐ではない」
「封印でもない」
「……対話の準備だ」
その言葉に、誰かが息を呑んだ。
「相手は、リッチですよ……?」
「それでもだ」
エルグラードは、断言した。
「彼は、
“最初から魔だったわけではない”」
「そこを、忘れてはならない」
会議室に、長い沈黙が落ちる。
やがて、鐘が一つ鳴った。
夜明けを告げるには、まだ早い時刻。
だが――
聖教会は、この夜、理解した。
もはやこれは、
異変ではない。
事件でもない。
反乱でもない。
“英雄の死後譚”だ。
そして、
北が動いた今。
物語は、
誰にも止められないところまで来ていた。




