北が沈黙していた理由
北方公爵家、ノルディア公爵邸。
石造りの広大な館は、王国北端の要衝にして、幾度もの魔族侵攻を退けてきた要塞でもあった。
その中枢に位置する執務室は、常に冷えている。
暖炉はあるが、火は入れられていない。
「……勇者が、動いたか」
低く、重い声が響いた。
北方公爵家当主――
ヴァルド・フォン・ノルディア。
白銀に近い灰色の髪。
深い皺を刻んだ顔は老境に差しかかっているが、その眼光は、今なお戦場のそれだった。
「はい」
答えたのは、家宰の老人。
「王都からの非公式筋です。
勇者レオン、聖女、剣聖の三名。
独断に近い形で、異変地域へ向かう模様」
ヴァルドは、ゆっくりと目を閉じた。
――来るべき時が来た。
それが、率直な感想だった。
「……あの若者が動いたか」
「ええ。
王都は優先度を下げましたが、勇者は納得していないようです」
「当然だ」
ヴァルドは、椅子の背にもたれ、天井を仰いだ。
「教会の沈黙」
「我々の沈黙」
「それらを無視できるほど、勇者は鈍くない」
家宰は、慎重に言葉を選ぶ。
「では……我々も、動くべきかと?」
ヴァルドは、すぐには答えなかった。
机の上には、開かれたままの古い記録がある。
王国史にも、教会史にも載らない、北方公爵家だけが保管してきた文書。
その一節に、彼の視線は向けられていた。
『名を奪われし英雄、
血と怨嗟に沈み、
民の死を背負いし者。
もし死してなお、意思を捨てぬなら――』
ヴァルドは、静かに呟く。
「……リッチ」
家宰の背筋が、凍りついた。
「まさか……」
「“まさか”ではない」
ヴァルドは、目を開く。
「条件は、すべて揃っている」
「名を奪われた英雄」
「国家に裏切られ」
「民を守れなかったという、耐えがたい後悔」
「そして、処刑」
「……それでも」
家宰は、声を震わせる。
「処刑は、勇者の手で――」
「だからこそだ」
ヴァルドは、重く言った。
「中途半端な処刑ほど、
怨念を濃くするものはない」
沈黙。
暖炉のない部屋が、さらに冷たく感じられる。
「では……我々は」
「動けない」
ヴァルドは、即答した。
「今、北が動けば、
王都は“確信”を得る」
「反乱の証拠だと騒ぎ立て、
勇者に討伐を命じるだろう」
「それは……」
「最悪の結末だ」
ヴァルドは、拳を握る。
(アレイン)
その名を、声には出さなかった。
(お前は、
まだ“敵”ではない)
(だが――)
視線を、窓の外に向ける。
北の空は、暗い。
常に吹く冷たい風が、雪を運んでくる。
「勇者が行けば」
ヴァルドは、静かに続けた。
「真実が、見えてしまう」
「王都が隠したかったもの」
「教会が言えなかったもの」
「……すべて」
家宰は、唇を噛む。
「では、なぜ我々は沈黙してきたのですか」
ヴァルドは、答えた。
「時間を稼ぐためだ」
「そして」
一拍。
「覚悟を決めるためだ」
家宰は、はっと顔を上げる。
「覚悟、とは……」
「もし、あれが本当に“彼”なら」
ヴァルドは、低く、確かな声で言った。
「北は、
王都の側には立てない」
空気が、張り詰める。
それは、
反逆に等しい言葉だった。
「王国を裏切るのですか」
「違う」
ヴァルドは、首を振る。
「王国が、
先に裏切ったのだ」
机の文書を、ゆっくりと閉じる。
「英雄を捨て」
「民を捨て」
「その結果、生まれた“もの”を、
さらに切り捨てようとしている」
「それは、国家ではない」
「ただの、臆病な権力だ」
しばしの沈黙。
やがて、ヴァルドは立ち上がった。
「使者を用意しろ」
家宰が、息を呑む。
「どこへ……?」
「勇者だ」
「非公式に接触する」
「そして――」
一瞬、言葉を選ぶ。
「最悪の場合、
北は“仲介者”になる」
「……英雄と、王国の」
家宰は、深く頭を下げた。
「承知しました」
扉が閉じられ、執務室に一人残される。
ヴァルドは、独り言のように呟いた。
「……アレイン」
「お前は、
どこまで堕ちた?」
「それとも――」
目を閉じる。
「まだ、人か」
北方公爵家が沈黙していた理由。
それは、恐怖でも、無関心でもない。
“選べなかった”からだ。
だが今。
勇者が動いた。
教会が揺れた。
沈黙は、もう保てない。
北が動けば、
王国は二度と元には戻らない。
その覚悟を胸に、
ヴァルド・フォン・ノルディアは、
静かに決断の夜を迎えていた。




