沈黙が意味するもの
中央神殿・深層書庫。
そこは、信徒にも司祭にも開かれない場所だった。
厚い石壁に囲まれ、
天井は高く、光は最小限に抑えられている。
灯されているのは、
魔導灯と、祈祷用の燭台のみ。
紙と革と、古いインクの匂い。
そして、
時代に置き去りにされた“記録”の重み。
長机の周囲に集まっているのは、
聖教会でも指折りの者たちだった。
大司教代理、神学長、記録司、異端審問官。
誰もが口を閉ざし、
机の中央に置かれた一枚の報告書を見つめている。
「……北から、返答がない?」
最初に口を開いたのは、神学長だった。
声は低く、感情は抑えられている。
「正式な照会は、三度」
記録司が答える。
「非公式の使者も含めれば、五度です」
「それでも、沈黙?」
「はい」
部屋に、冷たい空気が流れた。
異端審問官が、ゆっくりと腕を組む。
「北方公爵家が?」
「ノルディアが?」
「……ありえませんね」
誰も、否定しなかった。
北方公爵家は、
王国でも屈指の実務派であり、
危機において沈黙する家ではない。
「では――」
大司教代理が、言葉を選ぶ。
「沈黙しているのではなく、
沈黙を選んだ」
その瞬間、
全員が同じ結論に辿り着いた。
神学長が、ゆっくりと目を閉じる。
「……知ったのですね」
誰も、問い返さない。
「知ってしまった」
「だから、動けない」
「だから、言葉を発せない」
それは、
信仰よりも重い“理解”だった。
記録司が、震える指で別の書を開く。
「確認します」
分厚い革装丁。
文字は古く、
現代語ではない。
「第三封印期・北方戦役後の記録」
異端審問官が、息を呑む。
「……まさか」
記録司は、淡々と読み上げる。
「――“王国が敵と定め、
名を消した者が、
死後なお、意思を持って立つ例あり”」
「……条件は?」
神学長が問う。
「はい」
記録司は、頁を繰る。
「強い未練」
「大量の死」
「不当な裁き」
「名の抹消」
「そして――」
一瞬、言葉が止まる。
「民に慕われていたこと」
沈黙。
それは、
報告と一致しすぎていた。
大司教代理が、静かに呟く。
「……アレイン」
その名が、
部屋の空気を変えた。
異端審問官が、即座に反応する。
「名は、記録から消されています」
「公文書にも残っていない」
「処刑は、象徴的でした」
神学長が、低く言う。
「だからこそだ」
「名を消した」
「だが――」
目を開け、皆を見る。
「名を消す行為こそが、
条件を満たした可能性がある」
誰かが、息を吸う音がした。
「北は、それに気づいた」
「気づいたから、沈黙した」
「王都は?」
大司教代理の問いに、
誰もすぐには答えられなかった。
「……理解していない」
「あるいは、
理解した上で“認めない”」
異端審問官が、苦々しく言う。
「政治だ」
神学長は、机の上の書を閉じた。
「では、我々は?」
その問いに、
しばし沈黙が続く。
やがて、大司教代理が答えた。
「公式には、何も言えない」
「だが――」
視線を落とす。
「確定したと考える」
「これは、反乱の残党ではない」
「呪いでも、魔族でもない」
「……英雄だ」
その言葉は、
誰も否定しなかった。
「名を消された英雄」
「民を守り、捨てられた者」
「条件は、全て揃っている」
神学長が、最後に言った。
「では、祈ろう」
「そして――」
一拍。
「もう、準備を始めよう」
「討伐ではない」
「封印でもない」
「……対話の準備を」
その瞬間、
燭台の火が、揺れた。
風は、ない。
誰も触れていない。
それでも、確かに。
「……来る」
異端審問官が、呟く。
「ええ」
大司教代理は、頷いた。
「北が沈黙したのだから」
「もう、確定です」
中央神殿の鐘が、
遠くで鳴り始める。
それは、夜の祈りの合図。
だがその音は、
まるで――
死者が、名を取り戻す刻を告げる鐘のようだった。




