動かない北2
北方公爵領・ノルディア。
王国最北端に位置するこの地は、
すでに冬の気配を帯びていた。
空は低く、雲は重い。
冷たい風が、城の外壁を撫でるように吹き抜けている。
ノルディア城・執務室。
暖炉には火が入っているが、
部屋の空気は、張り詰めたままだった。
机の前に立つのは、北方公爵――
ヴァルド・フォン・ノルディア。
白銀混じりの髪を後ろで束ね、
深い皺の刻まれた顔には、
老いよりも“積み重ねた年月”の重みがある。
その前に控えるのは、
長年仕えてきた老執事と、家令、そして軍務補佐官。
机の上には、一通の公文書。
王都から届いた、正式な通達だった。
「……以上が、王都の決定です」
家令が、淡々と読み上げ終える。
部屋に、沈黙が落ちた。
暖炉の薪が、ぱちりと音を立てる。
ヴァルドは、しばらく何も言わなかった。
文書を手に取ることもなく、
ただ、机の上に置かれたままのそれを見ている。
「――勇者の警告は?」
ようやく、低い声が響いた。
家令が、一瞬だけ言葉を詰まらせる。
「……“配慮した”と、記されています」
「配慮、か」
ヴァルドは、短く息を吐いた。
「つまり――」
視線を上げ、家令を見る。
「理解した上で、無視した」
否定の言葉は、返ってこなかった。
軍務補佐官が、唇を噛む。
「公爵……」
「言うな」
ヴァルドは、静かに制した。
怒声ではない。
だが、誰も逆らえない声だった。
彼は、椅子に深く腰を下ろし、
ゆっくりと目を閉じる。
思い出すのは、数日前。
勇者が、密かに北へ送ってきた報告。
直接的な言葉は避けられていたが、
行間から滲み出る焦りと違和感。
――人ではない可能性。
――死者の行動。
――知ってしまった者の沈黙。
そして、
アレインという名。
「……やはり、だな」
ヴァルドは、独り言のように呟いた。
老執事が、一歩前に出る。
「公爵。
我らは、どう動きましょうか」
「どう動く、か」
ヴァルドは、目を開ける。
その瞳には、怒りも悲しみもない。
あるのは、
決定を下す者の目だけだった。
「動けぬ」
その一言で、空気が凍る。
軍務補佐官が、思わず声を上げた。
「しかし!
このままでは――」
「だからだ」
ヴァルドは、遮る。
「このままだからこそ、動けぬ」
彼は、ゆっくりと言葉を重ねる。
「王都は、選んだ」
「勇者の警告を、理解した上で切り捨てた」
「それはつまり――」
一拍、間を置く。
「王国として、この事態を“処理可能”と判断したということだ」
老執事が、眉を伏せる。
「……もし、それが誤りであれば」
「その責任は、王都が負う」
ヴァルドの声は、冷たいほど落ち着いていた。
「北が動けば、どうなる?」
誰も答えない。
「王命に背いたと見なされる」
「勇者の警告を“事実”として扱ったと証明することになる」
「それは即ち、
王都の判断を否定することだ」
軍務補佐官が、歯噛みする。
「ですが、公爵は分かっているのでしょう!
これは――」
「分かっている」
ヴァルドは、即答した。
「だからこそ、沈黙する」
部屋に、重い静寂が広がる。
「北方公爵家が動くのは、
王国が“間違えた”と認めた後だ」
「その時、我らは――」
言葉を切り、目を閉じる。
「最後の盾として立つ」
老執事が、深く頭を下げた。
「……承知しました」
軍務補佐官は、拳を握り締める。
「では、何もせずに――」
「いや」
ヴァルドは、静かに首を振った。
「準備はする」
「兵を整えよ」
「物資を蓄えよ」
「記録を集めよ」
「だが、動くな」
「問いかけるな」
「警告も、再度は送るな」
その一つ一つが、
決別の言葉だった。
「王都は、選んだ」
ヴァルドは、再び文書を見る。
「ならば、北も選ぶ」
「沈黙を」
窓の外。
冷たい風が、城壁を叩く。
まるで、
迫り来る何かの前触れのように。
「……アレイン」
その名を、誰にも聞こえぬほど小さく呟く。
「お前が、そこまで追い詰められていたとはな」
そして、静かに言葉を続けた。
「勇者よ」
「お前の警告は、正しかった」
「だが、国は――」
「正しさより、都合を選んだ」
ヴァルドは、背もたれに身を預ける。
その姿は、
老いた貴族ではなく。
**来るべき破局を見据え、
なお動かぬことを選んだ“最後の理性”**だった。
その夜。
北方公爵家は、
完全な沈黙に入った。
そしてその沈黙こそが――
後に、王国が最も恐れることになる。




