動かない北
王都の軍議室は、かつてないほど騒がしかった。
地図が広げられ、報告書が積み上げられ、
鎧の擦れる音と、苛立った声が絶え間なく響く。
「北部第三調査隊、消息不明!」
「第四騎士団、交戦後に連絡断絶!」
「生存者は――なし!」
誰もが、声を荒げていた。
だが、その中心に座る青年だけは、
終始、言葉を発していなかった。
勇者――
王国が選び、聖剣が認めた存在。
彼は、地図の一点を見つめていた。
北部。
かつての辺境都市、グランデール周辺。
赤い印が、幾つも重ねられている。
「……被害が、増えすぎている」
勇者の呟きに、軍議室が一瞬静まる。
隣に立つ参謀が、慌てて補足する。
「敵性存在が不明である以上、被害が出るのはやむを――」
「そうじゃない」
勇者は、顔を上げた。
「“増え方”が、不自然だ」
参謀は、言葉に詰まる。
確かにそうだった。
調査隊。
斥候。
騎士団。
いずれも、撤退報告すら残していない。
「まるで……」
勇者は、言葉を選ぶ。
「観察されているみたいだ」
その一言で、空気が冷えた。
誰かが、咳払いをする。
「勇者殿、それは考えすぎかと」
発言したのは、王国軍将軍の一人だった。
「敵は、ただの反乱残党か、魔物の変異でしょう。
北方公爵家も沈黙していますし、大事には至らぬかと」
――その言葉。
勇者は、そこに引っかかりを覚えた。
「……北方公爵家が、沈黙?」
「はい」
将軍は、当然のように答える。
「討伐要請は送られていますが、未だ返答なし。
しかしノルディア家は慎重な家柄。
準備に時間がかかっているのでしょう」
勇者は、ゆっくりと首を振った。
「違う」
室内が、再び静まる。
「ノルディア家は、慎重だが――
遅れない」
参謀が、眉をひそめる。
「……勇者殿は、北方公爵家と?」
「直接ではない」
勇者は、言葉を続ける。
「だが、彼らの戦史は読んだ」
王国の誰よりも、
勇者は“戦争”を学ばされてきた。
「ノルディアは、王国が揺れた時、必ず最初に動く家だ」
「それが、今回は動かない?」
将軍が、苦笑する。
「それはむしろ好都合では?
北が動かずとも、我々が討伐すれば――」
「そういう問題じゃない」
勇者は、珍しく語気を強めた。
「彼らが沈黙するのは、
動くと決めていないからじゃない」
一拍置いて。
「動くべきではないと判断したからだ」
その言葉に、誰も反論できなかった。
「……理由は?」
参謀が、恐る恐る尋ねる。
勇者は、地図を指差した。
「ここだ」
グランデール。
処刑台があった地。
「この一帯は、かつて――
一人の英雄が守っていた」
空気が、凍る。
その名を、誰も口にしなかった。
勇者は、続ける。
「彼は、強かった。
だが、それ以上に――
人だった」
「勇者殿……」
「もし、北が沈黙している理由が」
勇者は、言葉を切る。
「“敵が、かつて人だった”からだとしたら?」
将軍が、笑った。
乾いた、否定の笑い。
「馬鹿な。死者が、戦を指揮するなど――」
「聖教会は?」
勇者は、即座に問い返した。
将軍は、言葉に詰まる。
「……歯切れが悪い、との報告は」
「だろうな」
勇者は、立ち上がった。
「北は、気づいている」
「王都は、気づいていない」
「そして――」
視線が、軍議室全体を見渡す。
「気づかないふりをしている」
誰も、否定できなかった。
その夜。
勇者は、聖剣を前に、一人で立っていた。
剣は、沈黙している。
だが――
以前とは違う。
微かに、
拒絶するような気配を感じていた。
「……お前も、分かっているのか」
返事は、ない。
だが勇者は、確信した。
北方公爵家ノルディアの沈黙は、
臆病でも、怠慢でもない。
それは――
知ってしまった者の沈黙だ。
そして。
「このまま進めば……」
勇者は、低く呟く。
「俺たちは、取り返しのつかないものを、
もう一度殺すことになる」
剣は、答えなかった。
だがその沈黙が、
何よりも雄弁だった。




