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名が告げられた夜

北方公爵家ノルディアの城は、夜に沈むと静まり返る。


それは偶然ではない。

この城において、夜は“警戒すべき時間”ではなく、

思考と記憶が最も冴える時間と定められていた。


雪深い北境。

王国の版図の最果てに近いこの地は、

外敵、魔物、反乱、飢饉――

あらゆる「最悪」を想定して築かれてきた。


だからこそ、

夜に騒がしさは不要だった。


報告が届いたのは、そんな静寂の中だった。


厚手の扉が、控えめに叩かれる。


「――失礼いたします」


入室を許す声が響くよりも早く、

老執事は一歩だけ踏み込み、深く頭を下げた。


「王都より、緊急の使者です」


その言葉に、部屋の空気がわずかに変わる。


書斎にいたのは三人。


北方公爵家当主――

ヴァルド・フォン・ノルディア。


白髪交じりの髪を後ろに流し、

分厚い書類を前に、無言で目を落としていた。


その隣に立つのは、長子セイン。

まだ若いが、武人としての緊張を常に身に纏っている。


そして、壁際。

古文書を手にしたまま動かない老騎士が一人。


「通せ」


ヴァルドの声は低く、感情を含まない。


使者は、王都の正規印章が刻まれた筒を差し出した。

封は、破られていない。


ヴァルドはそれを受け取り、

一瞬だけ、指先を止めた。


――嫌な予感が、確信に変わる。


封を切る音が、やけに大きく響いた。


内容は、簡潔だった。


・北部村落、複数消失

・王国軍調査部隊、全滅

・敵性存在、未分類

・聖教会、調査中

・討伐要請、検討段階


そして、最後の一行。


「敵性存在名:アレイン(推定)」


その瞬間。


ヴァルドの手が、止まった。


完全な沈黙が、部屋を支配する。


火の爆ぜる音すら、耳障りに感じるほどの。


「……父上?」


セインが声をかけるが、返事はない。


ヴァルドは、書簡を見つめたまま動かない。


いや――

見ていない。


その目は、過去を見ていた。


老騎士が、一歩前に出る。


「……殿」


その声は、震えていた。


「その名は……」


「言うな」


短く、鋭い制止。


ヴァルドは、ようやく視線を上げた。


「まだ、確定ではない」


だが、

誰一人として、その言葉を信じてはいなかった。


ノルディア家にとって、

その名は“記録”ではない。


戦史そのものだ。


「王都は……何を考えている」


低く呟かれた問いに、答える者はいない。


セインは、歯を食いしばった。


「……処刑されたはずでは?」


それは、確認ではなく、祈りだった。


ヴァルドは、目を閉じる。


「処刑は、事実だ」


「では――」


「だからこそ、だ」


言葉が、重く落ちる。


老騎士が、壁際の棚から一冊の分厚い書を取り出した。

皮革の表紙は、何度も補修されている。


「殿……封印指定の戦時記録です」


「構わん。開け」


書が、机に置かれる。


そこに記されていたのは、

かつて“英雄”と呼ばれた一人の青年の戦歴。


辺境防衛。

魔物殲滅。

補給路確保。

住民避難。


そして――

王国軍を凌駕する戦果。


「……あまりに、出来すぎている」


セインが呟く。


「奇跡ではない。必然だ」


ヴァルドの声は、静かだった。


「彼は、戦争を“理解していた”」


ページが、進む。


粛清命令。

反逆の嫌疑。

裁判。


処刑。


「……間違えたのだ」


老騎士が、絞り出すように言った。


「王国は……彼を」


ヴァルドは、ゆっくりと頷いた。


「使い潰した」


そして。


「捨てた」


再び、沈黙。


だが今度は、

恐怖ではなく、覚悟を伴う沈黙だった。


セインが、顔を上げる。


「父上。もし……もし本当に彼なら」


「討伐ではない」


即答だった。


「これは、戦争でもない」


ヴァルドは、立ち上がる。


窓の外には、雪に覆われた北の大地。


「王都は、また誤るだろう」


「聖教会も、言葉を濁す」


「軍は、数を出して消える」


その全てを、理解した上で。


「――ノルディアは、備える」


老騎士が、深く頭を下げる。


「召集を?」


「まだだ」


ヴァルドは、静かに首を振った。


「これは、力で解決する段階ではない」


「まず――」


書簡を、机に置く。


「なぜ、名が残ったのかを考える」


セインは、拳を握り締めた。


「……彼は、覚えているのでしょうか」


ヴァルドは、答えなかった。


ただ一言。


「夜が覚えているのなら」


そして、低く続ける。


「人が忘れることは、許されない」


その夜。


北方公爵家ノルディアの城では、

鐘は鳴らされなかった。


召集も、布告も、なかった。


だが――

全ての者が、来るべき日を理解した。


アレインという名が、

再び歴史を動かし始めた夜だった。

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